scene5
――5――
日ノ本テレビ・フロア。
首をかしげてわたしの言葉を待つ姿は、見れば見るほど海さんにそっくりだ。眼鏡を掛けたら海さんになるんじゃないかと思うくらい似ている。髪色とかは違うけれど。
「珠美……黒部所長の娘さんか。鶫は、まったく。また何かやらかしたな。だが、すまない。ここにはいないと思う」
「そう、なんですか」
「ああ。そもそも、鶫は“血色”の撮影――いや、中止になったのか」
血色? 鶫の記録を探れば、直ぐに出てきた。大学生四人組がイジメの果てに自殺に追い込んだ同級生に呪い殺される、という映画だ。これって、確か――鶫の遺作だったはず。
その撮影が中止になった、ということは、この夢の中の世界では、あの事故が起こっていない?
「鶫に用があるのなら、さくらに当たってみた方が良いかもしれない」
「さくら……おうかさん?」
「おうか? いや、“さくら”だよ。子役の」
あ、そっか。過去ならまだ桜架さんは十歳だ。芸名も変えていないから、さくらのままなんだよね。この頃の桜架さんの住んでいた場所は、確か、目黒だったと思う。ということは南北線で一本、だったかな。よし。
「ありがとうございます、いってみます!」
「ああ。頑張れ」
苦笑して手を振ってくれる柿沼さん。彼の気配を背に、テレビ局を飛び出す。今、どれくらい時間が経ったんだろう。気になって手首を見たら、浮き出るように腕時計が現れた。すごい。ファンタジーみたいだ。
時刻は十二時を回った頃。スタートが何時だったかわからないけれど、もう一時間とか二時間とかは経っているような気がする。時間の進み方が違う、とか?
(なんだろう。少しだけ、嫌な予感がする)
焦らされるように走る。こんなに長い時間、アスファルトを駆けたことなんかなかったからかな。スニーカーから伝わるアスファルトの冷たさと、たっ、たっ、たっ、と音を立てて響く痛み。こんなところまで忠実で無くてもいいのに。
雑踏を抜けて、抜けきれず人の波に押されて、駅に辿り着く頃には肩で息をしていた。都営南北線の開通は二〇〇〇年だ。まだ真新しい電車に乗り込んで、今度は座席に腰掛ける。窓から見える風景は薄暗い壁ばかり。通り過ぎていくプラットホームの灯りが、どこか寂しい。
(そうだ、今のうちに場所を思い出しておこう)
うぬぬ、と唸りながら鶫の記録を探る。目黒駅を出て権ノ助坂を下ると、飲み屋街が見える。それを少し越えると橋があって、橋を渡って、細道へ進んでいくと桜架さんが当時住んでいたマンションがあった。
この頃には桜架さんのお母さん、式峰梅子さんはほとんど家には帰っていなくて、桜架さんがオフの日には閏宇さんか鶫が入り浸っていたように思う。
『目黒――目黒――』
「あっ、おりなきゃ」
降りて、階段を登る。大人用の階段は、子供のわたしには高すぎる。握りしめた切符を改札機に通す頃には、足が棒のようだった。
記録に従って坂を下りて、橋を渡って、マンションが見えてくる頃には疲労感で肩が重くなるほどに――って、あれ? こんなに疲れやすかったかな?
(鶫の記録――鶫の子供時代のスペックに、引っ張られている?)
気を取り直す。わたしはつぐみ。つぐみ・空星・ローウェル。ダディとマミィの娘。手を握りしめて、開く。それだけで身体に活力が満ちた。鶫の記録の、夢の中だからってなにもかも鶫になってしまったら、きっと、なにも変わらない。
元気を取り戻した身体で走り抜ける。オレンジのレンガ風の壁。十五階建てのマンション。管理人さんと親しかった鶫は、よく、融通を利かせて貰っていた。馴染みの管理人室の横を抜けて、エレベーターに乗り込んで、最上階へ。
「よし、ついた!」
一五〇〇一号室。角部屋。上品な黒い扉。インターフォンの上の表札には、式峰の二文字。
「うぬぬぬ……インターフォン、とおい!」
背を伸ばして、高い位置のボタンをなんとか押す。扉の向こうに響くチャイム音。足音なんかが直ぐに響くと思ったけれど……なにも聞こえてこない。
背を伸ばしてもう一度。もう一度。もう一度。なんだかどきどきしてきた。もう一度。もう一回。おかわり! じゃなくて、あわわわ、どうしよう。
「る、るす……?」
どうしよう、まずい。
「そんなぁ」
留守、なら、どこにいるのかな?
