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opening

――opening――




 ―― 一九七三年



 物心、という言葉がある。

 記憶の始点。最初の思い出。ずっと残る心の記録。

 六畳一間。玄関左手には小さな浴室と和式便所があるアパート。



「邪魔だ、どいてろッ!」

「ッあ」


 頬に熱が灯る。カッと熱くなって、それからヒリヒリと痛んだ。骨と皮しかないような私の身体は簡単に吹っ飛んで、畳の上に転がる。腐りかけの畳は、たったそれだけで軋んで僅かに沈んだ。畳の上に転がるビール瓶が、私の顔を写す。やせっぽっちで目つきが悪い、かわいげの無い女の子。ざんばらの髪と目の下の隈が、まるでお化けみたいな子供。

 父親は、私を叩いたことなど忘れてテレビをみている。母親は、最初からずっと我関せずといった態度で、小さな化粧台の前で身体を折りたたんで、おしろいを叩いている。私は、そんな両親の姿を見ながら、這いずるように身体を動かして、穴の開いた襖に背中を預けた。


(おなかすいたなぁ)


 物心、という言葉がある。

 最初の記憶。根付いた思い出。心にこびり付いた記録。

 低家賃でおんぼろな部屋。玄関右手がシンクで、コンロは一口。


(今日はごはん、たべられるのかな)


 私の――桐王鶫の原点は、暴力と空腹の中で芽生えた。












B/e/f/o/r/e/T/h/e/a/t/e/r/――――――断章 桐王鶫(1)












――0――




 ―― 一九八〇年 春



 靴やビール瓶で散らかった三和土(たたき)で、赤いランドセルを背負うと、教科書の重みがずしりと肩に乗る。痩せた身体に食い込む肩紐がうっとうしくて、親指を滑り込ませた。背中を跳ねて背負い直すと、余計な力を入れたせいで空腹を思い出す。私はため息をかみ殺すと、背にのしかかる最低の悪循環を振り払うようにスニーカーを履いて、ドアノブに手を掛けた。


「おい、つぐみ


 低い声。ドアノブにかけた手を引っ込めて振り向くと、短く刈り込んだ髪に不肖髭の男が、しゃっくりを上げながら私をみていた。私が小さく「なに、父さん」と返事をすると、男――私の父は、私に向かってビールの空き缶を投げる。所詮は酔っ払いの暴投というべきか。空き缶は、私を避けて、固く閉じられたアルミの扉に当たって跳ねた。甲高い音。聞き慣れた音。びくりと震えた自分の肩を、誤魔化すように抱きしめて、父の機嫌を損ねないように続きを待つ。

 今のは空き缶だったから良かった。これがビール瓶に替わったらどうしよう。立ち上がってきて小突かれたらどうしよう。硬い拳は嫌いだ。頬を張られるのも嫌だ。黙って受け入れていれば、二発目はとんでこない。呑み込んだ生唾が、いやに音を立てる。早く、時間が過ぎて欲しかった。


「いってきます、くらい言ったらどうだ」

「……いってきます」


 いってらっしゃい、という言葉はない。期待もしていなかった。父さんは自分から振ったことなのに直ぐに興味を無くして、夜勤明けで布団にくるまる母に近づいていった。


「おい、すみれ、酒は?」

「ん……知らないわよ……」

「知らないだとッ!」

「アンタの酒代稼いで来て寝てンのよ! ……起こさないでちょうだいな……」

「チッ、くそッ!」


 布団を被り直す母。悪態を吐く父。その姿を最後まで見ることもなく、私はため息と一緒に、今度こそドアノブに手を掛ける。この程度で済んで良かった……なんて、慣れた安堵を吐息に滲ませながら。

 春の日差しは温かい。けれど、肌に触れる風はまだまだ冷たい。対して私の服装は、年中ボロボロの七分丈のポロシャツと、女の子らしさの欠片もない七分丈のズボン。まったく同じたった二セットのボロ布を着回す、着た切り雀。もう、周囲の奇異の視線にも慣れた。


(おなかすいたなぁ)


