scene7
――7――
隙間風が吹き込むアパートの一室。住み慣れたおんぼろアパートでの日々は、ここのところ、普段と違った様相を見せている。以前は気まぐれにしか出されなかった夕飯が、ここのところ、毎日のように作られるからだ。
世間一般で言うところ、私の母は料理下手なのだと思う。テレビやドラマで見るような料理と違って、焼け焦げていたり、逆にほとんど生だったり、味がなかったり、濃すぎたり、変な味がしたり。今日の夕飯だって、なんだか塩っ辛くてしおしおに萎れた野菜炒めだ。
余所では聞かないような有様なのには違いないけれど……私は、それでもそんな母の料理が好きだった。お腹がいっぱいになるだけではなくて、胸の奥がぽかぽかと温かくなるような、そんな料理が好きだった。
「それで、今日はどうだったの?」
母が夕飯を用意してくれるのは、この話がしたいから、というのはなんとなく理解できた。夜のお仕事が多い関係で、母は、日中は仮眠を取らないとならない。そのため、父のお見舞いに行けず、代わりに、私に父の近況を聞くのだ。
今日はどんな調子だったか、とか、今日はなにを話したのか、とか。母はいつも仏頂面のまま、たいして興味も無いような表情で私の話を聞く。でも私は、母のそれが照れ隠しみたいなモノで、私の話を聞いているとき、母はときどきニヤニヤと笑っているのを知っていた。
「父さんと母さんが、池でデートをした話を聞いた」
「ふぅん。娘にそんな話をすることないのに、まったく」
私はそんな、嬉しそうな母に、父の話をするのが楽しみになっていた。だからこそ、父が公園で泣いてしまったことは、言わない方が良いような気がした。だって、母が好きなのは、“母の話をする父”の話だから。
「あと、反対を振り切って、母さんと駆け落ちしたって」
「……ふん。そうよ、あの人ったら向こう見ずで、その癖、行動力だけはあったのよね」
「ねぇ、母さん、四つってなに? 父さんが――」
「忘れなさい。世界一くだらないことよ。あんな言葉で人様を図ろうなんて、虫唾が走る」
「――うん、わかった。忘れる」
母の声が、低く沈む。なんとなく、これ以上、この言葉は使わない方がいい気がして黙り込んだ。きっと、外でも使わない方が良い言葉なんだろうな。
母の機嫌が落ち込んでしまうと、明日の朝ご飯や昼ご飯にはありつけないかもしれない。明日からの三連休、食事なしだとけっこう辛い。とっさに、父の言葉から、母が喜びそうな言葉を探す。
「そうだ。父さん、母さんと色んなところに出かけたって言ってた」
「ふ……ええ、そうね。あの人、けっこうお洒落でね。ふ、ふふ、ミロのヴィーナスが見られなかったからって、私に『俺の目には君こそがヴィーナスに見える』なんて言って。まったく、本当に、口の上手い人だったわ」
なんとか機嫌が戻って、ほっと一安心。そう、安心しながらも、食卓に笑顔が生まれるなんて思ってもみなかったから、驚いてしまった。ここに父が加わるとどうなるんだろう。父は、お酒があると暴れてしまうから、お酒を手に取ったら、私が幽霊の役者になって驚かせる……これでどうだろうか。
なんだか、光明が見えてきた気がする。母は父がいると幸せで、父は母がいると幸せだ。私のことは眼中になくても、二人が幸せに生きるために、私という恐怖の権化が必要だというのなら、きっと家族に加えてくれることだろう。うんうん、わくわくしてきたぞ。
「それでね、あの人ったら――」
「うん、うん」
上機嫌に微笑む母に相槌を打ちながら、私は今度父に会ったらなにを話そうか、なんて、そんなことを考えていた。
なんて。
予想に反して、この日から、父に会える機会はぐっと少なくなることになった。