考えろ、考えろ、考えろ。柿沼さんはなんて言った? 確か、“血色”の撮影が中止になったから、鶫はオフになったんだ。
あの、鶫が遭遇してしまった交通事故。あれが起こっていない世界だと思った。でも、違ったら? まだ起こっていないだけだとしたら?
(今日は――何日?)
腕時計を見る。文字盤に日付が表示されるタイプの腕時計。日付は――十月二日。確かあの事故は、夜に起こった。でも、どこで? 現場を出発して、どこで交通事故にあった?
“血色”の撮影場所はわかる。でも、どうやって記録を探っても、鶫の交通事故の現場が出てこない。もしも、もしも、いつかも定かでない時間が過ぎてしまったら?
「まさか」
血の気が引く。
嫌な妄想を振り払うように、必死で頭を回した。
(そうだ)
そうだ、確か、鶫は次の現場に向かう最中だった。桜架さんと閏宇さんと、久々に一緒に撮影ができると喜んでいた作品。確か、バスジャック犯によってバスごと燃やされた女性が、手当たり次第に人を襲い始めた、という物語。
焼死体の悪霊という役柄で、現場は、そう――お台場だ。その前の“血色”の撮影現場が、確か、木更津だったと思う。海ほたるを抜けて一直線に向かう途中で、確か、台本を読むことに熱中していたから、どれくらいの距離を走行していたかわからない。
「だめだ、うごかなきゃ」
立ち止まっていても意味なんか無い。ひとまず、“血色”の撮影が中止になったのなら、直接、お台場の現場に向かっている可能性が高い。ここからなら――あれ? 鶫、電車でお台場に行ったことがない?
マンションを出て、駅まで走る。鶫が路線図を見たことがあるかどうかの賭けだったけれど……目黒駅の券売機にはちゃんと、路線図があった。人間、見たモノは忘れないっていうもんね。引き出せないだけで。
「うぬぬぬ……よし、五ひゃく円」
何度もこの五〇〇円玉にはお世話になってるなぁ。夢から覚めたら、ツナギにお礼を言おう。
切符を買って電車に乗り込む。腕時計を見れば、時刻はあっという間に三時を上回っていた。三時間も経っていない、はずなのに。揺れる電車がもどかしい。山手線から見える開発中の街並み。スカイツリーは見えない東京の景色。シンボルはまだ、東京タワーだったころ。
「な、ながかった……」
やっとの思いで乗り換えて、どうにかこうにかお台場へ。目的の撮影現場に辿り着く頃には、空はだんだんと茜色に傾き始めていた。
たぶん、もう、そんなに時間はない。鶫はいったい、どこをほっつき歩いているんだろう。見つけ出したら、一言くらいは文句を言ってもいいよね。
(撮影、撮影、撮影……あった)
線路近くの交差点に停まるロケバス。たくさんの人々の中。奥でパイプ椅子に腰掛けて並ぶ、二人の姿。十歳の桜架さんと、三十路にもかかわらず十代半ばにしか見えない閏宇さん。こうして並ぶと、姉妹のように見えた二人の姿。
わたしは人々の波を抜けて、きょとんとわたしを見る二人の前に躍り出た。の、だけれど、どうしよう、なんて言おう!
