scene3
――3――
一九八五年。当時、私は十五歳のなにも持たない少女で、端役で口に糊する生活を送っていた。当時はなにをするにも勉強だと思って、空いた時間は本を読んだり映像を見たり、あるいは街を彷徨い歩いたりしていたのだが、そんな中、電柱に貼り付けられた滲んだチラシを見つけて、その、小さな制作会社が行った小規模なオーディションに応募したことがある。
当時は、主役は決まっていたがそれ以外が決まっていないというなんとも花のないオーディションで、集まってきた人間も書類選考でとりあえず通し、制作会議で役者の得意分野に合わせた役を決める、というものだった。
とはいえ、その時点で選べる役なんか微々たるものだ。悪霊、悪役、被害者、主役の友人。そもそも話の方向性も極道もので、登場人物はろくなことにならない。それでも、今燻っていて、本当に売れたい人間が集まった。だからこそ、メイクで顔を隠し、役者として顔を売ることができない悪霊役が一番の不人気だった。
(うーん……)
それが、“竜の墓”という映画だ。
私が悪霊役としてデビューした作品だ。
(朝代早月、朝代早月……だめだ、出てこない)
それでも主要人物はなかなかの顔ぶれで、制作会社がなけなしのお金をはたいて雇った方々だ。主演はVシネマの名優、昔気質な硬派な演技が様になっていた、当時二十五歳の楠王座さん。王座さんはオープニングで死んでしまうのだけれど、以降は回想という扱いで物語のキーパーソンとなる。もう一人が、訳のわからぬままに楠さんを殺害してしまい、逃亡生活を送ることになる甲田陸さんだ。二つの軸から現在と過去を演出していく構成である。
悪霊役で先代組長の娘。十六歳で結婚して十八歳で殺された悲劇の少女、伊都子を演じたのが私。楠さん演じる蕪総三郎と共謀して伊都子を殺した美乃利役に、当時、Vシネマで極道の妻を演じられていた女優、閏井松子さん。総三郎と美乃利の娘で、伊都子の年の離れた文通友達、愛をいじめる瑠美子役に、笠羽サラちゃん。愛役が三河美保ちゃん。
年齢的にあり得るのは、この、サラちゃんか美保ちゃんだろう。当時、八歳だったが十二歳の役を演じたサラちゃんは、それはもういい演技をする子だった。一方、当時十二歳だったが小柄だったので八歳の女の子を演じた美保ちゃんは、まだまだ原石という印象が強かった。
今は……サラちゃんは四三歳、美保ちゃんは四七歳。年下の女の子だったのに、もう、前世の私よりも年上なんだね。
「つぐみ」
「(そうなると、芸名は確実に変えているよね)」
「つぐみ」
「(美保ちゃんかサラちゃんか)」
「つぐみ」
「(役が嫌いだった。なら、美保ちゃんなのかな? でもなぁ)」
「つぐみ……しょうがないな。えい」
「(あの子がそんな―――――うっひゃぅっ!!?」
つぅ、と撫でられた脇腹の感触に、思わず飛び上がる。我に返って振り向けば、指を立てた凛ちゃんと、苦笑する美海ちゃん。
「つぐみはわきがあまい」
「そ、それそういういみじゃないとおもうよ、りんちゃん」
し、心臓が破裂するかと思った。得意げな凛ちゃんの指をそっとつかみながら、なんとか息を整える。
「へんじがなかったぞ、つぐみ」
「……ぁ。それはえっと、ごめんなさい」
「いいよ。つぐみはともだちだから」
「うん、ありがとう?」
あれ、なんかうまくごまかされた気がするぞ……?
六歳児にごまかされるなんてどうなのさと思わなくもないけれど、逆に、追求するほどのことでもない。苦笑する美海ちゃんに慰められながら、飄々とした凛ちゃんの姿に我を取り戻した。
「つぐみは、どうしたいんだ?」
「どう、したい?」
「ははがよくいうんだ。もやもやしたら、なんで? ってじぶんにきけって」
何故、何故か。きっと、私は、今世で初めてできた友人の憂いを晴らしてあげたいと思っている。だってあんなにお母さんが好きな子が、お母さんの作品を好きって言えないなんて辛すぎるから。でも、お節介だって言うのもわかってる。
それから、そう、私はきっと、“竜の墓”に出演した仲間のその後を、案じている。あの作品を撮影している最中は、誰もが必死だった。最初はなぁなぁから始まって、結局は誰もが自分を出し切って、クランクアップでは肩を抱き合って泣いた。あの作品が嫌いになってしまったというのなら、私はその、理由が知りたい。
「なんで」
「うん」
「なんで、じゅりあちゃんのおかあさんは、りゅうのはかがきらいなんだろう」
迷う感情は、自然とこぼれた。
「じゃ、りゅうのはかをみてみよう」
凛ちゃんは誇らしげに胸を張っていて、美海ちゃんはそんな凛ちゃんを尊敬のまなざしで見つめている。この子はほんとうに、予想のつかない子だ。将来が楽しみなような、恐ろしいような。
「えっ!? こ、こわいえいがなんだよね、それ」
「だいじょうぶ。むかしのえいがって――いまのえいがほど、こわくないらしいから」
……。
「そ、そうなの?」
「うん。えいぞうはあらいし」
…………。
「えんぎはふるいし」
………………。
「CGがないえいがなんて、ぜんぜんこわくないよ」
「そうなんだ! そ、それなら見てみようかな」
……………………。
「…………………………――――――へぇ?」
ふぅん、そうなんだぁ?
