scene4
――4――
一人で父と向き合う時間が、今日までどれほどあっただろうか。学校を終えた私は、家に直帰せず病院に立ち寄った。病院は見上げるほど大きく、踏み込むのに躊躇する。前回は母と一緒に入った訳なのだけれど、そのときは母の背を追うのに必死で、正面玄関の威容なんて気にしていなかったから。
大きく分厚いガラス扉を、色んな人が押し開けて入っている。大人の人は軽々と行き交いしているが、子供の私からすれば、重そうな扉でしかない。
(私はホラー……私はホラー……よし!)
深呼吸をして気合いを入れ直すと、他の大人の人が開けた瞬間を狙って、開いたドアの隙間に身体を滑り込ませる。入ってしまえばこっちのものだ。入って右手がエントランス。左手に購買や階段があって、正面がエレベーターだ。まずは、母がしていたように右手のエントランスから、受付へ。受付は五口もあってどこを選べば良いかわからなかったので、一番手空きの受付を探す。
見回すと、受付の一番左に座るひっつめ髪のお姉さんが、暇そうにしていたので、私は狙いをつけて駆けだした。受付は私の目元ほどの高さだ。背伸びをして机の天板に乗り出すと、私に気が付いて視線を向けてくれたお姉さんが何かを言う前に、先手を取る。
「あの、お見舞いなんですけど、その」
「あら、お見舞いね。一人で偉いわね。どなたの?」
「父の……えーっと」
父、の、ではなく、そうだ、名前を言わないと。
「桐王、嗣のお見舞いです」
「あら、ちゃんと言えて偉いわね。ちょっと待っていてね」
お姉さんはそう言うと、私の位置からは見えないお姉さんの手元でなにやら作業をして、それから改めて私に向き直る。
「四階の、五号室ね。エレベーターを上がって、正面右手側を一つ、二つ、三つ目の部屋」
「右手側を、三つ」
「そう。右手。右、わかる?」
「うん。ありがとうございます」
右手を挙げると、お姉さんは頷きながら微笑んだ。私はそんなお姉さんにお礼を言って、エレベーターに向かう。入り口のときと同じ。行き交う人々の波に乗って、エレベーターに滑り込む。ぎゅうぎゅう詰めとは言わないけれど、狭い箱に五人も先住民。子供ならもう何人か乗れそうだけど、大人が乗ったら肩身が狭そうだなぁ、なんて思った。
背伸びして四階のボタンを押す。エレベーターはごーんと音を立てながら、ぐいぐい上に進んでいく。一人二人と降りて疎らになったエレベーターが四階に到着すると、なんとなく息苦しいような気がして、飛び出るように四階に降りた。
(三つ目の、五号室)
エレベーターから左手直ぐ横は“ナースステーション”とかいう、受付みたいなところで、さらにその左奥に部屋がある。そちらが一号室と二号室なんだろう。エレベーターの左正面には奥へ続く廊下があって、真正面には部屋があり、三つ四つとたくさん続いていた。
部屋の位置を間違えないように慎重に、一部屋一部屋確かめながら移動していく。見上げるほど高い位置に、五号室、と書かれた部屋。何人かの名札が部屋番号の下に張られていて、その中に、桐王嗣の文字を見つけた。ここだ。
(この間の父は、果たして本物だったのだろうか)
ボサボサの髪と無精髭。右手に酒瓶で左手はつまみか新聞紙。そんな父の基本的な行動は、飲む、叫ぶ、叩く、寝る、食べる、くらいだった。先日、母と二人で会いに行った父は、母が私を騙して遊ぶための偽物で、今日は本物の父がいびきを掻いて寝ているんじゃないか。お酒を飲んで、また、私を叩くんじゃないか。穏やかな父が本物であって欲しいと考えつつも、そんな風に考えてしまう自分がいた。
大きな白い扉。そこを開けるのが、少し怖い。でも、もし、もしも。可能性はとても低いけれど、あの穏やかな父が本物だったら? だったら、過去が何か変わるわけではない。でも、私だって、変わると決めたんだ。父も変わったんだったら、私もそれを受け入れよう。だって私はいずれホラーになる女なんだから! こんなところで、立ち止まっていられない。
深呼吸。
(よし……!)
