scene6
――6――
――物心が付いたとき、一番最初に覚えていた光景は、床に転がったビール瓶だった。
冷たいアスファルトの上に立つ。この夢の世界の中で、あの日の事故を追体験すれば、きっと今度こそ目覚めることはないだろう。そんな風に思ったから、そうなるように舞台を組んだのに……ほんと、敵わないなぁ。
私の前に立つ小柄な少女。銀細工のように繊細な髪に、空の模様を溶かし込んだような青い目。私が生きていた頃は、こんなビスクドールのように可愛い女の子とこんなにも近しい関係になるなんて、想像もしていなかった。
(でも、そっか、来ちゃったか)
思えば、“思いどおり”なんて言葉とは、いつも、無縁な人生だった。
はっきりと記憶に残っている原初の光景は、畳の上に転がるビール瓶だった。ほつれた畳と色あせた縁。見上げれば、卓袱台に空き瓶を並べて、酒を呷る父の姿があった。
遠くで烏が鳴いていて、目張りされた窓の向こうは茜色に染まっていて、窓ガラスに映る裸電球の明滅が妙に恐ろしかった。立ち上がれば、夜の仕事に出かけようとした母に突き飛ばされて、鞠のように畳の上を転がる。ただ、おなかがすいた、とか、暑い、とか。生存に必要な感情以外は、とっくに淘汰されていた。
暴力と放置。
失望と諦観。
誰かに愛して貰うということがわからなかった。父が死んで、母が消えて、祖父母に引き取られて。
黒部所長の事務所に所属して、初めての仕事の前に祖父母を失って、愛を返すやり方もわからなくなった。
閏宇に出逢って、柿沼さんに出逢って、さくらちゃんに出逢って、玲貴に出逢って。いつしか私の周りに人が溢れても、愛がどういうものなのか、ついぞ理解しきれなかった、と、思う。
(でも)
私を見つめる彼女の姿を見る。暗闇を漂っていた私を引き寄せた、暖かい魂。死にかけの赤ん坊。理屈はわからないけれど、彼女に生まれ変わることで、彼女の命を繋ぐことができた。
ねぇ、つぐみ。あなたはすごいよ。あんなに小さな命だったのに、あんなに弱々しい魂だったのに、色んなモノを吸収して大きくなった。
(だから)
だからもう、私みたいな異物は、あなたの人生に必要ない。いつかきっと、足を引っ張ってしまうから。あなたは、私なんかよりもずっと、立派な女優になれる。それは、一番側で見守ってきた私だからこそ、太鼓判を押せる。
「つぐみ」
「……帰りなさい。ここに、あなたの居場所はないわ」
「わるぶってもダメだよ。わかるから」
う、うーん、やりにくいなぁ。苦笑して、ちゃんとまっすぐ彼女の目を見る。どれだけ距離が離れていても、手に取るようにわかるよ。あなたもそうであるように、私だってそう。
でも、でも、私が深淵に沈んでからあなたが導き出した答えは、わからない。寂しい? 不安? 怖い? わからない、けれど、なんだっていい。私の答えは変わらない。
「ねぇ、つぐみ。もう手を引いてあげなくたって、あなたは大丈夫だよ。私が言うんだから間違いないわ。自分の足で歩いてここまで来た。きっと、これからも、自分の足で歩くことができる」
「みんなにたすけてもらわないと、ここまでは来れなかったよ、つぐみ。いまだって、こはるさんにたすけてもらった」
「違うよ。そうじゃない。つぐみが築き上げてきた信頼関係が、絆があなたを助けるなら、それは、つぐみが自分の力でつかみ取ったものだよ」
一歩近づく。私もつぐみも同じように、語り合いながら近づいていく。夢の中の舞台。夜空は雲に覆われ、ぐるぐると渦巻く。稲妻が雲を照らし、降り始めた雨がアスファルトに跳ねて天に戻った。
外灯が揺れ、身じろぎ、腰を折って礼をする。私たちの舞台を歓迎するように、憤慨するように、怯えるように。
「もう、つぐみは一人でも大丈夫だよ。過去の苦しみも、恐怖も、悲しみも、全部私が連れて行く。記憶の中に連れて行く。だからあなたは、こんな余計な記憶に苦しまないで。悪霊は、除霊されて終わるべきなんだから」
私の後ろに人影が立つ。ぽつり、ぽつり、ぽつりと、影からにじみ出るように。あの日、生涯の別れとなってしまった二十年前の姿のまま、みんなが立つ。
まずはつぐみの後ろに立っていたはずの閏宇が、溶けるようにこちらに来た。柿沼さん、倉本さん、赤坂さん、黒部所長夫妻、さくらちゃん、サラちゃん、椿ちゃん、諭君と珠美ちゃんが並び立って、その直ぐ隣には、玲貴の姿。着飾った母と、よれたスーツの父。優しく微笑む祖父母――たくさん、たくさんの、人々。
「だから――ばいばい。あなたと過ごした日々は、楽しかったよ、つぐみ」
ひび割れる。アスファルトに入った罅が、徐々に、徐々に、大きくなっていく。これで終わり。ここまでで終わり。うつむき、唇を噛むつぐみの真意はわからない。けれど、うん、あなたが今、言葉にできない全部が、あなたが築いてきたモノなんだね。