「ん? なんかさむけが」
「や、やめてよぉ、りんちゃん……」
特別ホラーが好きという珠里阿ちゃんはともかく、普通の五歳児はホラー映画なんか見ないのだろう。それならやっぱり、ホラー映画を見てもらう、というのが、百の言葉よりもわかりやすいんじゃないかな。もちろん、友達だからね、“紗椰”を見ろとは言わないよ。
でも、“悪果の淵”くらいだったら、後味も悪くないんじゃないかなぁ。やっぱりほら、下馬評で映像の価値を決めるのってよくないし。
「ちちにDVDないかきいてくる!」
凛ちゃんはそう、リビングから出てトコトコと別の部屋へ走り、万真さんを連れて戻ってきた。万真さんは凛ちゃんに合わせて体躯を屈め、よろよろと歩きながら苦笑する。その手に持つ薄いパッケージが、DVDだろう。
VHSじゃないんだね……いや、それはいいか。
「いや、困ったな。いいかい、みんな。この映画はみんなは見られないんだ」
苦笑する万真さんは、そう、パッケージを見せてくれる。しかし、見られないとはなんだろう。ツメを折り忘れて上書きしたとか? いや、DVDだとないか。首をひねる私とちょっとだけ安心した様子の美海ちゃん。
「ええー! なんでだちち!」
そして、誰より早く疑問を言葉にする凛ちゃん。
「ほら、ここ。読めるか?」
「んーと、あーる、じゅうご?」
あ。
「そう。一五歳未満は見ちゃいけないんだよ」
頬をパンパンに膨らませる凛ちゃんには悪いけれど、言われてみれば仕方がない。私だって自分が大人の立場だったら、十五禁の映画を五歳児と六歳児に見せようとはしないことだろう。
……珠里阿ちゃんは見てたみたいだけど、どうやったんだろうか。
「じゃあわたし、いまから十五さいになる!」
「りんちゃん、そ、それ、どうやるの……」
「つぐみ! 十五さいのサンプルくれ!」
「そっか、サンプルね……って、ぇぇ……」
無茶なことを言い出した凛ちゃんを苦笑しながら眺める万真さん。もう諦めようよ、と言いたげな美海ちゃん。諦めきれない凛ちゃん。私としては良識のある立場から、自分の欲を優先して彼女たちに十五禁のルールを大人の前で破らせたいとは思わない。今にして思えば、竜の墓ってけっこうギリギリなシーンもあったからね。
けれど、こう、こう思う自分もいるんだ。
『誰もが無理だと思っている状況で、サンプルの一つも提供できず、なにが女優か』
なんて。
「おとなとこどものあいだ。ししゅんき。ふむ、なるほど、なるほど」
演技を求められている。
なにものかになることを、請われている。
「つぐみ?」
「りんちゃん、せっていは?」
「うん?」
「どんな、十五さいをやればいいの?」
それに応えられなくて、どうして女優と言えようか。
「! えーと、えーと……ちちがせんせいでつぐみがせいととか?」
「! だ、だったらやっぱり、つぐみちゃんとかずまさんのきんだんのこい!!?」
恋、恋か。禁断の恋。求める恋。
狂い欲する愛情の、痛み嘆く激情の、病み壊れる恍惚の。
「せんせいにはきっと、いらないけどしかたなくコンヤクしてるひとがいて、つぐみちゃんはせんせいしかいないのにせんせいは好きでもないひとのことばかり言うんだよねそれでつぐみちゃんはせんせいの家におしかけちゃってあわわわわわ!」
「み、みみ、なんかこわいぞ」
万真さんは虹君と凛ちゃんを足して大人にしたような、甘いマスクの貴公子だ。きっと、先生だったらモテるんだろうなぁ。私は生徒で、結婚はまだできないけれど、あと一年も経てば法的に女だと認められる。先生のためならきっとなんでもできるし、なんでもしてあげられる。それが愛だから。
先生には親の命令で許嫁がいる。でも、私には先生しかいない。先生だけしか見えなくて、先生のためならなんでもできるしなんでもしてあげられる。
でも、先生は許嫁がいるからと、互いに視線を外に向けているのに、恋人みたいに寄り添った写真ばかりを見せつけて、私のことを煙に巻く。
だったら、先生。
