ending
――ending――
昔から、思い通りになったことなんて一度も無い。家族も、友達も、進路も、アイドルも。そんな私に、本当に、エマ監督を頷かせるような歌詞なんて書けるのかな。
心配と不安が、重く肩にのしかかる。つぐみちゃんみたいに朗らかに笑えたら、私も、あんな風に――いや、やめよう。期待なんて、しても、空回るだけなんだから。
両親ともに日本人なのに、外国の方みたいに色の抜けた茶髪も。
テーマに従うままに、好感度高く振る舞う自分も。
自分の気持ちの一つも満足に操れないことも。
みんなよりも少し高い身長も。
気の抜けたような顔立ちも。
全部。
ぜんぶ。
(思いどおりになったことなんて、一度も無い。私の、夢も)
自分の、手を引く気配に我に返る。
「ひめさん?」
首を傾げる彼女に心配を掛けまいと、私は、自分の精一杯で微笑んだ。
「あはは、ごめんねー? ちょっとぼうっとしていたみたい」
「そうですか? 気持ちがわるかったりしたら、おしえてくださいね?」
「うんうん、わかったよー。大丈夫大丈夫」
あの怒濤の撮影のあと、私はつぐみちゃんと一緒に、彼女の家に向かっていた。密着の名が指すとおり、なんと泊めてくれるのだという。断ろうとしたけれど、マネージャーにも事務所にも、しっかりと根回しはされていた。
歌詞を書けませんでした……なんて、言い訳も、もう、できない。こんなに手厚くされて、まだ、なんにもわからないなんて言えないから。
「しかし、本当にすごいところだねー」
「そうですか? ありがとうございます」
「つぐみちゃんはちゃんとお礼が言えてえらいねー」
「えへへ、そ、そんな」
照れるつぐみちゃんのびっくりするくらい柔らかい髪を撫でながら、現実逃避を終わりにする。なんかほんと、映画の中でしか見たことのないような洋館だ。本当に、ここに住んでるの? いやぁ、すごい……。
正門から手を引かれ、庭先を歩いて大きな扉の前に立つ。そうすると、使用人と思わしき方が扉を開けてくれた。家に入ってみれば、正面に佇むのは、大和撫子という言葉を彷彿とさせるような女性の姿。
「ようこそお越し下さいました。あなたが、常盤様ですね?」
「は、はい。突然のことでごめんなさい。今日は、よろしくお願いします。あと、できればその、名前で、呼び捨てで、構いませんのでー……」
「ふふ、そう? なら姫芽ちゃん、と。今日は、我が家だと思ってくつろいで下さいね。……と、名乗りが遅れてしまいごめんなさいね。私は美奈子。つぐみの母です」
しとやかに頭を下げるのは、まさしく和風という言葉がよく似合う美人さん。とてもではないけれど、五歳のお子さんがいるお母さんには見えない、というほど瑞々しい。
そして、つぐみちゃんとは色合いは真反対なのに、優しく微笑む口元や、嫋やかに眇められた瞳が、つぐみちゃんにとてもよく似ていた。
「今日は歌詞制作をなさるとか」
「は、はい」
「でしたら、当館の図書室も自由に使ってかまいません」
書斎、とかではなく、図書室なんですね……。
使用人だという春名さんという女性に導かれるまま、館内を案内される。こんな、本当に、もう、どうしよう……。
――結局、やけに豪華な夕飯や、ものすごくキラキラしたお父さんのご紹介や、とてつもなく広いお風呂やなんかで過ごしている内に、時間はあっという間に過ぎていった。
直前まで一緒に居たつぐみちゃんも、「もう寝る時間だよ」ときらきらしたお父さんに連れて行かれてしまい、手持ち無沙汰になってしまった。
なんだかんだと案内された図書室で語彙辞典やらなにやらと引っ張り出してはみたものの、衝撃的な出来事が多すぎて、なにも頭に浮かんでこない。これはひょっとして、詰んじゃった……?
