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ending

――ending――




 ――ピンポン

 ――ピンポン、ピンポン

 ――ピンポンピンポン、ピンポン



 無骨なチャイムのボタンに、小さな指が伸びる。背伸びをしてボタンを押すのは、色素の薄い髪を二つ結びにした少女――鞠子だ。

 軽妙なチャイムが鳴り響く。大きなアルミの扉はさび付いていて、中の様子を覗ける位置にある窓には磨りガラスが嵌まっているため、部屋の中を確認することが出来ない。


「鶫、いないのかな」

「やっぱり、お出かけなのかもー」


 意気消沈とした様子の鞠子に、暢気な言葉が掛かる。黒髪お下げの少女、幸子は、鞠子の一歩後ろに立っていた。その手に抱える紙の束は、担任教師に託された、ここ最近学校に登校していない級友――鶫のものだった。

 諦めきれずにチャイムに指を伸ばす鞠子。そんな鞠子に、今度は左隣から声が掛かる。おかっぱ頭の元気な少女、君恵と、さらにその後ろに控えていた天然パーマの少女、美有紀の声だ。


「なんか大変だったみたいだしさ、おばあちゃんの家とかに行ってるんじゃない?」

「う、うん。たしかに、そうかも」


 鞠子を含め、鶫の友人達は鶫の現状を知らなかった。担任教師は「ご家庭で不幸があった」とだけ告げ、とくに心配した様子も無かった。そのため、今日、プリントを渡しに行こうと提案したのは、担任教師ではなく鞠子だった。


(そりゃ、最初は学級委員として、だったけど……)


 鞠子は、開かない扉を眺めながらそう考える。鞠子の家、白上建設はここ数年で急激に成長している建設会社だ。家屋やオフィスビルだけでなく、新進気鋭の建築デザイナーの取り込みなど、優れた嗅覚でその勢いを伸ばしている。そのため、裕福な暮らしをしている鞠子は周囲の嫉妬から“成金”呼ばわりされることが多く、だからこそ、鞠子は、学級委員という品行方正な役割を選んだ。

 はじめは、その責任感で、クラスで孤立していた鶫に話しかけていた。はじめは無反応だった鶫も、だんだん答えてくれるようになり、気が付けば、鞠子にとってかけがえのない友人になっていた。夢を交わすほどに、大切な友達になっていた。


「ま、今日のところは帰ろっか、鞠子ちゃん」


 君恵の言葉に、鞠子は逡巡の後、ゆるりと頷いた。鞠子は踵を返し扉から離れると、カンカンと音がするアパートの階段を四人で降りる。あからさまに落ち込む鞠子の姿に気を遣ったのか、物静かな美有紀が珍しく声を上げた。


「そ、そうだ、鞠子ちゃんの家、芸能人の会社やるんでしょ? 会社のお名前、決まったの?」


 美有紀の言葉に、鞠子はぱっと顔を明るくする。


「うん! あのね、パパが、『せっかくなら、まっさらなスタートを切るような名前にしよう。これから始める物語の、一項目のように』って言って名付けてくれてね」

「そ、そうなんだ」

「そう! 名字の白上に音を合わせて――」


 鞠子は、アパートを背に、笑顔で告げる。



「――白紙しらかみ芸能事務所っていうんだ!」



 そう、宝物を紹介するような、晴れやかな笑顔で。











――/――




 ――揺れる煙。

 ――赤らんだ顔。

 ――並べられたサンダル。

 ――封の切られていないお酒。

 ――公園で、膝をついて泣く父。



「ぁ」



 小さく、声にならない音が、喉からこぼれ落ちる。せんべい布団から顔を上げて、窓の外を見る。まだ真夜中だろうか。母は、仕事に行っている。父がいなくなってからどの程度の時間が経ったかわからない。ただ母は、「学校には連絡してある」とだけ言っていた。

 どんな連絡の仕方をしたのか、興味は無い。いや、それも正確ではない。今、私は、なにに興味を向ければ良いのかわからなかった。母は、どうなんだろう。父とお別れ(・・・)したあと、母は直ぐに仕事に出かけた。小さな化粧台の前で身体を丸めておしろいを叩く姿は、前とあまり変わらない。ただ、これまでよりもずっと時間を掛けていて、時折、手が止まっているようだった。


