opening
――opening――
学校と聞くと、普通、どんなイメージが思い浮かべられるのだろう。前世では高卒だった。夜間に通いながら役者の勉強をして、ちょうど悪霊役が板についた頃に卒業した。中学生の時は、とにかく生きることに貪欲で、祖父母を楽させるために公立や国立に入学しようと、必死で勉強していた。では、小学生は? 茶封筒に押し込んだ給食費が酒代に変わらないよう、おびえながら登校した記憶が印象的だ。けれど、給食と牛乳という貴重な栄養源を逃したくなくて、熱が出ても登校した記憶がある。
幸い、人の顔色をうかがうのは得意な子供だったから、いじめとかはなかったのが救いだったけれど、ほかの学年ではいじめがあったと聞いたことがある。良くも悪くも、集団生活のスタート地点だ。
「本当は私立鴨浜中央学園でもよかったのだけれど、私立竜胆大付属小学校なら芸能人用のクラスがあるらしい。休みがちになってもこれなら安心だろうし、どうかな?」
「もちろん、ほかにいきたいところがあったら言ってもいいのよ、つぐみ」
私の前に広げられているのは、やたら豪華で仰々しい見た目の、学校のパンフレットだ。お受験する小学校はどこがいいか? ということなのだけれど、あいにく、今は頭が追いつかない。お受験小学校の中でも、だいぶ高ランクのところだよね……。
そもそも、お受験って普通、なにをするんだろう? 勉強? 私の知識には偏りがあるぞ……。
「ゆっくり考えてもいいんだよ?」
「ううん、だいじょうぶ!」
前世では、学校は生き残るための通過点でしかなかった。今世では、せっかくだ。友達作りに励んでも罰は当たらない。なにより、芸能活動で内申点が減らないのは素晴らしい。
「わたし、りんどうしょうがっこうにする!」
「ふふ、ええ、わかったわ」
「では、早速、学校見学をしようか。ハルナ」
「既に」
控えていた使用人の御門春名さんが、完璧なお辞儀でそう答える。ちょっとなれてきたのだけれど、この“既に”の中には、“アポとって”、“車の手配して”、“お出かけの下準備を終え”、“スケジュールも調整済み”の、既にだ。有能すぎる。
「では、つぐみ様は不肖わたくしめが」
「あ、はい。よろしくおねがいします、こはるさん」
そんな春名さんの娘で、私の専属使用人兼マネージャーの小春さんが、私の準備を手伝ってくれる。そろそろ春先が近づいてきて日差しは暖かくなってきたけれど、吹き付ける風はまだまだ肌寒い。そうなると、着るものが多くて大変なんだよね。
そういう意味では前世は楽だった。幼い頃から寒いことにも暑いことにも慣れすぎて、薄着でもどうということはなかったからね。
「どのようなお召し物になさいますか?」
「がっこうは、せいふくですか?」
「はい」
「なら、ずぼんにしようかなぁ」
スカートは嫌でも毎日はくことになりそうだからね。そう告げると、小春さんはショートパンツにハイソックス、それからサスペンダーとシャツをささっと用意。髪をまとめてアップにして帽子をかぶれば、ボーイッシュな女の子の完成だ。
この上からジャケットを羽織れば、なおさら少年っぽさが増す。足下も、ハイソックスのおかげで寒くない。こういう格好って小さい頃の方が似合うから、今だけの特権だよね。
「お可愛らしいです、つぐみ様。お可愛らしいです」
「ありがとう?」
なんで二回言ったの???
疑問に首をひねりながら、出発の準備を続けていく。小春さんって意外と、かわいい物好きだよね。
眞壁さんの運転するいつものリムジンに乗り込んで、今日は車内で母にスマートフォンの扱い方についてレクチャーを受ける。レインにはスタンプというのがあって、欲しいものを専用通貨で購入できるのだとか。ゴールドとかいうもので、どうみても五桁あるんですがそれは。普通、こんなものなのかな? 凛ちゃんに聞いてみよう。
都心に向かって走り、閑静な住宅街を抜けていく。どうもその学校は港区でも白金高輪の坂を上った方にあるらしく、走行中には東京タワーも見えた。二十年たっても東京のシンボルなんだろうなぁ。
「見えたわよ、つぐみ」
母の声で、車窓から外を眺める。お金持ちの学校と言えばお城か宮殿のようなイメージだったが、竜胆小学校はどちらかというと近代的なSFチックな外見だった。大学校舎ではなく小学校の校舎であっているようだけれど……本当にこれ、マンションとかじゃないよね?
