scene2
――2――
「お疲れ様です、早月さん」
「げっ……桜架……」
ぐったりと砂浜に身を預けるセミロングの髪の女性、早月さんに声をかけると、彼女はずいぶんと失礼な声を上げた。
「げ、とは、なんですか。まったく」
「あー、悪かったわよ」
どこかばつが悪そうに、早月さんは目をそらす。
当時、まだ彼女が笠羽サラと名乗っていた頃、亡き鶫さんに八つ当たりをしていた彼女に少々厳しめの言葉を投げつけてしまったことがある。それからというもの、微妙に気まずげで、私と予定が合わないようにしていた。
「変わりましたね」
「……なんのことだか、わからないわ」
「優しくなりました」
「ねぇ、察してくれる?」
目を逸らしながら、僅かに赤くした耳。今の彼女なら、私も、少しだけ日和ってしまおうかな。
「あの日、少し強く言いすぎました。ごめんなさい」
「はっ、大して悪いとも思ってないでしょうに……別に良いわ。あれは、私が悪かったもの」
早月さんはそう言うと、ほんの僅かに、寂しげに目を伏せる。もう、鶫さんに謝ることはできない。それだけの事実を認めるのにずいぶんと時間がかかってしまった、というところかな。
気持ちはわかる。私もそうだったから。鶫さんはもういない。深淵から悠々自適に私たちを見守ってくれているかも知れないけれど、それに、触れることはできない。
そのことに気がつくのに、ずいぶんと、時間がかかってしまった。
「ねぇ、さくら……あんたは、間違えないようになさい。間違えると、辛いわよ」
「ええ――大丈夫ですよ、サラさん。実は既にたっぷり間違えて、取り戻している最中なのですから」
私の言葉に、早月さんは僅かに目を見張る。それから、少しだけ、優しく眇めた。
「あんたでも」
「はい、私でも」
「そっか」
「そうです」
微かに頬を緩める早月さんの姿は、ずいぶんと、穏やかに見えた。ずっと張り詰めていたものから解放されて、私の目には、彼女は、普通の母親に見える。
「おーい! おかあさんも早く!」
遠くから聞こえるのは、珠里阿ちゃんの声だ。ずっと前に見かけたときは、もうちょっとギクシャクしているように見えた。でも、今は違う。きっと当人たちの努力と周囲の協力があったのだろうけれど……その周囲には必ず、“あの子”がいた。
「あー、もう。湿っぽい話はこれで終わり。珠里阿が呼んでいるから、行くわ」
「ふふ。はい。私も後ほど。ビーチバレーでも、負けませんよ」
「圧が強いのよ圧が。あんたのそういうところ、ホント怖いわ」
「あら、失礼な」
手をひらひらと振りながら、珠里阿ちゃんの元へ歩く彼女の後ろ姿を眺める。どことなく嬉しそうな彼女と入れ替わるように、今度は、肩を落とした女性が私の隣に腰掛けた。
「子供って元気なのね、桜架」
私に向かってそう呟くのは、どことなく疲れた様子の椿さんだった。ショートカットの髪にみずみずしい肌。とても四十二歳の女性には見えないのだけれど……そんな彼女が四条繋を引き取ると聞いたときは、少なからず驚きがあった。
彼女との因縁は古い。あの日、『紗椰』の撮影で渡り合ったのが最初。共に鶫さんの演技に魅せられ、彼女は鶫さんを越えることを望んだ。鶫さんと共に在ることを望んだ私とは、真逆の選択肢。
「はい、そうですね。私も弟子を得て、本当に、振り回されてばかりです」
凛は才能豊かな子供だ。最近は、勉強の仕方をゲーム風にするとよりよく覚えてくれることに気がついて、実践している。だからといって、うん、あんな技を覚えるなんて、予想外だったのだけれど。
凛の感覚……共感覚はきっと、大人になったら失われる。だから失ったときに技術まで失わないように指導をしてきたつもりだけれど、もしも大人になっても失わなければ、私の想定なんて軽々と越えていくことだろう。
そして。
あの子も。
「いくよ、りんちゃん!」
「うん、来て、つぐみ!」
つぐみちゃん。白銀の髪を靡かせて、高く飛び上がる姿。子供の身体能力の範疇なのかと疑うほどのスペック。とくに師匠がいたわけでも、芸能関係の親類がいるわけでもないのに、他者を圧倒してみせる抜群のセンス。
時代の寵児という言葉は、彼女のためにあるのかもしれない。そう思わせるほどに人並み外れた演技を魅せる彼女は今、人並みに笑って、遊んでいた。彼女が歪まずに来れたのは、きっと、周囲の人間のおかげなのでしょうね。