 朝食、なんていう文化は我が家にはない。ただ母が世間体のために払っている給食費のおかげで、昼ご飯にはありつけた。ろくに友達の一人も居ない私にとって、学校とは、給食を食べに行く場所だった。今日、夕飯にありつけるかどうかは賭けだ。今日は、夜勤明けの母を父が起こしてしまったから、きっと賭けは私の負け。不機嫌になった母はきっと家を飛び出して明日まで帰ってこないし、母がいなくて不機嫌な父は酒浸りになる。これで父の機嫌が良かったら、店屋物の一つでもとってくれるのだろうけれど……ああ、いや、だめだ。食べ物のことを考えるのはよそう。


(今日の給食、なにかな)


 学校までの道のりは、バスを使えば十五分程度。でも、うちにバス代なんかないから、アパートに面した小道を抜けて、バスの通る大通りを徒歩で通学する。だから、調子の良いときでもゆうに四十分はかかる。通学路にはコロッケを売っている商店なんかがあるのだけれど、私は通学路でお腹がすくのが嫌で、いつも路地裏を使っていた。ホームレスがたくさんいる路地裏は、えた匂いが充満している。お酒と化粧の匂いで満ちた我が家とどちらがマシだろうかと考えて、どっちもどっちと結論づけた。空腹を誤魔化すように俯くと、視界に飛び込むのは、履きつぶして薄くなったスニーカー。重くため息を吐くと、汚れたつま先が余計に惨めに思えた。








 四年三組窓際一番後ろが、私の席。トラブルがあっても遅刻しないように、早めに家を出ているから、いつも朝の時間は私一人だ。一人だけ教室にいて、私の定位置に座る。担任教師に押しつけられた金魚の餌やりをして席に着くと、ランドセルから今日の分の教科書を引っ張り出して、机の中にしまう。全部持って帰るのは面倒だし重いけれど、今の担任の先生が置き勉を禁止にしているから、致し方なく持って帰っている。目をつけられて、親の呼び出しだけは嫌だ。ただでさえ気まぐれな夕飯が、完全になくなってしまうから。


(そういや、今日は土曜日か。給食ないや。ごはんどうしよう)


 曜日感覚がすっぽ抜けていた。土曜日は午前授業だけだから、学校に来る意義はあんまりない。でも、家にいるくらいだったら、学校に来た方がマシだった。とはいえ、学校も別に楽しい場所ではない。私は、将来の夢の一つもない、ただ明日のごはんのことだけを心配しているような小学生だ。今年で十歳になるっていうのに、まだまだ自分の力でお金を稼いでご飯を食べられるようになるまでは時間が掛かるらしい。自分で稼げるようになったら、まず、なにをしよう。海に行こうか、海鮮でも食べようか。妄想は簡単で楽しいけれど、結局、“なに”を“どうやって”お金を稼ぐのか、うまく想像が出来なくて、結局、ただの妄想でしかなかったのに、考えることをやめてしまった。


(将来、か)


 校舎の三階。窓からはグラウンドが見える。都心の校庭なんて、田舎に比べたら猫の額みたいだ、なんて、酔っ払いの父が言っていたのを思い出す。そんな、とりとめのないことを考えながら窓の外を見つめていると、校庭に差し込んだ日の光が、雲間を抜けて、私の座る窓際の席を照らした。その陽光があまりに温かいモノだから、春の肌寒さに固まった肌が、ぼんやりと熱くなって。


(ちょっとだけなら、いいか……)


 私は机に突っ伏して、瞼を閉じた。気持ちがふわふわと薄らいで、心がゆらゆらと揺れてゆく。眠りに落ちる瞬間は好きだ。今この瞬間だけは、嫌なことも苦しいことも忘れられる。お腹は減らないし、叩かれたりもしないし、明日のコトなんて気にしないで良くなる。だから、眠ることは好きだ。寝ることだけが、今の私の、好きなことだ。

