scene3
――3――
最近、なんだか父の様子がおかしい。母もちょっとおかしい。
怯えてる時間がもったいないから、きびきび挨拶をしてさっさと登校するようになってから数日。父は、なんだかぼんやりとすることが増えた。そんな父を見て、そわそわしている母の姿もあった。
父は酒瓶を傾けて、中身が入っていないことに気が付くとイライラして酒瓶を振り上げ、思い詰めた様子でそっと下ろす。てっきり投げつけられるかと思っていた私は、避けようと構えていた身体から力を抜く……なんてことが、何度もあった。
(どうしたんだろう……?)
まさか既に、お化けに取り憑かれているんだろうか? 先を越された? むむ。
とりとめのないことを考えながら、小学校から帰路につく。ここ最近、なんだかランドセルの重みが気にならなくなっていた。気にしている余裕なんかないから、だと思うけれど。
首をひねりながらいつもの路地裏を抜け、細い道を通り、ボロアパートを見上げる。さび付いた階段を登り、二階の奥、角から二番目の部屋へ。ドアノブに手を掛けると、すんなり開いた。鍵が掛かってないのなら、家に父がいるのだろう。そう思って開いた先には、化粧台の前に座る母の姿があるだけで、父の姿は見えない。
「ただいま。母さん、父さんは?」
私の問いかけに、母は背を向けたまま返事をする。
「鶫、ランドセルを置いて出かける準備をなさいな」
ただし、聞きたいこととは違っていて、思わず首を傾げた。
「出かける? どこへ?」
「病院よ」
「病院……母さん、身体が悪いの?」
私の知る限り、母はかつて一度だって身体を壊したことはない。父が風邪を引こうが、真冬にせんべい布団で寝ていようが、風邪の一つもひかずにピンピンしているイメージが強い。なので、ついつい私の言葉尻には疑問符がくっついてしまった。
「私じゃなくて、あの人よ。入院したの」
「父さん、が、入院……?」
いつもお酒飲んで暴れていれば、そりゃあ入院の一つもするだろう。でも、母に焦った様子がないものだから、それならそれでなんで入院なんて、という疑問が湧き出てきた。
「あの人ね、嗣さんね、お酒、やめるんですって。まったく、できっこないのに」
「え」
「ほら、いくわよ」
いつもの夜のお仕事よりもずいぶんと薄い化粧をした母が、玄関で慌ててランドセルを置いた私の手を引く。アパートを出て裏手の駐車場には、母が職場へ行くのに使っている車がある。トヨタのカローラ? だかなんだかという名前の車で、母が独身時代に買った~とか、そんな話を、両親の会話から盗み聞いたことがあった。
この色あせた空色の車に同乗したことなんて、ほとんどない。父と母が機嫌が良いときに、一度、後部座席に乗ったくらいだ。それだって、上機嫌にどこかにゆく両親を尻目に、私はこの後部座席に埋もれて空を眺め続けていた。置いていかれた、なんて、考えたくなかったから。
(まぁ、私がとてつもなく恐ろしいホラーになれば解決することだし、昔のことはどうでもいいや)
後部座席に乗り込むと、何も言わない母が車を発進させる。後ろから見る母の姿は、かつての、上機嫌なときの姿とよく似ていた。だから、だろうか。
(車に乗るときは、ここがいいな。とくに意味なんか無いけど、うん、ここがいい)
運転手の姿を後ろから確認できる、後部座席の真ん中。たった二回の車経験の中で私に芽生えたのは、そんな、なんだか心がぽかぽかするような感情だった。
病院は、私の通う小学校にほど近い立地なようだ。道中通り過ぎた小学校の校門を見て、お見舞いくらいだったら学校帰りに寄れそうだな、なんて風にも思う。
病院の正門前から右側へ誘導されて、大きな駐車場の一角に車が停まる。母がエンジンを止めて車から降りると、私は、置いていかれないように、慌てて車から降りた。
正面玄関から人の行き交うエントランスへ。まっすぐ受付へ向かった母の後ろで、私はぐるりと周囲を見回す。病院なんて近所の町医者しか知らなかったけれど、ここは町医者なんかよりもずっと大きい。天井の高いエントランス。人の行き交うエレベーター。入院着、というのだろうか。薄い緑色の服を着た人もちらほら見えれば、車椅子に乗った人の姿もある。
