scene5
――5――
春の日差しが勢いを強め、寒い日がぐっと減ってきた頃。私はいつもよりも早い時間に起きて、学校へいく準備をする。本来はリュックサックなんかを推奨されているのだけれど、そんなものはないので、教科書を抜いたランドセルで行くことにする。
畳の上、一人物音を立てないように起きて、ぺらぺらのせんべい布団を押し入れに押し込むのが私の日課だ。敷き布団はなくて、いつも少し身体が痛い。痛む身体に鞭を打って、それでも動かさないとならない。億劫だけど仕方ない、とか、とか、色々考えていたのだけれど。
「鶫」
「っ……お、はよう、母さん」
一言、名を呼ばれる。跳ねそうになる肩を押さえながら、とっさに出てきた言葉は、なんてことない朝の挨拶だった。
母さんは、この時間は基本的に寝ている。夜の仕事が遅いから、朝に寝るそうだ。今も、テレビの前に布団を敷いて、私に背を向けて寝ているから、せんべい布団の向かって左から黒髪の後ろ頭だけが見えていて、声だけが私に届いていた。
「卓袱台の上の巾着」
母の短い言葉に、首を傾げながら、窓側ギリギリに寄せられた卓袱台を見る。するとそこには、確かに赤い巾着袋があった。
「巾着袋、ある、ね?」
「……おにぎり入っているから、持って行きなさいな」
「え?」
「今日。……今日、遠足なんでしょ。私は寝るから、鍵を閉めていきなさいな」
お弁当、なんて、ないと思っていたから。
息を呑んで、緩む頬を押さえて、卓袱台の上の巾着袋を手に持つ。中を覗き見ると、青いタッパーにぎゅうぎゅうに詰められた、不揃いのおにぎりが二つ。
「あり、がとう……母さん」
もう眠ってしまったのか、返事はない。でも私は、胸に詰まった温かい感情の名前もわからないまま、ランドセルに巾着袋を入れて、いつものスニーカーを履いて、やっぱり音を立てないように家を出た。
日差しは強く、少し暑い。足を動かすのも億劫になるような、朝の空気。でも、いつもと違うランドセルの重みが、心なしか足取りを軽くさせる。
「いってきます、母さん」
そう、扉を閉める前に声をかけ、家を出た。
小学校の校庭に集まって点呼を取ると、ぞろぞろとバスに乗り込んでいく。バスの座席は班ごとに固まるように配置されていて、私の班はたまたま、後部座席一列を陣取る形だった。
班のメンバーは、あの日、私を誘ってくれたクラスメートたちだ。後部座席右奥窓側に私。私の隣から順に、茶髪八重歯の二つ結びが学級委員の鞠子。おかっぱで物怖じしないのが君恵。お下げでほわほわしている幸子で、物静かで目元が見えない天然パーマの子が美有紀で、彼女が左奥の座席で窓側。
今日のスケジュールとしては、軽井沢までバスで移動して、湯川の公園を散策。で、お弁当を食べて有名な滝を見て写真を撮影して帰る、みたいな感じだったと思う。目を閉じてスケジュールを振り返りながら車内の様子に耳を立てていると、クラスメートたちはそれぞれはしゃいでいるようだった。もちろんそれは私の班も例外ではない。どうも、目を閉じていた私は寝ていると思われたのか構われなかったので、四人の会話に聞き耳を立ててみることにした。
(やっぱり、君恵の声が際だってよく聞こえるなぁ)
「ねぇねぇ鞠子ちゃん! 滝だって、滝!」
「はいはい、滝ね。えーっと、しおりに名前があったわよね。幸子、わかる?」
「えー、なんだっけー。こういうのは美有紀が詳しいよ。ね?」
「も、もう、幸子ちゃん。しおり見ようよ……えーっと、うーんっと、あ、白糸の滝だね」
四人は以前から仲が良いのか、テンポ良く会話をしている。周りに合わせないのが君恵で、鞠子が軌道修正を図って、幸子がなんにも考えて無くて、美有紀が雑用を引き受けてくれる、という感じかな。うーん、私自身のニンゲンカンケイの経験が少なすぎて合っているかわからない。