(母さんは、悲しい気持ちに蓋をしたくて、働いているのかな)


 私は。私は、母さんにとっての“なに”なんだろう。父との子供であることには間違いないけれど、それだけの理由で寂しさの穴埋めになるのなら、これまでもそうだったはずだ。でも今、私は、どう思われているんだろう。

 父に置いて逝かれたあの日から、なにもわからない。なにも、わからなくなってしまった。部屋の隅、押し入れの空きスペースに納められた小さな位牌。父が入っている、という白い壺。母は、父に墓がないとぼやいていた。


(父さん……父さんは、なんで、いなくなることを選んだの?)


 遺書はなかったという。だから、どうして死んでしまうことを選んだのか、誰にもわからない。ただ、ずっと、夢の中で、車の中で眠る父へ縋る光景を、追体験し続けている。


(わからない――私がもっと早く、悪霊になれていたら、わかったのかな)


 母は、あの日からおにぎりを作らなくなった。思い出したように他の料理は作っても、おにぎりだけは作らなくなった。あのおにぎりが両親にとってどんな意味があったのか、父に聞いておけば良かった。きっとありきたりで、温かい理由だったんだろうな。

 のそのそと布団から立ち上がり、卓袱台の上を見る。袋詰めされた食パンは、母が私の食事用に置いていったモノだ。補充されるかわからないから、少しずつ食べている。もそもそとした食パンは、きっと、母が作ってくれたおにぎりよりもずっと考えられて作られているはずなのに、何故か、母のおにぎりの方が美味しいような気がした。


(学校、学校も、どうしよう……鞠子、に、なんて言おう)


 食パンを食べる。もそもそと口を動かして、無気力に咀嚼する。浮き始めてきたカビは、指で削り落として食べれば、お腹を壊すことはない。私が丈夫なだけかも知れないけれど。

 削ったカビをシンクに捨てる。お腹はいっぱいになった。せんべい布団にくるまって、無理矢理目を閉じる。いつか、夢の中だけでも、父に救われていて欲しいな――なんて思った。





 日が昇る。

 月が見え。

 帳が落ち。

 茜が覗き。

 夜が来て。





 シンクから、コトコトと音が聞こえる。せんべい布団から顔を上げると、母がコンロの前に立っていた。


「母さん……?」

「いま、ごはんできるから、ちょっと待ってなさい」

「うん……わかった」


 せんべい布団を畳んで、部屋の隅に寄せる。窓の外はすっかり日が落ちていて、外に見える外灯に群がる蛾の姿が、いやに目に焼き付いた。じわりと、肌に張り付くシャツ。今がいつなのかよくわからないけれど、そろそろ気温が上がってきたみたいだ。

 卓袱台の前に座って、ごはんを待つ間、ぼんやりと母の背中を見る。父が死んでから、母は痩せた。いつでもどんなときでもピンピンしていた母が、心なしか萎れているように見える。父がいなくなって、その穴を、()で埋めることは出来ないから。


(良い匂い……カレーライス、かな)


 カレーライスなんて、まだ父が入院する前に食べたことがあるかな、というくらいだ。父はカレーライスを食べているときだけはお酒を飲む手を止めて、忙しなくスプーンを動かしていた。その様子を横目で見ながら、私は、父の機嫌を伺いながらカレーライスを食べていたから、緊張して味なんか覚えていない。

 今、思えば。カレーライスのときも、おにぎりのときも、痛いときも苦しいときも、嬉しいときも、お巡りさんの言うように大人を頼って伝えていれば、なにか変わったのだろうか。