「ほんと、どうしようかなー……」
本当に、いつもそうだ。思いどおりにいったことなんて、一度も無い。
「いつもと変わらない……こうやって、生きていく、のかな。ずっと、ずぅっと」
――小さい頃は、女優になりたかった。家族団欒の中で、ドラマの中で生き生きと演じていた少女、閏宇さんに憧れた。綺麗な黒髪と小柄な背丈。それをものともしない堂々とした演技。
彼女がいじめっ子役の男の子に喝を入れるシーンと同じように正義の味方ぶってみたり、彼女が儚く恋を散らせるシーンと同じように恋がしたくて、両親に恋愛話をねだったり。将来は、閏宇さんみたいになると決めていた。
それが最初に崩れたのは、中学に入りたての頃、あっさりと閏宇さんの身長を抜いてしまったとき。
それに最初に失望したのは、クラスメートの男子に、「外人みたいな髪の毛じゃ、閏宇にはなれない」と笑われたとき。
それを最初に諦めたのは、家族が勝手に送ったアイドルオーディションに通過してしまったとき。
私は、「どうせ無駄だ」という自己防衛だけが、演技よりもずっと上手になっていた。
だから、今回のことだっていつものように振る舞えば良い。予想どおりなのだから、傷つかなくてもいい。変だよね。ずっと自分で自分を傷つけて、これ以上、傷つかないようにするなんて。
ああ、でも、どうしよう。役を降ろされたりなんかしたら。憧れの女優。憧れだった映画。閏宇さんの出演した映画のリメイクでないのは残念だけれど、閏宇さんをよく知る桜架さんとも共演できる。閏宇さんの弟子だという、エマ監督に撮影してもらえる。わかっているのに、こわい。結局、閏宇さんが日本にいるうちに、挨拶することすらできなかったのに。
(だって、閏宇さんにまで失望されてしまったら、私、私は――)
「精が出ますね」
「――え、ぁ」
思考が切れる。顔を上げてみれば、向かいの席に腰掛ける、つぐみちゃんのお母さん。
お名前は、そう、美奈子さん。美奈子さんは気軽な様子で黒髪を肩口で軽く結わえ、私に向かって微笑んだ。その笑顔が、不思議と、胸に響く。だってあんまりにも、優しかったから。
「進捗はいかがですか?」
「あはは、それがー、あんまり。美奈子さんは、その、どうしてこちらに?」
頬を掻いて笑う。愛想笑い。苦しいとも言えない自分が、嫌になる。大嫌いな自分。
「……無理をなさっているご様子でしたので、少し、お節介を焼かせていただいても構いませんか?」
「き、聞いちゃうんですね。――でも、はい。正直、行き詰まっていましたので」
アドバイス、なんてものが聞きたいわけじゃない。でも、この優しい微笑みを浮かべる女性に嫌われたくない、なんて浅ましい自分が、ついつい、私の首を縦に振らせてしまった。
「苦しい、と、そうは思っていませんか?」
だから。
だから、告げられた言葉が、あまりにもまっすぐで。
「どう、して、そう、思われたん、です、か?」
自分で自分に貼り付けた仮面に、ひびが入った。
「ふふ、経験です。まだまだ未熟ですが、私も、一人の母ですので」
「つぐみちゃんも、苦しいって思っていたことがあったんですか?」
いけないとそう思いつつも、つい、聞いてしまう。あのなんでもできるつぐみちゃんが、私に持っていない全部を持っているつぐみちゃんが、私なんかと同じように苦しんでいたことがあったのだろうか。
「ええ、もちろん。あの子は中々悟らせてはくれませんが、以前は時折、譲れない何かと葛藤している様子もありました。気がついていたと思われるとあの子が落ち込んでしまうから、秘密ですよ」
「はい、えっと、もちろんです」
茶目っ気たっぷりなウィンクに、思わず少し見惚れちゃう。こんなに優しいのにこんな表情も出来るなんて、つぐみちゃんも旦那様も果報者だ。羨ましい、とも。
同時に思うのは、つぐみちゃんもまた“天才”なんて手の届かない存在ではなくて、普通の子供のような面も持っているんだな、という、安堵にも似た実感だった。
「姫芽ちゃんは――苦しむことが、いけないことだと思っていませんか?」
「え――?」