「桜架。あなたも、優しい顔ができるようになったのね」
「それ、どういう意味ですか? 椿さん」
「ふふ。さぁね」
……言わんとしていることはわかる、つもりだけれど。
(変わった、の、かしら)
変わった、と言われたらそうなのかもしれない。鶫さんを失ってからの日々に、火が灯ったかのような毎日。それもこれも、やっぱり、あの子のおかげなのかも知れない。
とても顔立ちの整ったお父様とハイタッチをする少女。その向かいで、項垂れる虹君を慰める凛。彼らのおかげで、私は、私の間違いに気がつくことができたのだから。
「これから、大変ね」
「ええ、そうですね。世界は広い、ですよね?」
「閏宇さんのせいもあるけれど……海の向こうには、化け物が揃っているわ。アレのような、ね」
――あの日のことを知らない人間には、椿さんは私と出演した作品“徒花”で心が折れた、と、通している。でも、それは少し違う。それを、あの場にいた私は知っている。
他ならぬ私自身も、あのとき、彼女には勝てないのではないかとさえ思わされた。非公式の場での、その場の流れで始まったような小さな舞台。
『誰であろうと構いません。すべて、等しく、魅了しますわ』
拙い日本語で紡がれた言葉。でも、演技を始めたら、途端に流ちょうになった。
閏宇さんの映画で主演を務めた、ホラー女優に相対する“主人公”を務める女性。
ハリウッドの場で燦然と輝く大女優。
あの黄金の髪。
あの新緑の瞳。
あの真紅の唇。
あの新雪の肌。
あの静寂の声。
忘れもしない、あの荘厳たる演技の数々。
「――イザベラ・クラーク」
その言葉には、重みがある。
その名前には、重圧がある。
その名声には、重責がある。
「閏宇さんも、とんだ化け物を生み出してくれたものです」
「……でも、だからこそ挑み甲斐がある、って、鶫さんなら言うに違いないわ」
「ふふ、ええ、そうでしょうね」
椿さんの言葉に頷く。そしてきっとそれは、再び心に火が灯った私にも言えることだ。だって、そうでしょう? こんなところで燻っていたら、深淵で見守ってくれている鶫さんが、いつまで経っても安心できないのだから。
それに、今はもう、私だけではない。私に向かって手を振る、可愛い弟子。どことなく鶫さんにも似た空気を持つ、弟子の親友の女の子。それに、彼女たちの周りに集まる子も、みんな。
「イザベラ・クラークには娘がいる。いつかはきっと、渡り合うことでしょうね」
「そうね……でも、そのときはきっと、繋――レオだって、負けていないわ」
「ええ。それに、ふふ、虹君も」
私にまっすぐ向き合った少年。彼の持つ輝きは、未だ、開花しきっていない。その胸の奥に秘めた力は、何か一つでも切っ掛けがあれば、瞬く間に広がることだろう。そのときが楽しみでないなんて、言えないわ。
それに、やっぱり、その周囲には必ずあの子がいる。空星つぐみという少女。新星のように現れて、大人も唸らせるような演技で、場をひっくり返す実力がある。鶫さんにも似た雰囲気があるけれど、どこか違う、とずっと思っていた。そして、思い出してみれば単純なこと。
あの子の在り方はむしろ、どこか、イザベラに似ていたから。
(光に照らされた舞台で生きる回遊魚、なんて、少し失礼かしら)
凛と向き合ったときも。
繋と渡り合ったときも。
必ず、そこにはつぐみちゃんの姿があった。
間違いなく、将来、私の可愛い弟子――凛の、大きな壁になるであろう少女。
その、向き合う日を楽しみに思ってしまうのは、年を取ったということだろうか。
なんて。
「でも、まずは」
「あー、はいはい。良いわ、やってやるわよ」
「ふふ。はい、行きましょう、椿さん」
このビーチバレーを乗り切って、あとのことはそれから考えよう。
重い腰を上げる椿さんに手を差し出すと、椿さんは少しだけ苦く笑って、受け取ってくれた。
(きっと、大丈夫)
曰く、“ハリウッドが生み出した天才”。
曰く、“レッドカーペットに一番近い子役”。
その名を、アメリア・クラーク。
(いつか――そのときまで)
精一杯、私があげられる技術を、次代に残そう。
摘み取られてばかりでは、前に進めはしないのだから。