三連休中は、意外なことに母が積極的に見舞いに行った。その最中、私は『友達とでも遊んでおきなさい』と、おにぎりだけ置いて放置されることがほとんどで、病院についていかせて貰っても、購買前のベンチで買って貰ったパンをかじるくらいのことしかできなかった。
友達と遊んでおけと言われても、鞠子たちの電話番号や家の住所なんか知らないので、休み前に約束の一つも取り交わさなかった以上、鞠子たちと遊ぶなんて選択肢はとれない。結局、街の図書館に足を運んで演技の勉強をする……みたいなことが、連休中の時間の使い方になった。そんな三連休を過ごすと当然、学校でもその話題になるわけで。
「ふわ……んにゅ」
いつものように早めに来て、生き物係の仕事をする。休みの感覚が抜けきらなくて、少し眠い。教室で飼ってる金魚は、毎日餌をやる必要はないらしく、水槽の掃除と餌やりを交互にするくらい。現に、三日間放置でもぴんぴんしていた。
餌やりを終えたら一眠り……ではなくて、ひとまず演技の練習だ。図書館で演技、というより演劇について色んなコトを調べてみた。それらによると、演技とは、言葉や身振り手振りで表現される芸術の一種なんだとか。劇と言うからには印象に残るような劇的な場面が必要、だとか、演劇は観客がいて初めて成り立つ、だとか、今必要とは思えないモノばかりが書かれていた。でも一つだけ、なんとなくわかるようなことも書いてあった。
(演技は、劇的な行為で注目を集めるモノ。つまり、私じゃない誰かになって目立てば良いんだよね)
図書館で何度も読み込んで覚えた、ある戯曲の一節を思い浮かべる。他のものとは違い、なんだかとても印象に残ったそれは、私のこれまでの人生に通じるような何かがあるとでも、私の心が受け取ったのだろうか。
わからない。友達のことも、家族のことも、他ならぬ私のことも。なにもかも、わかっているような気になっても、結局なんにもわかってなくて、だからこそ、あの日あの場で父を狼狽させてしまったときのような失敗をして。その恥ずかしさを、その知ったかぶりの見栄を、私はこの『劇』に照らし合わせてしまったのだろうか。
(わからない。でも、やらないでわからないなんて言いたくない。やってもいないのに、できませんでしたなんて嫌だ)
脳裏に浮かぶのは、堅苦しい言葉で翻訳された台本。
声を出すときのコツを思い浮かべて、喉を広げて胸を張る。
観客はただ一人……いや、一匹。鮮やかな橙色の大きな金魚。
(こんな綺麗な金魚、私には、もったいないくらいの観客だ)
目を閉じて。
うたうように。
「――今日は私の秘めたる思いを告げよう」
傲慢に。
「私はこの老体から一切の苦労を取り払い、穏やかな老後を過ごしたい。そこで、この三つに割った国を若い者たちに譲りたいのだ。ゆえに、娘たちよ。私が王冠も兵も捨てたとき、誰が一番私のことを愛しているのか、ハッキリさせたい。いいな?」
ウィリアム・シェークスピアの『リア王』は、おべんちゃらを語る二人の娘に遺産を切り分け、自分のことを本当に愛していた末娘を追放してしまったことで、だんだんと歯車が狂い出す、という物語だ。
冒頭で、リア王は娘達に誰が自分を愛しているか、と投げかける。その言葉に、口々に耳障りのいい言葉を選ぶ娘達に、リア王はどんどん調子を良くしていく。今日の演者は残念ながら私一人だ。だから、私は、脳内で登場人物を足しておく。
(長女ゴナリルは、愛を命そのものという。だからリア王は、気分を良くして仰け反る)
「ならばおまえには、広大な牧草地と魚の群れる川をやろう」
自慢げに、笑みを携え、まるで慈悲深い父のような身勝手さ。
(次女リーガンは、もはやリア王からの愛以外は愛ではないとまで言う)
「ならばリーガンよ。おまえには美しい王国の肥沃な大地をやろう」
