scene9
――9――
土砂降りの雨。じめじめとした空気は、いつもよりもずっと蒸し暑く感じる。
「鶫ちゃん、ほんとうに大丈夫?」
「はい!」
病院の裏口。いつもの警備のおじさんの前。見送りに来てくれた受付のお姉さんに元気よく返事をした。あの演技の興奮冷めやらぬまま病院に突撃すると、予想どおりというかなんというか、父は病院から脱走していた。そこでいつものように探しに行くと言うと、私を見つけた受付のお姉さんが、傘を貸してくれるというのだ。
お姉さんにビニール傘(病院の備品らしい。なくさないようにしないと)を借りると、私は見送る二人に頭を下げて、雨の中を歩き出す。スニーカーがぺらぺらだから当然のように雨水は靴を浸水するのだけれど、頭から水を被らないでいいというだけで、気持ち的にはずいぶん違う。ランドセルは病院に預かって貰ったので、気が楽だしね。
本当は走り出して探しに行きたいのだけれど、転んで怪我でもしたら大変だから絶対に走るな、とは、受付のお姉さんの言葉だ。傘を貸し出す“交換条件”だったので、やきもきする気持ちはあれど従っている。
(となると、効率が良いのは……いた!)
白い自転車に青い制服。今日は、その上からビニールの雨合羽を着ている男性。
「お巡りさん!」
「やぁ、鶫ちゃん。こんにちは」
「はい、こんにちは!」
そう、例の、警察官の“下位互換”と見られる見回りの男性、お巡りさんだ。
「お巡りさん、入院着の男性を見ませんでしたか?」
いつものように尋ねると、お巡りさんは人の良さそうな顔で苦笑して、「いやぁ」とどこか申し訳なさそうに答えた。
「お父さんだね? そういえば、今日は見てないなぁ」
「そうですか……ありがとうございます」
お巡りさんが見ていないなんて珍しい。お巡りさんは大抵の人のことはよく見ているのに。父が、お巡りさんを避けて歩きでもしたのだろうか? うーん、まさかね。
「ああ、鶫ちゃん、ちょっと待った」
踵を返して歩き出した私に、お巡りさんから声が掛かる。思わず立ち止まって振り向くと、お巡りさんは、膝が濡れるのも厭わずに、姿勢を低くして私と目線を合わせてくれた。
「はい?」
「鶫ちゃんは、いつもすごく偉いよ。でも、たまには大人を頼って欲しいかな」
「大人を、頼る?」
なにを言われるのかと身構えていると、出てきたのは意外な言葉だった。
「うん、そう。だから今回は、役割分担をしよう。お父さんの行きそうなところを教えてくれるかな? 遠いところは、僕が自転車でひゅーんっと行ってきてあげるからさ。僕が鶫ちゃんのお父さんを見つけたら、病院に帰るようにお話しをしておくから。ね?」
大人を頼る、とはどういうことなのか。考え込んでいる内に、お巡りさんは私にそう提案をした。答えに迷っていると、お巡りさんは、私の頭を撫でようと、手を伸ばす。
「っ」
小さく息を呑みながら、少しだけ身構える。そうすると、お巡りさんは目を見開き、少しだけ悲しそうな顔をしながら、ぎこちなく私の頭を撫でた。今度は、身構えることなく受け入れることが出来たので、私としても一安心だ。お巡りさんに悲しい顔をさせるのは、なんだか嫌だったから。
「……お父さんとはぜひ一度、じっくりお話ししてみたくなったよ。さ、鶫ちゃん、お父さんはどこにいることが多いかな?」
「えっと、病院裏の公園と、デパートの屋上と、河川敷と、家の裏の駐車場」
「そっか。近くで屋上……そのデパートは確か今は改装工事で屋上には入れないはずだから、河川敷と病院裏手の公園は僕が行くよ。鶫ちゃんはおうちの駐車場を見て、居なかったらおうちで一休みしていて。居たら少し引き留めておいて。僕が、お父さんを病院まで送ってあげるから」
言われて、確かにそれは効率が良いな、なんて風に思った。でも、それならそれで疑問が残る。残したまま父を探しに行けないから、お巡りさんに聞いてみることにした。
「お巡りさんは、どうしてこんなに親切にしてくれるの?」
「あれ? 言わなかったかな? お巡りさんは、困っているひとを助ける人、なんだよ」
「――そっか、そうですね、言っていました。ありがとう、ございます」
「いや、いいよ。ああそれと、敬語なんか使わなくて良い。子供は、元気であればそれでいいんだから」
なんとなく、「はい」と答えづらくなって、「うん」と頷く。するとお巡りさんは、なんでか嬉しそうに笑った。それから私の家の住所を告げると、お巡りさんは私にお礼を言って、父を探しに行ってくれる。
そうなると、私の行くべき場所は、自分の家だけだ。母は電車で仕事に行くから、駐車場にはうちの車が停まっている。父は脱走すると、家のポストから車の鍵を取って、運転席でぼうっとしていることが多かった。たぶん、今日もそんな感じなのだろう。
(雨、強くなってきたなぁ)
足下はすでにびしょびしょに濡れていて、走ったら転んでしまいそうだった。ビニール傘を両手でしっかり握り、落とさないように注意する。表通りより、裏通りから行く方が早い。いくらお巡りさんが自転車でも、公園や河川敷を回ってから家の方へ来てくれるらしいし、裏道や近道を使う私には追いつけないだろう。