 だから、この瞬間はとても楽しい時間なはずだ。はず、だったんだけど、どうもダメだ。眠る直前に考えていたことが、ぐるぐる、ぐるぐる、と、脳裏を駆ける。ぎゅぅと強く瞼を閉じても、関係なく、私の頭を侵す。


(将来の夢、か)


 将来、自分はなにをしているのだろう。身近な人間といえば、両親と先生くらいなものだ。クラスメートには、お嫁さんだとかお花屋さんだとか、明るい未来を想像している子もいる。でも、私にはどれもしっくりこなかった。




 花を見て喜ぶような可愛い感情はない。

 ――食べられるのなら考えるけれど。

 誰かのお嫁さんになって楽しいと思えない。

 ――そもそも、私なんかと結婚してもしょうがないでしょ。

 学校の先生なんて想像も出来ない。

 ――誰かのことを教えるなんて無理だよ。

 父さんのようにのんだくれになるのは嫌だ。

 ――お酒のおいしさなんて、きっと一生わからない。

 母さんみたいに、夜の仕事をする?

 ――男の人とお酒を飲んでおしゃべりをするらしい。なにが楽しいの?




 眠りに落ちかけた瞼を開く。

 窓ガラスに映るのは、ざんばらの髪の、やせっぽっちの子供。

 薄汚れていて、目つきが悪くて、絵本に出てくる魔女のよう。


(将来は魔女? ……はは、お似合い、かも)


 将来の夢。なりたいもの。なにをどう考えたって、中身のない空っぽな未来予想図ばかりが浮かんで、消える。やがて疲れた脳みそがさっさと活動を拒否してしまったので、私は、今度こそ強く瞼を閉じて、意識を手放した。




 教室の端っこ。窓際一番後ろが私の定位置。

 家でも同じ。隙間風がうすら寒い窓際は、親も近づきたがらない。

 窓のそば。部屋の角。襖に背を預けて体操座り。


 ただひたすら、誰の機嫌も損ねないように空気になること。息を殺して、俯いて、ざんばら髪で目元を隠して、両親に“生意気だ”って叩かれないようにすること。


 それが私の定位置で――私の、日常だった。









――/――




「……、……」

「……!」


 声が聞こえる。微睡みに沈む瞼の向こう側から、声が聞こえる。睡眠、という至福の時間を邪魔されたような苛立ちはあれど、波風を立てるような面倒なこともしたくないので、私はあくびをかみ殺しながら目を開けた。


「桐王さん! も、もうすぐ朝の会だよ!」


 声だ。甲高い声。キンキンと響いて、母のヒステリーを思い出す。嫌いな音階だけれど、その声を出させているのは自分だ。うつらうつらと落ちそうになる瞼をこじ開けて、机に突っ伏していた身体を起こす。そうするとすぐに、脱色したわけでもないのに色素の薄い茶色の髪が、目に飛び込んできた。

 おでこを出すようにヘアピンで前髪をかきあげ、茶髪をツインテールにした女の子。特徴的な八重歯を見せながら、私を起こすために声をかけてくれたようだ。どうやら、想像以上に眠りこけてしまっていたみたいだ。熱血系の担任教師に起こされる前に声をかけて貰ったことには、感謝しかない。


「……ん。わかった」

「もう! ちゃんと起きてないとダメなんだからね!」


 そういうと、彼女(名前は知らない)は、プリプリと怒りながら自分の席に戻る。同じく窓際、一番前が彼女の定位置だ。戻る直前、彼女は私に背を向けると、小さな声で「こ、こわかった」と呟いていた。怖いなら話しかけなきゃいいのに、とは思うけれど、学級委員としての義務感が彼女を突き動かしたのだろうか。


(学級委員ってめんどう。生き物係でよかった)


 席替え前は席が近かった彼女は、その頃から私をなにかと気に掛けていた……ような気がする。でも、私は自分のことに精一杯だ。ろくに彼女のことを覚えてもいない私のコトなんて、放っておけばいいのにとすら思うのだけれど、どうして彼女はこんな私に声をかけてくれるのだろう。それで、お腹が膨れるわけでもないのに。

