scene1
――1――
まだ昼の日差しが温かい内に家に帰る。結局、お腹がすいて、寄り道の一つも出来なかった。重い身体を引き摺るように帰宅して、ボロボロのアパートの二階へ登る。ドアノブをひねると、鍵は掛かっていなかった。慎重にノブを回す。大きな音を立てると、夜勤明けの母が起きてしまうかも知れない。恐る恐る中に入ると、布団にくるまって眠る母と、畳の上でいびきを掻く父の姿が見えた。
(よかった、寝てる)
起きていると面倒だから。だから、ほっと胸をなで下ろして、音を立てないようドアを閉めた。三和土で靴を脱いで、ゆっくり和室に入る。腐りかけの畳からはギシギシと音がするが、その程度では二人は起きない。
ふと卓袱台の上を見ると、食べかけのおにぎりがあった。具はほじくり出されて食べられてしまっていたが、私の両手くらいのサイズのお米は残っている。ごくりと生唾を呑み込んで、父の腕を跨いで卓袱台に近づく。
(起きる気配は……ない。よし)
直近最後のごはんは、昨日の給食だった。おなかはぐぅぐぅと鳴っていて、食事を求めている。具のないおにぎりを手に取ってかぶりつくと、カチカチにかわいたお米と、よほど適当に作ったのか、強すぎる塩が口の中いっぱいに広がった。それでも、胃を満たす満足感にはかえられず、喉に詰まりそうになったら空気を飲んで押し込んで、残飯のようなおにぎりにむさぼりつく。
「あぐっ、はむ、むぐ、はぐ……んっ、んっ、はぁ」
起きてこないかな。
取り上げられたりしないかな。
早く、早く、早く食べないと。
口周りや手に着いたお米もとらないと。
急いで食べて、噛んで、呑み込んで。シンクに行って、引き出しを少し開けて足を掛ける。水をちょろちょろと出して直飲みすると、塩味が中和されて、お腹に広がった。そのままシンクを覗き込むと、梅干しの種が三つも落ちている。さっと洗って拾うと、念のためランドセルを背負い直して家の外に出る。ランドセルを置いて家を出たら、きっと、両親に「自分たちは働いてるのにおまえは遊びに行っていたのか?」って、嫌味を言われて、それからまた父に叩かれてしまうから。
足音を立てないように錆びた階段を降りて、アパートの裏に回る。アパートの裏手側は駐車場になっていて、コンクリートブロックや小石が落ちている。私はコンクリートブロックの上に梅の種を置くと、適当な大きさの石を拾って吟味する。それを梅の種に叩きつけると、種の中から小さな実が出てきた。私は、小さな実に土が付かないように口に放り込む。すると、小さな実に詰まったうま味がじゅわっと口の中に広がって、なんだかおやつにありつけたみたいで、胸の奥がぽかぽかと温かくなった。
「……はぁ、はぁ、ふぅ、よかった、ご飯、食べられた」
口元を手で拭って、家に帰る。ドアノブを回して中に入るとすぐに、父の声が聞こえた。
「鶫! おまえ、俺の握り飯、食ったろ!」
大きな声。怒声だ。その声に、肩が震える。驚きと恐怖で胃がひっくり返りそうになって、思わず口を横一文字に結んだ。なにか言わないと、と開いた口はぱくぱくと上下するだけで、とっさに声が出てこない。なにか言わないとという私の焦りは、でも、直ぐに、不機嫌そうな母の声に上書きされる。
「鶫は今帰ったばかりでしょ。あんたが自分で食べたんじゃないの?! くだらないことで起こさないでって言ったでしょう!」
「チッ、うるせぇな……」
どうやら、私に矛先が向いたりはしなかったみたいだ。ランドセルを背負って外に出た少し前の自分の判断を、心の中で褒めておく。もしランドセルを置いて出ていたら、せっかく食べたおにぎりを、吐き出すことになっていただろうから。
「オイ、鶫! おまえ、酒買ってこい」
「お、金、お金、ないよ?」
「チッ、菫!」
今、反抗して叩かれるよりも、買ってくると言って家を出て買ってこられなかったときの方が怖い。だから私は、三和土の上で靴も脱がず、自分のズボンをぎゅっと握りしめながら、恐る恐る父に問いかけた。お金を持たせてもらえたりしていないし、仮に自由に出来るお金があったら、商店街でコロッケでも買っている。
父は私を見限ると、大きな声で母を呼ぶ。けれど母はすっかりへそを曲げてしまっていて、父の言葉に聞く耳を持たない様子だった。父は、どんなに怒鳴り散らかして、モノを投げても、母のことは叩かなかった。
(私のことは、叩くのにね)