お巡りさんが助けるのは、私だけじゃなくて、たくさんの困っている人たちだ。私だけにたくさん時間を割いて貰うのは申し訳ない。自分で解決できるのなら、さっさとしてしまいたかった。
(とりあえず、父さんに会って、それから。うん、全部、それから、だ)
まずは私の本気の、全力の演技をみてもらう。そこで、私は、“父に何でも言える自分”を演じて、全部ぶつけるんだ。私に宿った炎を見せれば、元気のない父にも火が付くかも知れない。うまくいったら、母にもやってみよう。そうしたら、鞠子の芸能事務所に入って、お巡りさんに報告もして……うん、やることはいっぱいある。
未来がとても明るく思えるようになってきた。私は私の努力一つで、変わらないと思っていた未来予想図を、びっくりするほど変えることができるのだと、信じられるようになったから。
薄暗い路地裏を抜け。
猫のとおる空き家を抜け。
川の上の水道管を伝って。
まっすぐ、私の暮らすアパートへ。
アパート裏手に抜けていく。いつもの駐車場。砂利の地面に区分けのロープ。それから、たくさん散らばるコンクリートブロック。雨に煙る駐車場の隅っこに停まる、空色の乗用車。
(あれ? エンジン掛かってる)
その車が、どこかへ行こうとしているのか、エンジンが掛かっていることに気が付いた。さすがに、車で遠出されたら、お巡りさんの自転車では追いつけない。だから、なんとか父を止めようと、車まで走り出そうとして。
「とう、さん……?」
いつもと違う、異常な様子に気が付いた。エンジンが掛かり、震えるように音を立てる車。車の前に置かれた、封の切られていないガラスのカップのお酒。それから、綺麗に揃えられた病院のサンダル。
「ぇ、あ、な、んで」
車のマフラーから、ホースが繋がれていて、運転席まで引かれている。ホースはしっかり目張りされていて、隙間がない。とても煙いだろうに、父は、運転席で眠っていた。顔を、異常なほどに、赤くして。
「っ、父さん!!」
走る。ぺらぺらのスニーカーに足を取られて転ぶ。ビニール傘がぽーんと飛んでいって、雨水に濡れた砂利道に落ちた。でも、傘に気を取られることもできず、転んだときに打ち付けた頭を押さえて、車に駆け寄る。父はただ、眠っているだけだ。そう信じたいのに、いつもとなにもかもが違う異常な光景が、ずっと、私の中で警鐘を鳴らしていた。
「父さん、父さん、父さんっ! やだ、起きてよ、開けて! 父さんッ!! やだ、やだやだやだ、やだ!!」
車の扉は開かない。頭も、膝も、ガンガンと痛む。ああ、でも、早く開けないと。
「父さん、開けてったら! ねぇ、父さん、わ、私、父さんにみてもらいたいモノがあるの! きっと、きっと父さんだって、ぅぁ、とうさんだって、気に入るから、ぁ、だから!!」
運転席の扉も、助手席の扉も、後部座席の扉も開かない。目張りされたホースも、私の力じゃ引き剥がせない。焦燥だけが募って、胸が張り裂けそうなほど痛くて、辛くて。
「ぁ」
とつぜん、膝から力が抜けた。
「やだ、やだよ、まだ何もできてないの、まだ、わた、し、は」
手を伸ばす。打ち付ける雨が寒くて、頭から流れる赤い液体がぬるくて。
「とう、さん……父さん、っ!」
無力感が、心を覆って。
「鶫ちゃん!? っこれは、『至急、至急――」
お巡りさんの声。
車のエンジンの音。
ちかちかと回る視界。
雨に濡れるビニール傘。
瞼がとても重くて、身体が痛くて。
「とう……さ……」
伸ばした手が、車のタイヤを掠めて、落ちた。
ホラー映画を見て。
父がお酒を止めて。
母がお弁当を作ってくれて。
初めて出来た友達が、一緒に夢を見て。
ぎこちなかった私の夢に、大きな火が灯って。
ぜんぶ、うまくいく。
そんなふうに、おもったのに。
目を開ける。
目張りされた窓から、日が差し込んでいた。
いつものせんべい布団に横たわる、私の身体。
小さな化粧台の前で、身体を折りたたむ母の姿が見えた。
今日はいつものように、派手な服ではなくて、真っ黒の服だ。
「鶫、あんたはそれを着て」
「……うん」
頭に巻かれた包帯に、手を触れる。はて、私はどうしてこんなものを巻いているのだろうか。首を傾げながら、真っ黒なワンピースを着る。こんな服、家にあったんだ。
「タクシー、呼んであるから」
「うん」
なんとなく、なにを聞く気にもなれない。表情の見えない母に連れられて、ふらふら揺れる風船みたいに手を引かれていく。ぼうっとしていたみたいで、気が付いたらタクシーから降りていて、タクシーに乗るときに真上にあった太陽は、何故か、西に落ちて茜色に揺れていた。
どのくらいの時間、どこをどう移動したりとかしていたんだろうか。全然わからなくて、なんだか奇妙な感覚だった。そうして空を見上げると、雲間に向かって煙が上がっていることに気が付いた。あれは、なんの煙だろうか。どうしても気になって、母に尋ねてみた。
「母さん、あの煙は?」
「あの人……お父さんよ」
母が、私の手を握る。
弱々しい手だった。
母からこぼれ落ちた水滴が、アスファルトを濡らした。
「とう、さん?」
ああ、そっか。
父は、死んだんだ。