目線とそんなに高さが変わらない引き戸の取っ手に、手を掛ける。おそるおそる開くと、カーテンで仕切られた広い部屋が見えた。確か、一番奥の左側、だったはず。
心臓は相変わらず早鐘を打っている。でも、ここで怖じ気付いてはいられない。ホラー映画の幽霊だって、いざと決めたら主人公に果敢に襲いかかっていたんだし、私もそれくらいの気概で飛び込もう。ふん、と気合いを入れて、ずんずん進む。一番奥の左側、カーテンは閉じられているけれど、隙間が空いているのが見える。おそるおそる覗き込むと、そこには――やっぱり、髭のない、さっぱりとした父の姿があった。
(偽物、じゃ、ないんだよね)
隙間から見る父は、上体を起こしているけれど、ぼーっと窓の外を見ていた。暇、なんだろうか。表情もなにもないから、あれはあれでちょっと怖い。いやいやけれど、そんなこともいっていられないので、気合いを入れて息を吸い込む。
「父さん、開けてもいい?」
「……」
「えーっと、鶫、だけど、えーっと」
「……」
返事がない。起きていた、と思うのだけれど。
意を決してもう一度。呼びかけのために口を開くのとほぼ同時に、カーテンの向こうから声が聞こえる。
「ぁ、ああ、鶫か。いいよ、おいで」
「父さ……う、うん、わかった。入るね、父さん」
カーテンレールの小気味よい音。開けて入ると、父さんは先日のように、眉を下げて苦笑していた。先日の母のように、ベッド脇のパイプ椅子に腰掛けると、父の横顔と痩身がよく見える。
「お見舞いに来たよ。体調? は、どう?」
「いや、ははは、まだまだなんとも。まぁでも、そのうち良くなるよ」
「そっか」
会話が途切れる。普通の親子って、父親となにを話すんだろう。わからず首を傾げていると、父の方から私に声をかけてきた。
「鶫、その、学校はどうだい? 友達はいる?」
「学校は、たくさん勉強が出来て楽しい。友達もできたよ。今度の遠足で、一緒の班」
「へぇ! 遠足か。いつ、どこへ行くんだ?」
学校の話題を振られたので、鞠子の八重歯を思い出しながら答える。すると父は、ぱっと表情を明るくして、話を広げ始めた。
「来週の土曜日。軽井沢。あ、母さんにお弁当、頼まなきゃ」
「軽井沢か、いいね。父さんも、若い頃は母さんと行ったモノだよ」
母と二人、と言われて脳裏を過るのは、いつだったかもう思い出せない光景。後部座席の真ん中から眺めた、楽しげに揺れる二人の肩。
「母さんと? 昔は仲良かったの?」
思わず喉から零れたのは、そんな、当然の疑問だった。
「うぐ、ふ、はは、ああ、そうだよ。とても仲良かったんだ。だからさ、仲直りしたくて、入院したんだよ。ああ、もちろん、仲直りしたかったのは、鶫、キミともだよ」
「ふーん……」
「はは、つれないね。昔の菫……母さんみたいだ」
仲直り、と言われてもよくわからない。父は私を叩く人で、母は私に興味の無い人だったから。でも、もし、本当に、父と母が仲直り出来るのだとしたら……そこに、私は必要なのだろうか。だって、昔は仲良かったという両親が仲直りするのと、物心ついてから一度も仲良かったことがない私とでは、だいぶ違う。
父の顔を見上げると、父は困ったように笑って、私に手を伸ばす。私はいつ叩かれても良いように、ぎゅっと肩をすくめて防御の姿勢をとった。すると父は何故か眉を寄せて唇を噛んで、びくりと手を震わせて……腫れ物に触れるかのような手つきで、私の頭に手を置いた。なんだろう。入院で力が弱くなったのかな? ラッキーだ。これくらいなら、叩かれても痛くはない。
(そうだ、あのときも、ホラー映画をみたときも、父さんは、私が痛くない触れ方をした)
やっぱり、答えはそこにあるのだろう。私がホラーじゃないから、父は今のように、入院して穏やかになっても私を叩こうとした。でも、きっと、ホラーになってしまえば、父は、退院して筋肉が戻っても、私に痛くないさわり方をするはずだ。
(がんばろう。父さんと母さんが仲直りしたときに、私が、邪魔者にならないためにも)
