scene2
――2――
いつものように、父は私に暴力を振るう。
いつものように、母は家族に対して無関心。
いつものように、私は、部屋の隅で蹲る――
「おはよう、父さん」
「は? あ、ぁぁ」
「行ってきます、母さん」
「ん、え、うん??」
――なんてことはなく。
とくに以前までと変わらない両親を余所に、私自身はちょっとだけ変わった。
(まずは金魚の餌やり。それから、朝の会まで図書室!)
明確に性格が変わっただとか、そういうことではない。ただ、時間の無駄というものを意識するようになっただけだ。せっかく誰より早く学校に来ているなら、生き物係の仕事をさっさと終えて、図書室に引きこもる。そうすれば、勉強が出来る。宿題やテストで時間が減るのも惜しいから、先生の授業はちゃんと聞いて、問題も起こさないようにして、勉強する。
そう、図書室に籠もってしている勉強は、学校のことじゃない。ズバリ、どうしたら私はホラーになれるのか、というその一点だ。
(幽霊になればいい? いやでも、死んじゃったら父さんと母さんを仲直りさせたりできないよね。幽霊を呼ぶ? どうやって? 学級委員ならわかるかな)
ランドセルを背負って登校して、餌やりをして、図書室で妖怪やお化けについて調べる傍ら。脳裏に描くのは、茶色の髪のツインテール。おでこと八重歯が特徴的な、学級委員のあの子だ。そういえば、あの子はなんて名前だったっけ? 覚えてないから、あとで聞いておこう。
今のところ、私が気軽に声をかけられる……あるいは、声をかけてくれるのは、あの子だけだ。彼女が内心私のことをどう思っていようがどうでもいいけれど、とれる選択肢を逃がしたくない。
(でも、急にお化けや幽霊の話なんかして、答えてくれるのかな? 父さんのビール瓶が直撃しそうになる瞬間ほど怖い物なんてないとは思うけれど、普通の父親はビール瓶なんか投げないんだよね? なら、お化けの方が怖いのかも)
あっちへこっちへ逸れる思考。うんうんと唸りながら、結局のところ、“仲良くならないと聞けるモノも聞けない”なんていう、当たり前の着地点だけが頭に浮かんでこびり付いた。
ニンゲンカンケイってメンドウだとか、思わないこともない、ぐぐっと身体を伸ばしながら板目の天井を眺めると、ため息をひとつ。面倒、とか、そういうのがあったから、私はずっとあの部屋の隅でじっとしていたのかな。動かないから、何も変わらない。変わらないのに、なんでお腹がすくんだろうって考えてた。
(きっと、それがダメだったんだ。だったらもう、今日で“面倒くさい”はやめる)
お腹が空くのは苦しい。
苦しいということはつらい。
つらいままなのは、いやだ。
でも、それ以上に、あの温かさを二度と感じられないのは、いやだ。
ホラー映画を見て、両隣から感じたあのぬくもりが、あれっきりだなんて、いやだ。
(やろう。やれることは全部やろう。今日までさぼってきたんだから、それくらいでちょうど良い)
視線を本に戻す。可愛い絵の、妖怪の本。知らないことを知るのは、面倒なことではなくて、空っぽの心に火を灯すような――“ワクワク”すること、だ。
そう思えば思うほどに、勉強が楽しくなる。新しい知識を得ることが、嬉しくなる。今まではよくわからなかった、大人の言う“勉強しなさい”の言葉の意味を知る。きっと、大人達は勉強の楽しさを知っていて、楽しいことだから、両親は私に勉強しろとは言わなかったんだ。だって、私の両親は、私が遊んだり怠けたりすることが嫌いだから。
(よし、朝の勉強終わり)
本を片付けて、今日はいつもよりもちょっとだけ早く教室へ。廊下から扉を少し開けて中を覗くと、まだまだ人は少ないけれど、数人のクラスメートの姿が見えた。輪になるように三人四人。その中には、学級委員のあの子の姿もある。私に背中を向けているクラスメートの影から、あの子の横顔が見えるような配置だ。私に話しかけるときはいつも緊張したような顔だから、笑顔を浮かべている姿は珍しく思う。右頬から覗く八重歯が、いつもよりもよく見えるような気がした。