 もう、考えても仕方がない。

 もう、取り返しなんかつかない。

 もう、そんなことは、百も承知なのに。


「鶫、カレーライス出来たわよ」

「ありがとう、母さん」

「それ、食べたら母さん出かけるから、早く食べちゃいなさい」


 スプーンを渡される。銀色のスプーンだ。冷たいスプーンを握りしめて、湯気を立てるカレーライスに突き立てる。掬い上げようとしたところで、母から声が上がった。


「早く、はやく、はやくはやくはやく!」

「え、あ、え?」


 鋭い声。思わず手が止まる。母は私の隣に座り込み、俯いている。母の顔に掛かった黒髪で、目元が隠れた。


「どうしてトロトロしているの?! 嗣さんはもういないのにどうして! どうしてあんた一人なの! 幸せにするんじゃなかったの? どうして、どうしてッ、どうして!」

「かあ、さん」

「早く、早く早く早くぁあああああああああッッ!」


 手が、上がる。紫のマニキュアが、はだか電球の下で輝きながら、振り上げられて、すぐ、影になる。「ぁ」と声を上げようとした次の瞬間にはもう、母の手は振り下ろされていて、頬がカッと熱くなった。


「あぐっ!?」


 カレーライスに突き立てたスプーンから手が離れて、私の身体が後ろに倒れる。腐りかけの畳が軋む音。ゴミ袋やぐしゃぐしゃのちり紙が転がる畳の上には、もう、ビール瓶はない。


「っつ、ぁ……か、母さん?」


 母は、私を叩いた左手を、じっと見つめていた。薬指のマニキュアが、何故か赤く汚れている。


「たいへん、爪、切らなきゃ」


 私は、身体に力を入れて起き上がる。なにか、なにかを母さんに言わなければならないのに、言葉は出ず、息が苦しい。母さんは私の視線など感じていないかのような振る舞いで、爪切りを探し出した。


「どこ、どこよ、爪切りはどこなの!?」


 タンスを開け、化粧台を倒し、鞄をひっくり返す。鞄の中身が散らばると、その中から小さな爪切りが出てきた。母さんは爪切りを手に取ると、左薬指の汚れを落とすように、その一本だけ爪を切る。

 母さんは、爪を切り終わると、呆然としていた。私の前で、目の前の私に視線を向けず、ぼんやりと座り込んでいた。


「もう、いかなきゃ」

「母さん? ど、こへ……?」

「カレー、ゆっくり(・・・・)食べなさい」


 母さんは、真っ白な顔色のまま、ふらりと立ち上がる。それから、薬指に嵌められていた銀の指輪を外すと、私に背を向けて、指輪をシンクに投げ捨てる。足下に散らばった鞄の中身から財布だけ掴むと、母は裸足のまま、ドアノブに手を掛けた。


「もういくわ。いかなきゃ」


 と、ただそれだけ告げて、ドアノブをひねり、夜の中へ消えていく。とっさに伸ばした手は届かず、無情にも扉は閉じ、ガチャリと施錠される音が響いた。


「いっちゃった」


 母さんは、仕事に行ったのだと思う。朝になったら帰ってきて、私に怒鳴るのだろうか。それでもいいから、帰ってきて欲しい。でも、なんとなく、もう帰ってこないような気がした。


「カレー、たべよう」


 卓袱台に戻って、カレーライスのお皿を引き寄せる。銀のスプーンをしっかり握ってカレーを掬うと、湯気がスプーンを曇らせた。まだ、冷めてはいないようだ。



「……」



 カレーライスを口に運ぶ。肉なんか入ってなくて、タマネギは芯が残っていて、じゃがいもは半生だし、にんじんも固い。でも、カレールーは美味しくて、焚きすぎていやに柔らかいご飯と一緒でも、とても美味しい。



「……ぅ、ぁ」



 なんとか、大きすぎる具をほおばる。噛むのにも呑み込むのにも時間が掛かるけれど、味はまぁ、まずくはなかった。



「ぁっ、う……あぁぁ……」



 外で、誰かが泣いているのだろうか。今、私はとても真剣にカレーライスを食べているので静かにしていて欲しい。



「うぁぁっ、ぐすっ、ぁぁ、うぅぁ」



 思えば、母が私を叩いたのは初めてだった。叩くのが父で、無視するのが母。思えば、ひどい役割分担だけれど、母なりに思うところがあって叩かなかったのだろうか。よく、わからない。たぶん、思いやりとかではないと思う。