「さ、おいで、ぼくの天使」
「うん!」
父と母に手を引かれ、校舎に入っていく。事務手続きは小春さんがやってくれたみたいだ。なにもかもスムーズだね。そうでないとお金持ちになれないのかも。
スリッパに履き替えて、応接室のようなところで待っていると、上品な女性が入室する。年の頃は五十半ばにさしかかる頃だろうか。ぴんと伸ばされた背筋が心地よい。
「本日ははるばるお越しくださり、誠にありがとうございます。私は当竜胆大付属の学長を務めております、竜胆明子と申します」
竜胆さんが名乗り、私の両親もそれに続く。それから、学長先生が学校の説明をしてくれた。いわゆるエスカレーター式だけど、一定の学力がなければ退学もある、とか、小学生のうちから単位制を導入していて、必修科目以外は自由に選択し、必要単位を修めるとか、親御さん向けのお話だ。
あとは、芸能活動。大学には芸能・芸術を中心とした科が多くあり、芸能関係者がデビュー後に入学することもあるそうだ。
「つぐみちゃんは、どんなお勉強がしたいのかしら?」
一区切りをつけた学長先生が、笑顔で私に尋ねてくる。
「んと、やくしゃのおべんきょうです!」
「あらあら、ちゃんと考えていて偉いわね」
「さすがは、ぼくの天使だ」
「ふふふ、つぐみ、ちゃんと答えられたわね。えらいえらい」
「んぇへへへ」
んぬ、しまった、両親にかいぐりかいぐり撫でられて変な声が出てしまった。どうしたつぐみ、しっかりしろ。こんなことじゃホラー女優は夢のまた夢だぞ。
「当校はクラブ活動のほかに、アフタースクールという形で専門分野の履修も可能です。本日は春休み期間のため通常授業は行っておりませんが、希望者には一部専門講義を開放しておりますので、演劇コースの見学をなさいませんか?」
「なるほど。どうだい、つぐみ?」
「みたい!」
「よし、いい子だ。では先生、お願いできますか?」
ということで、私たちは専用の講堂に向かうことになった。今やっているのは、中等部の生徒に向けた基礎演技練習で、ダイアローグ(モノローグの対義語で、対話のシーンのこと)を受講しているのだとか。
「そういえば――本日は、生徒のご家族もおられますが、お子さんは大丈夫でしょうか?」
他に人がいて大丈夫か? ということだろうか。もちろん大丈夫だけれど、参観もありなのかな? 返事をしつつ首をかしげると、学長先生は笑顔で答えてくれた。
「いえ、春に初等部に入学なさる児童です。中学生のお兄様が当校の演劇講義に参加されておりますので、偶然、ご友人と見学に来られたようです」
「なるほどー……?」
ううん? なんだか既視感。まぁいいか。
ずいぶんと豪勢な渡り廊下を恐る恐る抜けると、天井の高い講義室の中二階に出る。簡易的な練習舞台として使用できるよう、照明や音響装置が中二階に配備されているのだとか。想像の何倍も至れり尽くせりな設備みたいで、柄にもなくわくわくしてきた。
「ちょうど、今、生徒が実演しているようですね」
学長先生がそう告げると、父が、私が見やすいように抱き上げてくれた。手すりから見える景色は、足下が崩れるようでとてもこわい。父の大きな手と母の笑顔がなければ、思わず後ずさっていたことだろう。そんな、生理的な恐怖は目の前の光景にかき消えた。
「殿下、殿下! 行ってはなりません」
「――離せ」
「冷静になってください。行ってはならないのです、殿下ッ」
台本を手に持った男子生徒が、同じく台本を手に持つ男子生徒の手をつかむ。それを、掴まれた男の子は、凍るようなまなざしで見つめ、動揺が伝わるより早く手を振り払った。