私は頭を振って、嫌なことは頭からたたき出す。そういえば、やらなきゃいけないこともあった。二人が言い合いをしているうちに、スニーカーを脱いでいつもの部屋の隅に移動する。ランドセルからノートを取り出して、私は一人黙々と宿題を始めた。机は自分の膝で、明かりは隙間風が薄ら寒い窓からとる。いつもの姿勢、いつものやり方だ。
鉛筆を持つ指先に、土が付いていた。きっと、石を持ち上げたときに付いた土だ。クラスメートの指先は、みんな綺麗だった、なんて、思い出さなくても良いことを思い出した。
宿題を終えても、部屋の隅で過ごす。なるべく両親の気に障る行動をしないように、俯いて過ごす。そうしていると夜になって、窓の外はすっかりと暗くなっていた。父はいつの間にか酒を買い足していて、グラスに注いだビールを呷っている。卓袱台の上にはスルメや枝豆が並べられていて、父と一人分の隙間を空けて座っている母が、枝豆をつまんでいた。
ブラウン管の光を後光にした両親の背中を見つめながら、私は、やり終わって膝の上に置いてあった宿題のノートを、ランドセルにしまう。吐いた息がいやに音を立てて、両親に気が付かれることが怖くて唇を引き結んだ。
「お、おい、鶫、おまえも来い」
不意に告げられた父の声に、疑問を覚える。それでも、トロトロしていると叩かれる、という防衛本能が、疑問よりも先に私の身体を動かした。
「父さん……?」
「ここ、座れ」
「わ、かった」
ここ、と、父が手を叩くのは、父と母の間に置かれた一人分のスペース。そこに身体を滑り込ませると、自然と、両親の体温が両側から滲んだ。右を見て、父の顔はテレビに釘ツケで。左を見て、母は枝豆を左手で持っているのに、身動きをとる素振りも見せず、テレビを観ていて。私は……私は、行き場のなくなった視線を泳がせて、やがて、仕方なく、両親と同じようにテレビ画面を見つめた。
(なんだろう、この番組。映画?)
暗い画面。憔悴した顔つきの男が、廃墟をさまよう。時折聞こえてくる悲鳴に、男と――両側の両親が、びくっと肩を震わせた。
(つまりこれって……私は、緩衝材?)
映画が怖いけど、両親でくっつく気になれなくて、私を間においたのかな。複雑な思いを抱きながらも、私は二人の間に収まる。天井を見れば裸電球がちかちかと明滅していて、窓を見ればガムテープで補強された隙間から、少しだけ冷たい風が吹いている。小さなブラウン管のテレビの中では、男の人が廃墟に入り込み、声を荒げている。
『クソッタレ! みんな、どこ行っちまったんだよ……』
『くそ、くそ、くそ、ぶっ殺してやる! ――ひっ』
男の周囲で影が揺らめく度に、両隣から震えが伝わる。緊張からか、じっとりと汗を掻いた二人の腕が、私にぶつかる。
(なんだろう、これ)
それを、私は、何故か。
(あたたかい)
心地よい、と、思った。
『ォォォォ!』
『ひっ、な、なんだよオマエ!』
『フレルナ……サエズルナ……ココハオマエノイバショジャナイ……』
『うわぁッ!?』
長い髪の女が、廃墟の影から現れ、しゃべり、消え、現れ、消える。その度に両側の両親がびくりと震えた。
「うわぁっ」
「ひっ、悲鳴なんかあげないでよ」
「お、おまえだって」
「あなただって……ひぃっ」
「……く、くく」
「ふ、ふふふふ」
悲鳴をあげ、震え、やがてそれが笑顔に変わる。いがみ合っていて、嫌悪と怒鳴り声で彩られていた日常に、初めて笑顔が零れる。私は――私は、ホラー映画なんかよりもずっと、その両親の様子が不可思議で、わけがわからなくて、それでも、この胸の内に満ちるよくわからないけれど温かい感情を、あえて言葉にするのなら。
(うれしい)
すごい。ホラーってすごい。ホラーって、人と人を繋げることが出来るんだ。私には出来なかった。両親にだってできなかった。きっと、あの熱血系の担任教師にも、学級委員のあの子にも、お巡りさんやお医者さんや、テレビで大声を上げている評論家の偉い人や、国会で壇上に立つ政治家にもできないことだ。一つの家庭の一つの家族を、たった二時間の映画で繋ぎ止めるなんて、できないことに違いない。
どきどき、どくどく。早鐘を打つ胸を抱きしめる。すごい、すごい、すごい。ホラーってすごい。どうしたら、こんな風に出来るんだろう。ホラー映画って、ほんとに起きたことなのかな。
(私、ホラーのこと、知りたい)
ブラウン管の向こうで、男の人が食べられる。
その光景に怯えて私に縋り付く両親の姿に、心が温かくなる。
そのとき、その瞬間、私の中でなにかが変わったような、そんな気がした。