だって、苦しい表情は見せないものだって、アイドルは笑ってなければならないって、私はそう教わった。ううん。私だけじゃない。事務所の先輩もグループのみんなも、そう教わってきた。
苦しむ姿で人を楽しませることは出来ない。だから、苦しむのは悪いことだ。いけないことだ。それは、常識だった、はずなのに。
「人間というものは難儀なもので、苦しいと思わなければそれを乗り越える切っ掛けを掴めません。苦しい、辛い。そんな気持ちが生まれたのなら、それは今ある壁が見えている、という、成長の証なのだと思います」
……そんな風に考えたことは、一度も無かった。でも。
「でも、髪の色とか、体格とか、どうしようもないこともありますよね」
「ええ、もちろん。私も昔は、私自身のことが嫌いでした。ふふ……これは夫に教わったことなのですが――では、あなたの全部が、どうしようもないことなのか、と」
全部、とは、どういうことだろう。一度だって、私は、私の思うようにならなかったのに。
「あなたの力強くてよく響く歌声も、誰よりもハッキリと個性を魅せて下さる素敵なダンスも、気に入らないことですか?」
「それは、でも、練習すれば誰だって――」
「そんなことはないと思いますが……では、少し他事に目を向けてみましょう。苦しくても笑うことが出来るのは、あなたの優しさです。誰かを傷つけたくない、という優しさです。顔色を窺ってしまうのは、あなたが場を柔らかくしようと努力できるという証明です」
顔色を窺っていたことがあっさりと気がつかれていることには、もう驚かない。
それよりも、どれもこれも、そんな風に考えたことがなかったことばかりで、どうしたら良いのかわからない。なにをどう言われても、起きてきた過去は変わらないから。
「あなたの髪も体躯も、私にはとても美しく見えます。でも、姫芽ちゃん、あなたはそうは思えないのですね」
「っ――は、はは。わかっちゃいますか」
「色々と思うがまま、不躾なことを言ってしまってごめんなさい。年を経るとどうしても、説教臭くなってしまってだめね」
「そんなこと、ないです。私は――私は、そう言ってくれたことは、嬉しかったから」
こんなに、優しく接して下さるのに、こんなに親身になってくれたのに、私は、私の卑屈さで、この人の言葉を否定したくない。自己肯定なんかできない癖に、また、他人の顔色を窺う着地を選んでしまったような気も、するけれど。
「ありがとうございます。では、お節介ついでにもう一つだけ」
「は、はい」
「迂遠になってしまいましたが、私がお伝えしたいのは、一つだけ。自分を、認めてあげてください」
「自分……私、を? でも、私なんか、認められるはずない――」
認められるはずなんかない。
だっていつもだめだった。
だって諦めてばかりだった。
私なんか、認められるはずがない。
「本当にそうでしょうか?」
本当、に?
「過去は変えられません。では、未来は? 今は? 変えられるはずです。ただ、嫌いだとはね除けてきたあなた自身を、ほんの少しでも構いません。受け止めてあげれば、きっと」
美奈子さんの言葉が、薄く、小さく、それでも確実に、胸に染みこんでいく。
「でも――でも、受け止め方なんて、わからない」
「あら。その手段はもう既に、持っているはずですよ」
「持っているって……ぁ」
指差された先には、白紙のノートがあった。
それは、私がずっと目を逸らしてきた、未来という名のキャンバスによく似ていた。
「やって、みます。どれだけできるかわからないけれど、でも、書き上がったら、聞いて、もらえますか?」
「ええ、もちろん。楽しみにしていますね」
おやすみなさい、と頭を下げて出て行く美奈子さんに、頭を下げ返す余裕なんかなかった。ただ、どうして書けなかったのかわからなくなるほど、言葉が、頭の中からあふれ出てきた。
エマ監督は、私に“全力を見せろ”と言った。
海さんは、私に“レッテルを剥がせ”と言った。
美奈子さんは、私に“自分を受け止めて”と言った。
つぐみちゃんは、私に“覚悟とはなにか”を見せてくれた。
「つぐみちゃんは、夢を思い出させる演技がしたいって、言ってたけれど――私には、もう、できているように見えるよ」
私は私のことが好きになれない。