自分というモノがなかった少女。なんとなく記憶に引っ張られて、流されることしかできなかった幼い女の子。そんな、か弱い女の子はもういない。
「ねぇ、つぐみ」
「なに? つぐみ」
「やっぱり、わたしたち、こんなのじゃ、だめだよ」
「つぐみ?」
ひび割れていたアスファルトが、その動きを止める。私とつぐみの間。少しだけ離れた場所に、一人の女性が浮かび上がった。スーツ姿の、男装の麗人。つぐみの記憶から構成された彼女が、不敵な笑みを浮かべる。
そんな彼女の正面。虚空から降ってきたパイプ椅子。私の記憶の中の人々から一人、ふてくされた顔で歩いてきて、音を立ててパイプ椅子に座る初老の男性。
「はっはっはっ、こんな大舞台の監督を任せられるとは思わなかったよ! さすがはつぐみだ!」
「だが公平性は必要だろう。儂を動かしたんだ。冴えない演技をしてみろ。夢だろうが何だろうが、まとめてお蔵入りだぞ、桐王鶫」
困惑する私の側で、距離を取って構える二人。閏宇の弟子だという女性監督、エマ。そして、生前散々お世話になった、洞木仙爾監督。
ひねくれた外灯がスポットライトのように形を変える。踊り狂う雨が空中で静止し、光が差した。
「わたしたちはいつだって、こうやってわかりあってきた」
つぐみの後ろに、たくさんの人影が見える。つぐみの両親。小春さん、春名さん、眞壁さん、真宵さん。凛ちゃん、珠里阿ちゃん、美海ちゃん。早月さん、夏都さん、鉄さん、万真さんと真帆さん。年老いた柿沼さんに並ぶのは、海さん。それから、ずいぶんと大人びたさくらちゃん――桜架が、つぐみサイドであるはずなのに私の方へ移動しようとして、同じく現在の閏宇に捕まっていた。中央で並ぶのは、虹君とツナギ。彼らの後ろに続くのは、玲貴と、玲貴を支える千鶴さんと、ため息を吐く義足の諭君、ロロ、ルル、ラギ――たくさんの人々。
「おい、桐王鶫」
「えーと……洞木監督?」
「タイトルはどうする」
タイトル。
ああ、ははっ、そっか。
「つぐみ。つぐみが決めて」
「テーマだけでいいよ、つぐみ」
「タイトルは、結果で決めれば良い、ということかな」
「うん」
互いに後ろを向いて、自分たちの観客の方へ歩く。スポットライトが赤く輝き、舞台を彩るレッドカーペット。空中で静止した雨粒が、光を反射して万華鏡みたいに輝いた。
「私は悪霊」
たちの悪い地縛霊で、子供に取り憑いてこう言うのだ。「ハリウッドを目指せ。さもなければ取り殺してやる」ってね。
「つぐみは善良な女の子」
あの子は必死で悪霊と戦って、ついに音を上げさせてしまうのだ。溢れる才能と、開花させた実力。それから、彼女の優しさに惹かれたたくさんの仲間たちの助力を得て。
「演目のテーマは、善と悪、なんてどう?」
「うん。いいよ。どんなテーマだって、かんけいないから」
「あはは、この私を前にして、言うじゃない。良いの? 私の方が、圧倒的に有利だよ」
「うん。だから」
二人、同時に振り向く。
スポットライトは白く変わり、足下を照らし。顔を上げる瞬間を今か今かと待っているかのようだった。
「はじめて、つぐみとえんぎを競うんだもん。どきどきしてきた!」
「ぷっ、あはははは! なにそれ。私も、同じ事を考えていたわ」
台本はない。
テーマもチャートもふわふわしている。
それでも、演技を始めたら、全部が全部整って、舞台になるって信じてた。
「刮目なさい!」
声を上げる。
ああ、今この瞬間だけは、全部置いていこう。
「これより現れるは昭和終期を震撼させしホラー女優! せいぜい怯え竦んで恐怖なさい! あなたの善が、私の悪を越えられるモノなら、踏み越えて見せなさい!」
タイトルは、こんなのはどうだろう?
『ホラー女優が天才子役に取り憑きました ~子供を操って人々を恐怖に陥れます~』
なんて、ちょっと直球過ぎるかな?
私が悪として、悪のまま終えるのであればそれでいい。そのまま、私を完全に成仏させるストーリーを叩きつけてあげよう。
「さぁ、共演だ! 合わせてくださいね? 洞木監督?」
「ふん。小娘が。儂は儂の流儀でやるだけだ。カメラを構えろ、化け物共!」
「んふふふ、いいね、いいね、現実のボクになんか分けてやらない。独り占めだ!」
アクの強い監督二人が、同時に手を上げる。
影からにじみ出た看板や交通標識が、カメラやマイクを持って踊り出す。
「シーンゼロ――」
エマ監督のかけ声。
「――アクションッッ!!」
洞木監督の合図。
「ふふ――最初で最後の共演。二人きりのエチュード」
スポットライトが舞台の中央を照らし出し――雲間から降り注ぐ稲妻が、私たちの舞台を祝福した。