私が、その女のこと、忘れさせてあげるね。
逃げようなんて、考えられなくしてあげる。
――/――
(妙なことになったぞ……)
成り行きを見守らず、書斎に戻って読みかけの小説を手に取ったのが運の尽きか。珠里阿ちゃんを早月さんにお連れして、三人だけなら騒ぎもないだろうと油断した。蓋を開けてみれば、女の子特有のコロコロ変わる話題に突っ込みを入れることもできず、いつの間にか、五歳の女の子と“禁断の恋”の相手役をやらされようとしていた。
もちろん、凛があれほど言う相手の演技力を見てみたくなかったといえば嘘になる。ぼくらの子はどちらも優秀だが、未だ開花していない凛はともかく、霧谷桜架の再来なんて呼ばれている虹を上回りかねないなんて、面白すぎる。
(子供たちの前でお遊戯会の王子様役なんて恥ずかしい、けれどなぁ)
わくわく、と、擬音が聞こえてきそうなほど胸を膨らませて期待する凛の顔を見ていると、断れる気がしない。なにより、凛の勉強になるかもしれないと思うと、父親として中途半端なことはできないな、とも思う。
なにせ、親のひいき目を入れたとしても、凛の才能はすさまじい。これで彼女が開花するきっかけになれば、親としても役者としても冥利に尽きるだろう。
(世界が変わる。凛が言うのでなければ子供の目線と侮れたけど、さて、この子は本物かまがい物か。いずれにせよ、即興劇をやるんなら、せめてこの子が恥をかかないように向き合ってあげよう。いつの間にか、十五歳のサンプル提供ではなくぼくと彼女の勝負になっていたことは、ツッコメなかったけど)
リビングのソファーにつぐみちゃんが腰掛ける。正面にはぼくが腰掛け、一定の距離感。つぐみちゃんはポーチを抱きしめ、にこにこと笑顔で「よろしくおねがいします」と頭を下げてくれた。いいところのお嬢さんというだけあって、所作が美しくて丁寧だ。
凛と美海ちゃんは廊下にリビングから引っ張ってきた椅子に腰掛け、スマフォを手に持っている。振り返り用なのだろう。教え込んだとおり、なんでも勉強資料にしようとする姿勢は素晴らしい。でも、出来によっては真帆には見せないでくれよ?
「よーし、じゃ、タイトルは“きんだんのこい”で、シーン――」
さて、どんな先生で行こうか。まぁ、相手のやりたい感じに合わせればいいか。夜旗の人間は、そういうのが得意なんだし。
「――アクション!」
さて、お手並み拝見。ぼくはともかく、凛を失望させないでくれよ、つぐみちゃん?
「――ご迷惑でしたか?」
「そうだね。押しかけてくるのは、いいとは言えないよ」
「ごめんなさい、先生。でも、わたし」
「君は、悩みを相談に来た。だから、これを飲んだら帰りなさい。いいね?」
空のコップを置く。演技の内容によってはひっくり返ることはよくあるからね。リビングの絨毯を汚したら、真帆になんて言われるかわかったものじゃない。
つぐみちゃんはうつむいている。前髪で目元を隠して、意気消沈しているように見えた。なるほど、衝動で押しかけたはいいけれど、叱責されて落ち込んでいるのか。なら、このあとの展開は読めちゃうかな。告白して、断られて、諦める。もしくは泣く。子役の即興劇なら、落とし所はこんなところだろう。
「悩み、聞いてくれるんですか?」
「ああ、もちろん」
優しく微笑む。告白しやすいよう、状況を整えてあげよう。つぐみちゃんはまだうつむいたままだ。目線は見えず、声は平坦。緊張か高揚か、もう少し感情を乗せた方がいい場面だろう。まぁ、指導はフィードバックでやればいい。今は、最後まで付き合ってあげないと。
「先生は、ほんとうに、許嫁さんのことが好きなんですか?」
平坦。なにか意図があるのか? でも、凛の言うように、世界が変わる感覚は受けない。役柄によって条件があるのか?
まぁいい。婚約者よりも自分の方が先生を愛している、と、そういった方向に持って行きたいんだろうね。それならそれで、合わせてあげよう。
……にしても、許嫁って言い回し、古くない?