「なぁ、鶫」
かけられた声に、首を傾げる。父は俯き、口を開いて、閉じ、唇を震わせた。私が父の言葉を待つこと、幾分か。父は、躊躇いがちに口を開くが、まだ、俯いたままで目が合わない。
「鶫は、父さんのことが――……」
「父さんの、なに?」
「……――いや。いや、すまない。なんでもない、はは、なんでもないんだ」
「ぇぇ……そう、なんだ? わかった」
父は今、私に、明らかに何かを言おうとしていたと思うのだけれど、なんでもないらしい。これ以上追求して前の父に戻っても困るので、私は父の下手な誤魔化しを肯定する。
「そうだ! 鶫、勉強はついていけているかい? 父さんはな、これでも昔は優等生だったんだぞ」
「優等生……?」
優等生、なんて、父どころか母にも私にも似合わない言葉が飛び出してきたモノだから、思わず聞き返す。怒られるかも、と身構えたが、父は俯いていた顔を上げて、表情を明るくした。
「あ、信じてないな? はは、今じゃ想像も出来ないだろうけれど、そのおかげで菫に出会えたようなモノでね。なにか、わからないことがあれば、教えられると思うよ」
良かった、怒ったりはしないみたいだ。けれど、わからないことと言われてもよくわからない。教科書を読んでおけば、満点……とまではいかなくても、ほどほどの点数はとれるし、困ったことはない。ううんと考えても、勉強でわからないところ、なんて、今はとくに思い浮かばなかった。
「わからないこと、なんて――ぁ」
けれど、頭をひねっている内に、ふと、思い浮かんだことがある。
「お、なにかあるのか? なんでもいいぞ!」
私がなにか思いついたように父を見ると、父はどこか期待を孕んだ眼差しで私を見つめる。ぐいっと乗り出した身体からはお酒の匂いがなくて、たったそれだけのことに戸惑ってしまった。その、戸惑いが父に漏れないように、次の言葉を告げることにする。
「……なんでも?」
「ああ、もちろん!」
なら、一つ、知りたいことがあった。父は大人だし、優等生だったらしいし、もしかしたら本当に、私の疑問に答えてくれるかもしれない。
「なら、どうしたら、ホラ、じゃなくて、ええっと、そう」
「うん、うん、うん?」
ホラーというと、私がホラーになろうとしていることがバレるかも知れない。父も母もあのホラー映画を怖がっていたし、阻止されたら困る。言い換えないと。
「そう、そうだ。ねぇ父さん、どうしたら――映画の中の人になれるの?」
「映画、の、中の――鶫、は、役者になりたいのか……?」
父に言われて、はっと気が付く。そっか、なにも本当にホラーにならなくたって、ホラーの、幽霊の演技ができたらいいんだ。やっぱり大人の方がすらすらと思いつくなぁ。
「役者……うん、そうかも」
「は、はは、そう、か、そうか! 夢があるのはいいことだ。そうだ、図書館なんかで演技のやり方を覚えたり、あとは、テレビドラマなんかを観て勉強したら良いんじゃないか?」
父はそう、アドバイスとともに私を応援してくれる。けれど、どうしてだろう。震えた声と泳ぐ目。それから、なにかを我慢したようにこわばる肩。役者にいい思い出がないとか? それだったら、アドバイスなんかせずに、もっと違うことを勧めるよね。なんだか、父の動揺の理由がわからず、モヤモヤとした引っかかりが胸に巣くう。
「……さて、そろそろ帰らないと、菫――母さんが心配するんじゃないか?」
母は絶対心配などしないと思うけれど、粘る理由もないので頷くことにした。
「うん……わかった。また来るね」
「ああ、いつでもおいで」
父に手を振って、踵を返してベッドから離れる。カーテンを閉めて病室から出ると、思わずため息が零れた。母も機嫌が良いといいなぁ、なんて思いながら。
――/――
「虐待していた子供は夢を見つけて、俺は?」
「こうしている今、この瞬間でも、酒が飲みたくてたまらないのに……ッ!」
「俺は……俺は、子供の未来に必要なのか……?」
「――俺は」
 




