scene6
――6――
それから、というもの。
入院中の父には、脱走癖なんていう厄介な癖が身について、私のお見舞いという日課には、父の捜索、という任務が追加された。
平日の学校帰り。もうすっかり慣れた、病院の大きな正面玄関。エントランスからまっすぐ受付に歩み寄り、いつものお姉さんに声をかける。
「こんにちは。あの、今日は父は……?」
「こんにちは、鶫ちゃん。そしてごめんなさい、今日も、よ」
「はぁ……いえ。父がご迷惑をおかけします」
「いいのよぉ。それで鶫ちゃん、今日もお願いできるかしら?」
「はい」
困ったように笑うお姉さんに頷くと、お姉さんはほっと息を吐く。その様子にかえって申し訳なくなって、私はお姉さんと似たような引きつった笑みを返すことしかできなかった。
(さーて、今日はどこかな)
最初は焦ったものだけれど、もう慣れた。
――あるときは、近くの公園。
――あるときは、デパートの屋上。
――あるときは、河川敷に座っていて。
――あるときは、アパート裏手の駐車場。
気が付けば、だんだんと、父を見つけるのが早くなっていた。
病院で頭を下げて飛び出して、当たりをつけながら歩く。入院着はそれなりに目立つから、周囲の人に聞き込みをして父の痕跡を辿る……なんていう技も覚えた。今日もそれに倣って、近隣を歩いている人――青い服の若めの男性、いわゆるお巡りさんに尋ねることにした。
「こんにちは」
「やぁ、こんにちは。鶫ちゃんは今日も“お父さん”探しかい?」
お巡りさん、というのは、近隣を練り歩いて困っている人を助ける職業なのだと、彼は以前、私に言った。ホラー映画に出会うまでついぞ助けて貰ったことなどないから半信半疑なのだけれど……たぶん、ドラマや新聞で見かけるような、悪人を捕まえる警察官という職業の方々の、下位互換なのだろう。大変そうだ。
「はい。父……入院着のひと。見ませんでしたか?」
「ちょうど、病院裏手の公園で見かけたよ」
「ありがとうございます、お巡りさん」
頭を下げてお巡りさんと別れると、歩きながら脳裏に病院裏手の公園を思い描く。けっこう大きな公園で、真ん中には池があって雑木林もある。父が最初に脱走したときに見つけた公園で、もしかしたら逃げ場が一周したのかも、と思った。
病院の敷地を出て、外周のコンクリート塀沿いに道路を歩く。五月を迎えたばかりの東京は、かなり温かくなった。いつもの七分丈の上下が、ちょうど気候にあっている。それでも、今日みたいな曇り空の日は、少しだけ風が冷たかったりもするのだけれど。
(六月になったら雨の日が増えるよね……探すの大変そうだなぁ)
今日は、五月二日の金曜日。明日は土曜日だけれど、旗日だから学校はない。今回は飛び石連休ではなく、三日間でお休みが固まっているから、ご飯を抜かれると正直困る。でも、今の父は穏やかになっているし、最悪、商店街のコロッケくらいは奢ってくれ、ると、いいなぁ。
考え事をしていたら、すぐに公園が見えた。公園の入り口から池の周囲までは、色んな子供や大人達で賑わっている。だから、父がいるのは池の裏手。昆虫なんかより面倒なカトンボなんかがたくさん居て、人気の無い雑木林の中だ。私は何故か蚊に嫌われる体質で、反対に、母はよく蚊に食われて苛立っていた。
枯れ葉に差した木漏れ日を、薄いスニーカーで踏みしめながら、雑木林を進んでいく。そうするとすぐに、木陰から大池を覗き込める位置にある、二人がけの木のベンチが見えてきた。腐りかけのベンチにぼんやりと腰掛ける、入院着の男性。間違いない。父の姿だ。
「父さん、見つけた」
「…………ぁぁ、鶫、鶫か。見つかってしまったな」
「隣、いい?」
「ぁぁ」
父は元気がなさそうに項垂れて、心なしか以前よりやつれた頬を上げて、薄く笑っていた。膝に付いた右手がひどく震えていて、少々心配になる。
「父さん、大丈夫?」
「は、はは、ああ、大丈夫、大丈夫だ。はは」
父からお酒の匂いはしない。お酒が身体から抜けたら退院できる、らしいけれど、抜けたら健康になるのだろうか。やつれる父を見ていると、少しくらいならいいのではないかと思わないこともないけれど……なんだか、私がそれを言うのは良くない気がした。
とくに会話らしい会話もなく、ぼんやりと池を見つめる。ボートに乗って池の中央へ漕ぎ出しているのは、アベックだろうか。その様子を、どうやら父も見ていたらしい。父は、ボートを見つめながらぽつりと呟いた。
「父さんもな、昔はああやって、菫――っと、あー、母さんとボートに乗ったんだ」
「それって、デート?」
「ああ、そうさ。母さん、いいとこのお嬢さんでな。俺なんかがアタックしていいものか悩んだモノだが、我慢できなくってさ。二人で色んなところへ行ったモノだよ」