こっそり観察しながら、ふと思い出す。あの日、病室で父と会話をしたとき、父は私に役者の道を教えてくれた。それは確かにお化けになるより確実だと思うのだけれど……実際、演技とはどうやるのだろうか。こんなことなら、低学年の学芸会での演目、もっと真面目にやっておけば良かったなぁ。
(そうだ。どうせ手探りで演技を身につけるんだし、お化け風に人を驚かせてみようかな)
幸い、私の班の四人は誰も私を気にしていない。なら手始めに、私の隣に座る鞠子を驚かせてみよう。人が驚く瞬間って、どんな時だろうと考えると、答えは比較的早く見つかった。
(不意打ち、かな)
あのホラー映画でも、意識していなかったところから現れたお化けにびっくりしていた。あと、急に近づかれるとびっくりするよね。
昔取った杵柄とでもいうのか、酔っ払って寝ている父や仮眠で機嫌が悪い母を起こさないように、気配を消してなにかをする……みたいなことには慣れている。私はそっと息を潜めると、大きく動いたりしないように会話の不意を探すことにした。
「ねぇねぇ鞠子ちゃん、桐王さん、起きないね」
「君恵、あんたでも気にするのね」
「そりゃあね。だって桐王さん、面白いもん! ね、幸子と美有紀もそう思うでしょ?」
君恵が鞠子に話を振って、さらに幸子と美有紀にも話を流す。すると、鞠子の注意が、私と反対の窓際に近い二人に向いた。
「えー、そうだなー。最初はこわいと思ったけどー、確かにそうかもー。美有紀はー?」
「わ、私はまだわからない、かな。鞠子ちゃんは?」
幸子と美有紀の言葉に、鞠子が俯いて考え出す。二人の言葉を聞くために、私に背を向けた鞠子。ここが、チャンスかな。でも、なんて話しかけよう。普通に、会話にのればいいかな。聞き耳は立てたまま、気が付かれないように、鞠子の耳の位置を確認。
「私は、うん。桐王さんと仲良くなってみたい、かな。ずっと同じクラスなんだし――」
私は鞠子の言葉に続くように、そっと身を乗り出した。
「そう? ありがとう」
「――っひゃあああぅっ!?!?!!」
耳元で囁くように告げると、鞠子は耳を押さえながら飛び上がる。それから、車内の注目を集めたことが恥ずかしかったのか、顔を真っ赤にさせて座り直した。
うん、そう、なんだろうこれ。すっごく胸がぽかぽかする。驚かせることがこんなに興奮するなんて思わなかった。鞠子に感謝しなきゃ。
「ききききっ、ききき、き、桐王さん?!」
「いい反応だった。ありがとう、鞠子」
「びっっっくりするじゃないっ、もう!」
あんまりにもいい反応をしてくれるものだからお礼を言うと、鞠子はぷんすこ怒っているようだった。対象に、君恵はお腹を抱えて笑い出し、幸子はほわほわとしていて、美有紀は口元を引きつらせている。うーん、みんな特徴があっていい班だ。
「あっはははははっ、桐王さん最高! 鶫ちゃんって呼んでも良い?」
「いいよ、君恵」
私も私も、と続いてくれた幸子と美有紀にも返事をする。それから鞠子を見ると、鞠子もまた、大きくため息を吐いてから苦笑した。
「はぁ、もう、わかったわ。私の負け。私も、いいよね? 鶫」
「うん。望むところだよ、鞠子」
「なによそれ。なんだか鶫って武士みたいね……」
呆れたようにそう告げる鞠子。私はそんな鞠子に首を傾げながら、武士よりもお化けの方がいいなぁ、なんてことを思った。
軽井沢に到着すると、まずは点呼。それから資料館を巡って軽井沢の歴史や沿革に耳を傾けて、その後は遊歩道を散策。バス移動なんかも挟みつつ、白糸の滝にいくまえに、お弁当の時間になった。
私はレジャーシートなんか持っていないので、そこらへんに座ろうと思っていたのだけれど、班の皆がシートを広げて端に座らせてくれるというので甘えることにする。お弁当、ということで、私がランドセルから巾着袋を取り出していると、幸子が首を傾げながら私に声をかけた。