「おれの運命が叫んでいるのだ。我が肉体に宿る血脈が、獅子のように勇んでいる。もう一度言うぞホレイシオ――手を離せ。離さぬのなら、おまえを殺す」
冷たい目だ。だが、目の奥には煮えたぎるような憤怒と激情がある。それに相手役は二の句を告げられず、ひるむように後ずさった。
「『ハムレット』か。小さい頃に劇場に見に行ったが、覚えているかな? つぐみ」
「――このあと、おうさまのふくしゅうをちかうんだよね」
「えらいわ、つぐみ。よくおぼえていたわね」
「う、うん」
いや、違う。今世で見たことは正直、うっすらとしか覚えていない。私が覚えているのは前世でのことだ。名作は見ておきたいと、生活を切り詰めていった劇場で、ただただ圧倒された若かった私のみすぼらしい後ろ姿を、観客席に見たような気さえした。
ドレスコードも知らなくて、衣装さんに頼み込んで着た上品なスーツ。明日の食べるものにも困る生活なのに、あの頃の私は、情熱を霞のように食べて生きていた。ガタガタのVHSをすり切れるまで見直して、映像に、演技に、ぜんぶをかけていた。
なら。
今の、わたしは?
「つぐみ?」
「ぇ……ぁ」
横合いから響く、幼い声。
「やっぱり、つぐみだ! こんにちは、おじさん、おばさん、つぐみ!」
「あ、れ――りんちゃん?」
「きょうはなんだかカッコイイふくだな。あによりカッコイイぞ!」
映像の背景が切り替わるように、沈んでいた記憶が巻き戻される。息を切らして駆け寄ってくれたのだろう。凛ちゃんが、父の足下から私を見上げていた。
「丁寧にありがとう。こんにちは、凛ちゃん」
「お一人かしら?」
「いえ! じゅりあとみみと、したにあにが!」
下に兄? 言われてみて、気がついた。演技のフィードバックを切り上げて私たちを見上げる生徒たち。その中でひときわ目立つ、天使の輪のようなキューティクルの少年の姿。
つい先日、私と演技対決のようなことをした男の子、凛ちゃんのお兄さんで、名前が確か、夜旗虹君だ。
「つぐみもけんがくか?」
「こ、こんにちは……」
「じゅりあちゃん、みみちゃん」
凛ちゃんの後ろからゆっくりと歩いてきたのは、子役仲間の二人、朝代珠里阿ちゃんと、夕顔美海ちゃんだ。美海ちゃんは珠里阿ちゃんの後ろに隠れておずおずと私の両親を見ているが、珠里阿ちゃんはどうどうとしたもので、物怖じせず私に問うた。
「うん。そうだよ」
「そっか。あたしもみみもりんも、はるからここにかようんだ」
「そうなんだ!」
中等部にはあのお兄さんがいて、一つ上の学年には凛ちゃんたちがいる。これって実は、けっこういいのではないのだろうか?
「あ、そうだ。おわったらうちにくる?」
唐突に凛ちゃんがそう告げる。それに、私がなにか反応を示す前に、珠里阿ちゃんがうれしそうに笑った。
「お、いいね! きょう、りんのいえでゲームやるんだ!」
「つ、つぐみちゃんもくるなら、たえられるかも」
ゲーム、ゲームか。前世ではもっぱらテーブルゲームが主体だった私にも、できるものなのだろうか。でもとりあえず、両親の許可が必要だろう。そう、おそるおそる父を見上げると、優しげに頷く両親が微笑んだ。
「では、見学が終わったら車を回そう」
「いいの? やった! ありがとう、ダディ、マミィ!」
「ふふ、帰る頃に迎えを出すから、連絡してね」
「うん!」
どうやら、先日の約束が果たせるみたいだ。なんて、私は柄にもなく、ホラーゲームの到来を心待ちにする。
そのころには既に……あの、胸を締め付けるような感情は、消えてなくなっていた。




