ending
――ending――
「といれ」
ぱちり、と目を開けた美海は、うめくようにそうつぶやいた。生理現象だ致し方がない。立ち上がらなければ大変なことになる。
「むぅ」
しかしながら、彼女の脳裏には未だ、悪霊につるし上げられた瑠美子の姿がへばりついている。もしも三人川の字になって眠るこの安寧の場から抜け出したら、たちまち青白い腕が伸びてきて、頭からぱくりと食いつかれてしまうのではないか。
恐ろしい想像は寒さという現実味を伴って背筋を駆け上がり、美海はぎゅっと体を抱きしめた。
「りんちゃん、りんちゃん」
美海は思わず、親友に声をかける。
「ふんぎゅむむ、わたしはそらのししゃ……」
だが親友は、おいそれと起きるタチではなかった。
「つぐみちゃん、つぐみちゃん」
美海は仕方なく、なにかとすごい新しい友達に声をかけた。
「はりうっど……はりうっど……」
しかし彼女は図太くも、にへにへと時折笑みを浮かべながら、ぐっすりと眠っていた。
「うぅ」
今、己は窮地に立たされている。恐怖をとるか、乙女をとるか。親友の家で三人まとめて巻き込んでしまえば、この八つ当たり気味な鬱憤も晴らせるのではないか。そう、脳裏をよぎる。
「こわくない、こわくない」
迷った時間は短かった。彼女は齢六歳といえど、乙女であるのだ。親友の家で、尊厳を穢すような選択肢をとることはできなかった。
もぞもぞと布団を抜け出して、あわあわと眼鏡をかけて、ぺたりぺたりと自分の足音におびえて歩く。珠里阿がいれば。そんな言葉を胸中で反芻するのは、これで両手の指の数を超えた。
「こわくない、こわくない、こわくない? こわくないような? こわ、ううぅ」
見知った友の家だ。トイレの場所はわかる。床板が軋んだりもしない。音は少なく、恐怖も少ない。そう思い込んでトイレに入れば、白い明かりに安心する。
けれど、本当の恐怖はここからだ。トイレから出て電気を消せば、暗がりに慣れていた視界はリセットされる。真っ暗闇をこのまま帰るくらいなら、トイレで寝た方が良いのでは? そう考えて、美海はすぐに振り払った。尊厳もそうだが、一人で眠れるはずがない。
「こわくない、とおもう。こわくない、かも。こわい、ことは、な――」
『――』
「――っっっ!?」
声。声だ。美海は声を耳にした。危なかった、と、美海の中で冷静な部分が告げる。もしもトイレに向かう途中で気がついていれば、乙女の尊厳は崩壊していたことだろう。
美海は安堵半分恨み半分で、声の方角に顔を向ける。リビングの方だろうか? よく見れば、ドアの淵からほのかに光が漏れていた。
(おとなのひと?)
それが凛の両親の声であることに、美海は気がつく。こうなってくると、もう、漏れ出る声だけでも良いから頼りになる大人の声が聞きたかった。
美海はふらふらと、あるいはおどおどと廊下を歩き、雪原で暖をとる狐のように、扉にぴたりと張り付く。
『――る?』
『ぇ――の?』
『――か!』
『ふ――て―わ』
やはり、その声は凛の両親のもので間違いなかった。なんの会話をしているのだろうか? 子供らしい好奇心は集中力を引き上げ、より鮮明に、会話を拾えるようになる。
『ほら、ここ。万真が頭を下げたとき』
『なるほどなぁ、ここで既にスイッチが入っているのか』
『これは子供の浮かべる笑顔ではないし、大人の計算にしては拙いわね』
『まさしく大人と子供の間、十五歳の少女を演じていたってわけか』
『で、五歳の子供にこんなえっちな役をやらせた大人のご感想は?』
『いや、なんで題材が“十五歳の女の子”から“十五歳、禁断の恋”になったかはさっぱりなんだってごめんなさい!』
『ぷっ……あははは、わかってるわよ。ふっ、くくくくっ』
これが批評であることに、美海はすぐに気がついた。あのとき、美海は凛と並んで固唾を飲んで見守っていた。普段はかわいらしいつぐみが、大人のような雰囲気で万真に迫り、美海のリクエストだった“禁断の恋”をやりきった。
美海は、そのときのつぐみの姿に対して、自問自答する。あんな風に自分も演じることができるのか? という問いに、心は、跳ね返るような言葉を返す。
(できっこないよ、あんなの)
夕顔夏都――美海の母親は昼メロドラマで活躍する女優だ。本人は「それしかできない」などとのほほんと笑っているが、はらはらする父と並んで見た母のドラマは、全部が全部、違う色っぽさを放つ母の姿だった。
自分もこんな風に演技がしたい。そう、美海は幼いながらに演技の勉強をして、発声や立ち振る舞いの難しさに泣きながら、努力を続けてきた少女だった。
『演技経験はないらしいよ』
『あら、そうなの?』
『ああ。あの子は間違いなく――天才だ』
天才。その素質を持って生まれてくれば、凡人の努力など指の一突きで崩してしまう。どうして、美海にはその才能がないのか。どうして、つぐみにはその才能があるのか。
いいや、と、美海は首を振る。珠里阿もすごい演技ができる。近くにいればわかることだが、凛の才能もすごい。自分だけ、凡人なのだ。
(いいなぁ)
その才能が美海にもあれば。
(いいなぁ)
その力が、美海にもあれば。
(いいなぁ)
その演技を、美海もやることができたのなら。
(いいなぁ)
その幼い胸に宿る燻りは、消えてなくなってくれたのだろうか。
気がつけば、美海は三人で眠るベッドに戻っていた。眼鏡を外して、至近距離で幸せそうに眠るつぐみを見る。見れば見るほどきれいな顔立ちで、試しに頬に触れてみれば、弾むほどに柔らかい。今は閉じられている瞳が、宝石のようにまばゆい青であることも、美海は知っていた。
比べて、自分はどうだろう? 平凡な栗毛にどこにでもいるような鳶色の目。おまけにテレビっ子だった影響で目が良いとは言えず、やぼったい眼鏡までかけている。
(いいなぁ)
生まれつき天才で。
勉強しなくても演技ができて。
妖精と見まごうほど美しい顔立ちで。
嫌な役も完璧にこなし、押しつけられても嫌と言わないほどに善良で。
(いいなぁ)
だから。
「ずるい」
こぼれた言葉は、突き刺すような痛みを伴う。
美海にはそれが“なん”であるか理解できず、恐怖から逃れるように、毛布を深くかぶった。
(なんだろう、これ。わからない、けど――――くるしい)
ずきずき、ずきずきと。
痛みの芽が、心の中からにじみ出るように、黒い蔦を伸ばした――気がした。
――Let's Move on to the Next Theater――