「そーいえば、鶫はリュックじゃないんだねー」
「うん。うち、リュックないから」
「へー」
聞いておいて興味があるんだかないんだか。なんでか鞠子は私と幸子の会話をハラハラしながら聞いていたようだったけれど、すんなり会話が終わるとほっとしているようだった。
みんなは色とりどりのお弁当箱に、卵焼きや唐揚げが入っている。私はというと、アルミホイルに包まれたおにぎりが、二つ入っているだけ。少なく見えるかも知れないし、彩りとかも、みんなみたいに華やかなわけじゃないけれど……私は、私のお弁当が一番な気がして嬉しくて、おにぎりにかぶりつく。
(母さん、塩、ふり忘れたな……んふふふ、お米、おいしい)
ご飯は噛みしめると甘いし、お腹が満ちていくのは幸せだ。一口、二口とかぶりつくと、梅干しが見えてきて嬉しくなる。今日は種の中の実じゃなくて、ほんとの梅だ。
「鶫、美味しそうに食べるわねぇ」
「そう? 鞠子は美味しくないの?」
「うーん、普通よ、普通」
「ふぅん?」
梅干しの酸っぱさ。お米の甘さ。ちょっと固くなったおにぎりは、不思議とできたてよりも美味しく感じる。できたてなんて、給食でしか食べたことないけれど。
(二つ目は塩っ辛い。母さん、比率間違えたな……おいしい)
なんとなく視線を集めながら、はぐはぐと食べていると、私の様子を見ていた美有紀が、自分のお弁当をじっと見つめた。
「つ、鶫ちゃんの様子を見てたら、なんだかいつもより美味しそうに見えてきた、かも」
「あー、わかるー」
「幸子ちゃんも? そ、そうだよね、うん」
「はははっ、確かに美有紀ちゃんと幸子ちゃんのいうとおりかも! 鞠子は?」
君恵に話を振られて、鞠子も少し逡巡を見せる。それから、鞠子はお弁当箱から卵焼きをつまんで口に放り込むと、なんどかほっぺたを動かして、うん、と頷いた。
「うん……うん。おいしい」
味がなかったり塩っ辛かったりすることは間違いない。でも、うん。今まで考えられなかったことだ。
父は暴力を振るわず、母はお弁当を作ってくれて、当たり前のようにご飯を囲む友達が出来て、気が付いたら名前で呼び合っている。夢も、目標も、やりたいこともできて、確実に以前よりもずっと進んでいて、前よりもずぅっと、世界が明るく見える。
(私、今、もしかしたら……けっこう楽しい、のかも)
胸に宿った感情。その感情に名前をつけるのが難しくても、ぽかぽかと温かいことはわかる。私はその感情を確かめるように、空になった巾着袋を抱きしめた。
――/――
軽井沢まで足を運んだ遠足行事。天候にも恵まれて、白糸の滝は雄大だった。最後にはみんなで記念写真を撮影して、帰りの車でうとうとして、それから。
私はどうしても今日の感情の理由を父に報告したくなって、夕暮れどきにも関わらず、解散場所の小学校から直接、病院に立ち寄った。
土曜日や日曜日は、正面玄関からエントランスに入ることは出来ない。裏口から回って警備員のおじさんに用件を告げると、おじさんは父の名前を私に尋ねた。
「父は、桐王嗣です」
「お嬢ちゃん、一人で偉いねぇ。えーと、きりおうみつぐ……みつぐ……ん、こりゃあ」
何故か言いよどむ警備員のおじさんに、思わず首を傾げる。
「どうかしましたか?」
するとおじさんは、言いづらそうに二の句を告げた。
「あー……お嬢ちゃん、どうもこの人、外出から帰ってない……あー、抜け出しちゃったみたいだねぇ」
「へ?」
「なぁお嬢ちゃん、お父さんの行きそうな場所、知らない?」
思わず浮かんだ疑問符。カーテンの向こうで痩せた父の横顔が、脳裏を過る。抜け出した……って、それはまさかひょっとして、そういうことなんだろか。
「抜けだし……だっ、そう……?」
脱走。その二文字が浮かび上がると、私はただただ困惑して、立ちすくんだ。