リア王は正解の解答を示した子に褒美をやるように、子供のことを上辺だけを見て、優しくたおやかな母のように王国を切り分ける。
身振りは大きく。息を吐いて、躊躇いながら呟くように。私はリア王。ただ、自分を褒め立てる言葉に気を良くした、哀れな老人。
「さぁ、コーデリアよ。おまえは私になんと言って、豊かな王国をもらい受けるのだ?」
賞賛されることが当たり前なのだと、信じて疑わない傲慢な笑み。その言葉に、その身振り手振りに、悲しげに目を伏せるコーデリア。そんな風に見られるなんて、そんなつもりじゃなかったのに。一番可愛がっていた、大切な末娘。コーデリアはその美しいかんばせを揺らし、けれど、決意を持って口を開いて。
「すごい……」
そんな、外からの言葉にかき消された。
「ん――……コーデ……あ、や、違う。鞠子?」
教室に入るなり、拍手とともに私に向かって歩いてきたのは、八重歯がよく似合う鞠子だった。そういえば、鞠子は他のクラスメートたちよりも、早くから来ていたような気がする。
「鶫、あなた演技が出来るの? すごかったわよ、今の!」
「まだ練習中。でも、ありがとう、鞠子」
「お礼なんて! ね、ね、もしかしてあなた、女優になりたいの!?」
女優、ときくと、どうしてか大げさに聞こえる。でも間違ってはいないから、私は鞠子の言葉に頷いた。いつもびっくりしてるか誰かを宥めてる印象が強い鞠子が、こんなにぐいぐい来るのは新鮮だ。
鞠子は――鞠子は、いつも身なりが良くて、上品で、気にしいで、思えばそれはいつも“なにか”を我慢していたということだったのかもしれない。なにを、と問われると、まだわからない。でも、もしかしたら、今こうしてキラキラと輝いている鞠子こそが、本来の鞠子なのかもしれない。
「うん。そのつもり」
「へぇ! すごいわ。なんだかわくわくしちゃう!」
「他人事なのに?」
鞠子は私の言葉に彫像のように固まると、「そうよね、他人事だよね」としょんぼりと呟いていた。こういうとき、どうすればいいのだろう。ニンゲンカンケイってほんと難しい。どこかに正解が落ちていれば良いのに。
そんな風にうんうん唸っていると、私が答えを見つけるよりも早く、鞠子はがばりと顔を上げた。それはもうすごい勢いだった。
「うちね、パパがね、白上建設っていう建設会社の社長で、すっごくお金を持ってるの!」
なにを言い出すのかと思えば。そう目を細めて鞠子を見ると、鞠子は慌てて続きを言う。
「ふぅん、で?」
「興味なさそうにしないで! いやホントは、成金って言われるの嫌だから、言うつもりはなかったんだけど……でね、私、パパに頼んでみる!」
「頼むって、なにを?」
興奮冷めやらぬ様子の鞠子に、私は続きを促すことしか出来ない。
「芸能事務所! 鶫が女優になれるように、パパに芸能事務所を作って貰うの! で、そこに鶫が所属する! ね、いいでしょ?」
きらきらとした目。鞠子らしくない、子供っぽい表情。右頬から見える八重歯が、可愛らしい、私の初めての友達。彼女がこんなにも私に言葉を募ってくれるという事実が嬉しくて、なんだか少し、頬が緩む。
太陽の差し込む教室。私と金魚と鞠子が照らされて、鞠子の興奮に潤んだ瞳がよく見えた。こんなに、私に期待してくれているのだと思うと、胸が熱くなる。
「うん、いいよ。そうしたら、鞠子がお仕事、持ってきてね」
「うんっ、任せて! なんだか私も鶫に、夢を貰っちゃったみたい!」
約束が果たされるのか、果たされないのか、それはきっと大きくなってみないとわからない。それでも、交わした約束が、差し出されて繋いだ手が、とても温かかったから……私はガラにもなく、叶うといいな、なんて、そんな風に思った。