 一番前の席に腰掛ける彼女の姿は、間のクラスメートの背ですぐに見えなくなった。小さな身体。でも、身なりはきちんと整っていて、私とは違う世界の住人だと教えてくれるかのようで……私は彼女をみて、ちっぽけな自分から目を逸らした。







 人もまばらになっていく放課後。給食にありつけなかった私は、ひどくお腹がすいていた。家に帰って、父の酒のつまみでも盗み食いしようかな。もう、雑草とか、段ボールとかでもいいような気がしてきた。

 楽しそうに教室を飛び出すクラスメートたちの姿を尻目に、席を立ってため息を吐く。ランドセルの中身は朝と同じなはずなのに、今の方がずっと重く感じて、何度か揺らして背負い直した。肩に食い込む重みが辛い。のしかかって、転んでしまいそう。一度つま先を眺めたら、スニーカーよりよほど綺麗な上履きが目に飛び込んでくる。もう、顔を上げたくもなかった。


「き、桐王さん!」

「……委員長」

「い、イインチョウ?」

「なんでもない。なにか用?」


 顔を上げたくはなかったのだけれど、学級委員(長ではない)のあの子が私に声をかけてきた。右頬から除く八重歯が、気の強さを見せているかのようだ。

 彼女は相変わらず躊躇いがちに、腰を引きながら私に声をかける。スカートの端をぎゅっと握っているのだけれど、私が怖いのだろうか? 怖いなら、話しかけたりなんか、しなきゃいいのに。


「遠足の班分け、しなきゃでしょ? 先生に怒られるよ」

「……ああ、うん。余ったところで良いよ」


 遠足、なんて、行きたくないなぁ。でも、怒られるのは嫌だ。私が一言告げて黙り込むと、学級委員のあの子は、躊躇いがちに私を見上げ、それから、意を決して声を上げる。


「じゃ、じゃあ、私の班に、入る?」

「は?」

「うっ」

「……私なんか入れてもいいことないよ。あなたが煙たがられるかもしれない。やめておいたら?」

「け、けむ? 桐王さんって、難しい言葉を使うわよね……って、も、もしかして、私のこと、心配してくれてる?」


 何故かほんの少し嬉しそうな様子に、ため息を吐く。難しい言葉、と言われてもあまり心当たりはない。ただ、家で言葉を覚えるとき、新聞やニュース番組を教科書や先生にしていたため、かもしれない。よく、わからないけれど。


「さぁ」

「さぁ……って? と、とにかく、班分けのこと! 考えておいてね!」

「……わかった」


 遠足。お弁当か。どうせお弁当なんて作ってもらえない。行っても惨めな気持ちになるだけだから、仮病で休んでも良いかもしれない。でも、そうすると、担任の先生が煩いかな?

 足早に帰路につく学級委員のあの子の背をみる。クラスメートの集団と合流して、可愛らしく笑う彼女。白くて清潔なボタンシャツ。赤いスカートが翻る。髪も綺麗で、整っていて、たまらず俯いた。彼女の小綺麗な服装が羨ましいのかと聞かれたら、よくわからないと答えるだろう。だってあんな服、きっと私には似合わない。でも、笑って帰れる家がある、というのは――きっと、羨ましいんだと思う。だって、それは、私にはないものだから。


(ああ……お腹すいたなぁ)


 ランドセルを背負い直す。肩に掛かる重みは、朝よりも、さっきよりも、ずっと増しているように感じた。歩き出すと、ぼろぼろの上履きが見える。あのことは違って、なにもかも小汚い私の姿から、目を逸らすことは出来ない。目を瞑らない限り、視界に飛び込んでしまうから。でも、目を瞑って、なにもかも見ないようにしたら、今度こそ歩けなくなってしまいそうで……私は俯いたまま、人もまばらな教室をあとにした。


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― 新着の感想 ―
[気になる点] 毒親は”誰であろうと”許さない
[良い点] 祝再開!!待ってました~!ありがとうございます。
[良い点] 相変わらずの綺麗な文章で、状況が分かりやすく助かります。 [気になる点] 読んでてひたすらにツラい
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