母が、良いところのお嬢様、だなんて、そんなこと欠片も信用できなかった。だって母だよ? 雪の日にせんべい布団一枚をはだけて寝ても、風邪の一つもひかない母さんが、お嬢様、だなんて。お嬢様っていうのはきっと、鞠子みたいに身綺麗な子を指すのだとばかり思っていたのだけれど、違うのだろうか。ううむ。
「お義父さんとお義母さんに認めて貰いたくて、色んな人に頭下げて起業して、母さんに婿入りしたんだ」
「むこいり?」
「婿入りって言うのは、あー、母さんの名字になるってことでな。俺は昔は荒木嗣って言ったんだが、母さんに婿入りして桐王嗣になったんだ。まぁ、でも、俺は四つの息子だからって、結局母さんのご両親に認められなかったんだ。だから母さんと駆け落ちして、それで……はは、まぁ、しかし、こうなってみると、あの人達の言うことは正しかったんだろうさ。会社はあっさり失敗して、なにもかもうまくいかなくて、この有様だ」
父は、池を見つめたまま、少しずつ声を落としてそう語る。失敗、とは、母と結婚したことだろうか。ということは――私が生まれたことも、失敗だったということなのだろうか。まぁ、そうだよね。それは仕方ないのかも知れない。
(だって、そうだよね、やっぱり段階を踏まないと。まずは父さんと母さんを恐怖のどん底に突き落として、それから、だ)
うんうんと一人頷いて、それから改めて父を見る。父は黙り込んでしまい、ただ池の水面を眺めていた。日が傾き、水面から跳ね返る陽光は茜色に染まっていて、痩せてしまった父の横顔をくっきりと照らす。曇り空から覗く光は、天使のハシゴって言うのだっけ、なんて、とりとめのないことを考えた。
手持ち無沙汰になって視線を落とすと、私の薄っぺらいスニーカーと、私の何倍も大きな、父の病院サンダルが目に入る。そろそろ帰らないと、病院の人に心配されてしまうかもなぁ。
「父さん、そろそろ帰ろう?」
「ぁ、あ、ああ、そうだな、すまん」
父は、立ち上がろうと己の膝に手を置く。その手がやはり震えていたモノだから、私はついつい首を傾げる。父は母のように丈夫ではない以上、風邪を引いたらたいへんだからね。
「ううん。……父さん、寒い?」
「? いいや、寒くはないよ」
「そう? でもほら、手が震えて――」
そう、手を差し出して。
「っ」
その手を、振り払われる。
「あぅっ」
弾かれて、ベンチの横に尻餅をつく。いつものように顔や頭を叩かれたわけではないし、尻餅をついたのもふかふかの枯れ葉の上だったからそう痛くはなかったのだけれど、久々だから油断してよろけてしまった。恥ずかしい。
打ち付けたお尻をさすりながら立ち上がると、父はいつものようにふてくされるでもなく、目を見開いて、震える己の手を見つめている。手が痛いのかな? 弱ったとか?
「父さん?」
「っ、すまない、すまない、鶫。ああ……け、怪我はないか!?」
狼狽した様子の父に、私はかえって困惑してしまう。父の焦ったような表情に驚いた、というのもそうなんだけれど、そもそも……『すまない』、なんて言葉を聞いたのは初めてだったから。
「う、うん。大丈夫。いつものことだし、いつもよりも痛くないから平気だよ」
だから、困惑する父をなだめてあげようと、そう告げて。
「ぁ」
私の予想に反して、父は小さく息を呑んだ。顔面蒼白になり、震える手で口元を押さえ、脂汗を掻く。目を泳がせて、迷い、惑い、震える視線で私を視界に映す。まるで、お化けでも見つけたみたいな反応に思わず首を傾げると、父はその場に崩れるように膝をつき、さらに両膝をつき、顔を埋めるように頭を抱えてしまう。
「おぉ、おおおぉ、うぉ、げほっ、げほっ、あ、うぁぁぁぁぁ!!」
そうして、声を上げて泣き始めた父を前に、私は呆然と立ち尽くすことしか出来ない。私は泣きわめく誰かを前に、どんな反応をすれば良いのか、知らなかったから。
だって私が泣いたとき、父は私を『煩い』と怒鳴りつけた。
だって私が啼いたとき、父は私を『邪魔だ』と手を上げ叩いた。
だって私が泣けなくなったとき、父は私に『はっ』と嘲り笑った。
わからない。どうしたらいいんだろう。ああ、でもそうだ、テレビでは確か、こうしていたなと思い出す。父の横に回って、痩せてしまってもなお大きな背中に手を乗せる。一度二度とその大きな背を撫でると、そのたびに、父は僅かに震えて、声を大きくした。これで本当にあっているかわからない。わからないけれど、できることは他になくて。
(母さんだったら、もっとうまくやれたのかな)
……なんて、詮無きことを考えながら、震える父の背を撫でることしか、できなかった。