それでももし、私の歌をあんな風に力強いと言ってくれる人が居るのなら、それには答えなければならない。
だからこれは、多くの誰かのための歌詞なんかじゃない。今を変えたい私と、今を乗り越えたいみんなの、大多数ではない誰かと私自身の背中を押すためだけの、身勝手でわがままな歌。
昔から、歌を歌うのが得意だった。
お母さんに歌を褒められて、舞い上がるほど嬉しくて。
なんでだろう。そんな昔のことを、取るに足らない小さなワンシーンを、ただぼんやりと思い出した。
――後日。
書き切ってそのまま寝てしまった私は、慌てて次の仕事に出かけて。
それでもなんとかスタジオを借りて、歌いきった曲をCDに焼いてつぐみちゃんの家に届けた。
スケジュールが合わなくて、顔合わせはできそうになかったから、電話でつぐみちゃんにちゃんと届いたか確認をして。
『いま、ちょうど聞くところなんです!』
「え? 今? そうなんだ。じゃあ、ちゃんと焼けているか確認しようかなぁ」
『はい! マミィ、ひめさんだよ!』
『あらあら。ふふ、では、せっかくですから、曲名を教えていただいても構いませんか?』
スピーカーフォンにしてくれたのかな。二人の声がよく響く。
私は曲名を告げようとして、やっぱりと、口を噤んだ。
「曲のあとでも、いいですか?」
『――はい、もちろん』
なんだか、これでちゃんと焼けていなかったら恥ずかしいからと、出てきたのはそんな言葉だった。
メンバー全員は集められなかったけれど、『EXIT77』の方の赤留がキーボードを引っ張り出して参加してくれたから、演奏は私のベースと赤留のキーボードだけ。簡素なものだけど、なんでか、肌が粟立つほど高揚した。
あの一瞬。
苦しみと、ほんの僅かな逆恨みと、ありったけの勇気を、歌詞に込めて。
『ぼくの形を飾るのはいつだって、金銀財宝の綺麗な石。
誰かに見られるために拵えられた、綺麗で美しいだけの箱。
囚われて、巣喰われて、嘆いて足掻いて、壊れた。
鉄の定規で測られる、空虚な心の秤。
この狭い水槽の中で、誰かが決めたラベルを貼られる。
この息苦しいビオトープが、ぼくの値段を計るバランサー。
打ち破れ
踏み出せ。
もういやだ。
嘘つきの言葉なんか
聞き飽きた。
「逃げてもいい」なんて、
言ってもいいの?
ぼくの価値を決めるのは、ぼくじゃない。
ぼくの身体を飾るのはいつだって、罵詈雑言の棘の海。
誰かに決めつけられるためだけにつけられた、真っ白で無垢なレッテル。
捕らわれて、掬われて、啼いて燻って、乞われた。
金の天秤で量られる、ぼくの運命の重さ。
この狭い箱庭の中で、ぼくはラベルを貼り付け。
この息苦しいアクアリウムが、ぼくの価値を計るスケール。
打ち破れ
踏み出せ。
もういやだ。
嘘つきの言葉なんか
聞き飽きた。
「逃げてもいい」なんて、
言ってもいいの?
ぼくの値段を決めるのは、誰かなんだ。
リストに並べられたラベルたちが、植物園の中で叫んでる。
ショーケースに張られたレッテルたちが、篭の中で泣いている。
プラスチック製の心の傷。
クレイアニメーションでできた美しい記憶。
貼り付けられて象られた、ぼくの意思の値段は。
書き換えられて強要された、ぼくの意志の価値は。
真価は。
(誰かに決めつけられるのは、もういやだ)
言ってもいいか?
「逃げてもいい」なんて
聞き飽きた。
嘘つきの言葉なんか
もういやだ。
踏み出せ。
打ち破れ。
ぼくの真価を決めるのは、ぼくだ。
ぼくのココロを象るのは、なんにもないキャンバスだ。
誰かに笑われて貶されても、ぼくの意思は揺るがない。
囚われず、救って、笑い飛ばして、請われよう。
他人が勝手に作ったルールで、ぼくは縛られない。
この何もない空の下で。
無限に広がる星を、眺めよう。
自由を胸に飛び立つ渡り鳥のように。
ぼくの翼は解き放たれた。 』
曲が終わり、誰かの声が届く前に、照れくささを隠すように曲名を告げる。
「曲名は、Appreciation、です」
真価、と、そう名付けた曲の名を。
――Let's Move on to the Next Theater――