この上なくちょうどいい。仲良くなれるかなれないか、なんて話の大前提。まずはあの子の名前を訊かないとならなかったから。
(まず、おはようでいいのかな)
そう思って、扉をちゃんと開けようと手を掛けて。
「鞠子ちゃん、桐王さんのこと、怖くないの?」
なんて、クラスメートの声に手を止めた。まりこちゃん? とは誰だろう。扉の隙間から目をこらすと、学級委員のあの子の肩が、僅かに震えたところを見た。そうか、学級委員のあの子はまりこって言うんだ。覚えておこう。
まりこは未だ私が名前を知らないクラスメートへ、言いづらそうに指を絡めている。私の角度からじゃ横顔しか見えないけれど、十分だった。
「怖くないわけじゃないけど」
ふぅん、怖いんだ。ということはもしかして、私ってば幽霊の素質有り? そう思うと、ちょっと嬉しかった。鞠子には優しくしよう。
「こ、怖くないわけじゃ、ないんだよ? でも、きっと、悪い子でもなさそうっていうか」
「えー、ほんとに? でも、怖いよ? 鞠子ちゃんも、手鞠みたいに震えてたじゃん」
「手鞠?! いやだから、怖いか怖くないかで言えば、怖いって言うか」
手鞠、ということは、鞠子って書くのかな。なるほど。それにしても……いやぁ、私って怖くなれるんだ。これ以上こっそりこの話を聞いていると、顔がにやけてしまいそうだったので、音を立てて扉を開ける。すると、鞠子とその友人らが、大きく肩を跳ねさせた。
なるほど、なるほど、大きい音は怖い、と。脳内怖そうな物一覧に加えておこう。つり上がりそうな口角をぐっと押さえて、私は内心にそう刻み込んだ。
「おはよう、鞠子」
「うへぇひっ、き、ききき、桐王さん?! あ、あのそのあの、今の話、聞いて?」
「うん」
鞠子はさっきの子が言ったように、ほんとうに手鞠のように身体を跳ねさせる。ちょっと面白いかも知れない。
鞠子が大げさに反応しているだけで、他の子達はそうでもない。お下げの子、おかっぱの子、天然パーマの子。鞠子以外の三人は、ただ、顔を逸らして私と目が合わないようにしているだけだ。もしかして今の私って怖いんだろうか。ふふん。
「えっと、それはその、あのね、桐王さん」
「ちなみに、どの辺が怖いの? もっと怖くなれそうなところ、私にある?」
「は……――え、うん? 桐王さん、怖くなりたいの……???」
呆然と口を半開きにして私に問う鞠子に、私が「うん」と頷くと、未だ混乱から抜け切れていない様子の鞠子を余所に、他の三人があからさまに胸をなで下ろした。
「なんだぁ。桐王さんって面白いのね」
「良かったぁ! 鞠子ちゃん、知ってたなら教えてよぅ!」
「ほっ……」
お下げの子はほわほわしていて、おかっぱの子は元気で、天然パーマの子は物静か。全員名前は知らないけれど、四人でまとまっているなら鞠子だけ呼べればいいよね。
「これなら、遠足も安心だね! ね、鞠子ちゃん!」
「う、うん??? 君恵ちゃん、飲み込み早すぎない……???」
元気なおかっぱは君恵というのか。覚えておこう。君恵は鞠子の背中をばんばんと叩きながら、にこにこと笑っていた。そうか、なるほど、この四人が私の遠足のメンバーなのか。春の遠足は四月の第四週……来週の土曜日だ。日付も近いし、ここで交友関係が作れたのは良かった。
それに、私が怖い人になれる素質がある、と知れたのは思わぬ収穫だった。このまま情報を集めていけば、幽霊になったり幽霊を呼び込んだりせずとも、私自身が恐怖の対象として君臨できるかもしれない。楽しみだ。
「そういうわけだから、鞠子。私の怖いところ、じゃんじゃん教えてね」
「とりあえずその突拍子もないところが怖いよ、桐王さん……」
「うん……?」
理路整然としていたような気がするのだけれど……あれぇ?
私はげっそりとした様子の鞠子から告げられた言葉に、ただ、首を傾げた。