「ああ、もちろん。ぼくは彼女のことが好きだよ」
「ふぅん。――ぁ、お水、いただきますね?」
「あ、ああ」
水? ああ、聞きたくないのか。ごまかして、意識をそらそうということか。うんうん。なるほど、巧いかもしれない。
「あっ」
「あ」
平然と伸ばされた手は、けれど、緊張からかコップを倒してしまう。慌てて立ち上がった彼女は机を回り込んで、ポーチから取り出したハンカチで汚れを拭おうとする。倒れたコップはぼくの方角。なるほど、ハンカチでズボンを拭おうとして、手と手が触れあうシーンか。
わかる、わかるよ。ぼくも散々、真帆に恥ずかしい台詞や仕草をやらされた。女の子ってそういうの、すごく好きだよね。ううん、これも凛のためだ。恥ずかしがる訳にもいかないよ。
「ごめんなさい、先生。すぐにきれいにしますね」
「いや、いいよ。自分で拭くから、と」
タイミングを合わせて手を伸ばす。けれど、やはり緊張だろうか? ハンカチはつぐみちゃんの手からするりとこぼれ、ぼくの足下に落ちてしまった。
「そそっかしいな」
そう、手を伸ばし。
「――あは」
ぞくり、と、なにかが背筋を這う。顔を上げるよりも早く、下を向いた頭が抱きしめられた。
「つかまえた」
小さな手。
薄い体躯。
花のような香り。
「先生がわるいんですよ――愛してもいない女なんかと、私を比べるから」
「離し――」
「はい、どうぞ」
体を離そうと身を引くと、ソファーの背に押しつけられる。幼い子の力でもできることだ。力を入れた方向に、離そうとした方向にアシストしてやればいい。そうしているうちに彼女はぼくの足の間に膝を置き、猫のように体をくねらせ、ためらいのない手つきでぼくの胸に小指から四指を置く。
その、ずっと前髪で隠していた表情は、悟らせないように、悟らせないようにと伏せられていた貌は、情欲と恋慕にゆがめられ、歪な三日月をかたどっていた。
どうする? どうする? どうする? いいや、まずは引き剥がさないと。生徒、それも女児に、手を出すわけにはいかない。
「先生が突き飛ばしたら、私、頭を打ってしんじゃうかもしれませんね?」
思考が行動に出る一歩手前、絶妙なタイミングで考えを否定されると、思考は一度止まってしまう。それは、人間は考えを否定されることに拒否反応を覚える心理から来ているのだと、昔、講師に習ったことがあった。
だめだ。流されるな。教師の立場はどうなる。家のことは? 彼女にはなんて説明する気だ。だから、突っぱねて。
「立場も、お金も、生まれも、しがらみも、忘れてしまえばいいんです」
まただ。
また、遮られる。聞き分けのない子供を見るように、薄くゆがめられた瞳だ。魔性の目だ。
「ぼく、は」
ささやかれる言葉。興奮でうわずる声。熱を持ったのは、ぼくの胸か、彼女の手か。
「ぜんぶ私が、忘れさせてあげます。だから――」
彼女の小さな手が、彼女自身の淡い桃色の唇をなぞる。
「――どうか、私に溺れて。私の愛おしい、私だけのセンセイ」
その指が、ぼくの唇を、艶やかになぞった。
「――カット!」
熱が引く。
いつもの、無邪気な目の、優しげで申し訳なさそうな、所作のきれいな少女。
「ありがとうございました! あの、はしたないことをしてしまい、もうしわけありません」
「――――……ぁ、ああ、いや、いいんだよ。演技でのことだからね」
「そうですか? よかったぁ」
これは、なんだ。なにが起こったんだ? もちろん、いくらなんでもこれほど年の離れた女の子に妙な気は起こさない。けれど、問題はそうではない。違和感はそこではない。
いや、そうだ――ぼくはあの瞬間、娘の友達に演技指導する父親ではなく、たしかに“夜旗万真”という名前の、一人の教師だった。
(世界が変わる? そんな、生易しいものじゃない)
感受性が高ければ高いほど、そのイメージの“逆流”はすさまじいものになるだろう。卓越したセンス。演技によって他者を巻き込む才能と技術。たった五歳で?
(ぼくは今、確かに――彼女の世界に、呑み込まれた)
娘たちと会話を楽しむ少女を見る。普通の少女だ。けれど、あの瞬間、年齢の垣根すらも曖昧な、稚気と妖艶さを併せ持つ、“女”だった。
「まったく本当に――凛の見る目は、おそろしい」
手に持つDVDを見る。恐怖演出はあれど、リアルタイムで見せつけられた今のシーンよりも艶やかな映画かと言われると、いやぁ、そんなことはないんじゃないかと思わせられる。
「ま、しょうがない。ご褒美だ」
ただ、まぁ、さすがに凛と美海ちゃんがかわいそうだから、一緒に見てあげようかな。