(こんな大きいところに入院してるんだ……)
父親。父さん。お酒を飲んでるか暴れているか寝ているか……思い出を探ろうと思っても、胸中にはろくな姿がない。それでも私はあの日のホラーで得たぬくもりを覚えているから、胸の奥がズキリと痛んだ。
「鶫、行くわよ」
「ぁ、う、うん」
母が先行して、私はその後をついていく。周りを見れば、家族連れはみんな手を繋いでいるのに、私はただカルガモのようにあとをついていくだけだ。別に、今に始まったことじゃない。
……ないのだけれど、だからこそ、なんだか変な感じだ。だってあのボロアパートから駐車場へ向かうまでのほんの僅かな間、母は私の手を引いてくれた。手を、繋いでくれた。だからなんだか、変な感じがする。色んなコトが、いつもどおりじゃないような、そんな感覚。
「ついたわよ」
「……うん」
声をかけてくれた母に頷く。六人分の名札が書かれた大きな病室。母が扉を開けると、そのまま窓際まで歩いて行くので、私はそれに付いていった。大きな窓、向かって左。白いベッド。上半身を起こしていて、シーツは下半身を隠している。薄い緑の入院着を身に纏う男性の姿に、私はちょっと戸惑った。
父、なのだと思う。見慣れた無精髭が刈り取られ、目元まで覆った前髪はざんばらに切られている。窓の外を見ていた視線が私たちに移ると、なんだかとても若返った様子の父が居た。
「菫、鶫、来てくれたのか。ベッド脇に椅子があるから、使うと良い」
……いや待って、やっぱり偽物かも知れない。動揺する私を余所に、母は気にした様子も無くベッド脇のパイプ椅子に腰掛けた。
「お酒、抜けそうなの?」
「ははは、いや、まだなんとも言えない。今は落ち着いているけれど、発作のように欲しくなる。恥ずかしながら、一暴れした後なんだ」
「そう」
「苦労を掛けるね」
「ほんとうに」
穏やかな表情で現状を語る父の顔は、これまで一度だって拝んだことがないものだった。対する母は、どこか憮然としていてニコリともしない。でも、いつもよりも薄い化粧で、怒ったり喚いたりせずに座っていると品が良いようにも見えるから、不思議だ。
母は、膝の上で両手を揃えて、父にお小言のようなものを言っている。それに父は苦笑して、どこか気弱そうに母をなだめていた。まるで、普通の夫婦みたいだ。私という異物がいなければ、もっと良い雰囲気だったのかもしれないけれど……まぁ、それはいい。家族の溝は、いつか必ず私が恐怖の権化となって埋めるから。できればノストラダムスが予言したとかいう人類滅亡前にはやり遂げたい。あと二十年近くもあるんだし、たぶんやれる、はずだから、ね。
「まぁ、続けられそうならそれでいいわ」
「苦労を掛ける。それで、入院費は……」
「病院は後払いなんだから、どうにだってなるわよ、バカね」
「いや、すまんすまん」
そう言って、母は席から立ち上がる。それから、私に感情の乗っていないいつもの視線を向けると、手を差し出した。
「そろそろ帰るわよ、鶫」
「来てくれてありがとう、鶫。また来ると良い」
おずおずと差し出した手を母に握られ、手を振る父と別れて病室を出る。冷たい母の手。今日だけで二度も握ることになるとは思わなかった、母さんの手。
「小学校の帰りによれるでしょう? たまに、顔を見せてあげなさいな」
「ぇ、あ、う、うん、わかった」
会話らしい会話はこれだけだ。これ以上も以下もなく、病院を出て、車の後部座席に座って、車窓から景色を眺める。だんだんと日が延びてきて、夕方も近い時間帯なのに、空はとても明るい。流れる景色を目で追うように振り返れば、リアガラスの向こうで病院が小さくなっていた。
学校の帰りに寄ることは出来そうな距離に、病院がある。あの、穏やかな父の姿に慣れるのはとても時間がかかりそうだけれど……でも、そっか。お見舞いに、行っても良いんだ。
(お見舞い、お見舞いかぁ)
後部座席から見える母の肩が、どこか楽しげに揺れる。なにかが、変わったような気がした。