「ぁぁぁっ、う、ふ、うぁ、ああああぁっ」



 ……本当に、さっきから誰が泣いているのだろう。気になりつつ、なんだか頬が濡れている気がして、スプーンを持っていない左手で頬を拭う。すると、なぜだか左手が真っ赤に塗れた。どこか、怪我でもしてしまったのだろうか。気になって、銀のスプーンを口から引き抜いて、自分の顔を映す。

 辛気くさい痩せた女の子。ざんばら髪から覗く青白い顔。頬が少し切れて血が流れていて。



(ぁ)



 真っ赤に腫れた瞼から、とめどなく、涙が流れていた。はは、なんだ、どこかの誰か、じゃない。私が、泣いていたんだ。



「うぁ、ぐすっ、ぁ、ぁぁぁっ」



 父はもういない。



「ぁぁぁっ、げほっ、げほっ」



 母ももう、いなくなった。



「ぐす、うわ、ぁぁっ」



 声を上げて、涙を流して、それでもカレー食べる。ゆっくり食べてと、母が言ったから。



「あぐ、ん、ぅ、っ、ああっ、ぐす、うわぁ、ああっ、はぐ、むぐ、っ、げほっ」



 もういない、母が、そう言ったから。



「うわぁぁぁぁぁぁぁぁあああああぁぁあああぁあああぁあああぁぁっっっ」



 スプーンを止めることも、泣き止むこともできず。ただ一人、孤独だけを口にした。










 傷口を洗って、絆創膏を頬に貼った。

 位牌に手を合わせて、父にもカレーを別けてあげた。

 せんべい布団を引っ張り出して、お皿は翌日に洗った。

 父に供えたカレーライスを、ありがたく食べた。

 せんべい布団を畳んで寄せた。

 シンクに水を張って、カレー皿を洗った。

 せんべい布団を引っ張り出して、一人で寝た。

 布団を畳んで脇に寄せて、カレー鍋の底にこびり付いたカレーを食べた。

 布団を引っ張り出す気力が無くて、畳に身体を横たえて寝た。

 朝か昼かもよくわからなくなったとき、水道から水が出なくなった。

 アパートの外に出ようとドアノブを握ったら、気持ちが悪くなってだめだった。

 カビだらけの食パンを食べられるように削ったら、一欠片しか残らなかった。

 畳に身体を横たえても、気温が高いから気にならない。

 だんだんと、身体を起こすのが辛くなってきて、もうずっと寝ている。








 ――ピンポン

 ――ピンポン、ピンポン

 ――ピンポンピンポン、ピンポン




 チャイムの音。

 身体は、動かない。

 たくさんの足音。

 声は、出ない。

 聞き覚えのある話し声。

 伸ばした手は、あの日のように、落ちて。




(い、っ、ちゃった)




 もう、足音は聞こえなくなった。




 窓の外が暗くなる。

 窓の外が明るくなる。

 窓の外が暗くなる。

 窓の外が、明るくなって。




 ――ピンポン




 また、音が聞こえた。


『桐王さん、いますか。桐王さん!』

『やっぱり、いない? いや、でも』

『大家さん、念のため、鍵を』


 鍵が回る音。

 ドアが開けられて。

 大家さんと、見知らぬ老夫婦と。


「っ鶫ちゃん!! ぁぁ、なんてことを、畜生ッ、僕がもっと早く気が付いていれば!」


 お巡りさんの、声が、聞こえた。


「今、助ける、絶対助ける! だから、諦めないでくれ、鶫ちゃん!」


 困っている人を、助ける人の声。

 耳に届いたその声に、返事の一つも出来ないまま。



(とうさん……かあ、さん……)



 意識が、遠く、瞼が、落ちた。





















――Let's Move on to the Next Theater――

お読み下さりありがとうございました。

活動報告ですと更新状況に気が付きにくいようなので、今後、進捗はなるべくTwitterに載せます。

@cube96tetsu

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― 新着の感想 ―
漫画版を見て、ここにたどり着きました。 いつか続きが書かれるのを待っています。
続き、是非ともお願いいたします。
最高すぎて続きが読みたいです。
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