悩むわたしに、困惑しながらも声を上げてくれたのは、閏宇さんだった。
「えーと、日本語わかる?」
「っ、は、はい!」
「そしたら、誰かに止められなかった? ここ、関係者以外は立ち入り禁止なんだよ?」
「それは、そうなんですけれど、えっと――つぐみが」
鶫の名前を出すと、静観していた桜架さんの眉がぴくりと動いた。でも、だからといって変なことを言えば、きっと、閏宇さんにはバレてしまう。
だって、閏宇さんが鶫の一番の理解者であったように、鶫もまた、閏宇さんの一番の理解者だった。嘘も偽りも、きっと通じない。ぶつかるしか、ない。
「つぐみが、こうつうじこに遭いそうだから、さがしてるんです!」
会いたい。
でも、生きて居てくれなきゃ、会えないよ。鶫。
「はぁ? 鶫さんが交通事故に遭うような柔な方なはずがないよ。ね? 閏宇さん」
「ごめん、さくら。言いたいことはわかるけれど……この子、嘘を吐いていない」
「へ? 閏宇さん?」
閏宇さんの雰囲気は、他の誰よりも真に迫っていた。言うなら、彼女が一番、閏宇さん自身として動いているように見える。
その理由は、たぶん、きっと、閏宇さんが閏宇さんとして振る舞わない姿を、鶫は、想像できないからなんだ。わたしだって、きっと、わたしの夢の中に凛ちゃんが出てきたら、彼女はきっと彼女のままだから。
「さくら、上手く言っといて」
「え!? もう、しょうがないですね。その代わり、鶫さんを引っ張ってきてくださいよ!」
「ええ。さ、行くわよ」
歩き出した閏宇さんを、慌てて追いかける。
「心当たりのある場所は?」
「ち、“ちいろ”のげんばと、ここの間です!」
「なら、駆け抜ければ同じ事ね」
そう言って閏宇さんが歩き出した先には、黒銀のボディに彩られた一台のバイクがあった。ボディは黒に黄金のライン。閏宇さんが自分で整備までしていた愛車、ハーレーダビッドソン・ヘリテイジスプリンガー・FLSTS一九九九年式。
「はい、ヘルメット」
「わっぷ……ありがとうございます」
「なんだか不思議な感じね。初対面だけど、そうじゃないみたい」
「うるうさん……」
閏宇さんに抱き上げられて、後ろのシートに座る。大きなバイクに難なく跨がる閏宇さんの背中に抱きつくと、熱が伝わってきた。
「しっかり掴まってなさいな。振り落とされないようにね」
「っはい!」
しゅぼっ、という、点火するような音。次いで断続的に音を大きくしていくエンジン。ロックバンドの演奏を聴いているかのような音色が、バイクを染め上げていく。
「トばすわよ」
「へ? え?」
閏宇さんの言葉が、エンジン音にかき消される。
聞き返そうと思ったときにはもう――わたしたちは、風を切っていた。
(鶫も、こうして閏宇さんの後ろに座ったことがあるのかな?)
叩きつけるような風。
アスファルトを砕くようなエンジン音。
通り抜けていく他の車のテールランプ。
(だって、そうじゃないと夢の中でまでこんなの再現できないよ……!)
しがみつくこと以外なにもできない。
そんな感じたことのない種類の恐怖。
(いや、でも、待って)
鶫ならどうする?
十中八九、この恐怖を楽しむはずだ。だったら、わたしだって。そう思って顔を上げれば――そこはまるで、星空の中のような光景だった。
「きれい……」
外灯。
ネオン。
テールランプ。
そうやって顔を上げたから、気がつくことができたのだろう。行き交う車の中。左斜め前を走行する一台の軽トラック。
(あれ?)
その運転席に、誰も乗っていないということに。
「うるうさん! あのくるま!」
「え? は? なにあれ、安いホラーの撮影かなにか?!」
「あれかも!」
「あー、交通事故、交通事故ね。なるほど――先回りするわよ。捕まりなさい!」
はい、と、頷くより前にバイクが加速する。激しいエンジン音。かき鳴らす風の音。閏宇さんの背中から伝わるのは、心臓の音だろうか。
「先回りして鶫を止めれば事故には遭わない!」
トラックを越えて、前に出よう――とした、瞬間。周りの音が、かき消えた。
「そらが……」
星のない夜空。ネオンも消え、外灯は明滅している。軽トラックだけが不気味に走行していて、追い抜いたはずのそれはまた前に出ていた。
「っ追いつけない!」
ただ、閏宇さんの声と鼓動だけが伝わる。まるで、閏宇さんと並んで映画でも見ているみたいだ。それほどまでに非現実的で、冷たく吹き付ける風すら恐ろしい。
閏宇さんの焦りがしがみつく背中から伝わってくる。遠く見える先には、アスファルトの上に佇む人影。黒い髪をなびかせて、軽トラックの前から動かない女性。
夢の中。
記録の中で死ぬと、どうなるのかな。
それは、もしかしたら。
(軽トラックに追いつけない。ここまで来たのに、やっと見つけたのに、鶫を、わたしは――)
癖、に、なっていたのかもしれない。強く握りしめた手のひらの中に、硬貨の感触を覚えた。手を離すことはできないけれど、きっとまた、五〇〇円玉を握りしめているんだろう。
夢の中。そう、そうだ。自覚をすれば疲れも取れたし、念じれば腕時計や五〇〇円玉だって現れた。だったら、この状況をひっくり返せるようなものを、召喚すれば?
「おねがい。力をかして――こはるさん!」
闇の中から滲むように、一台のバイクが併走する。真っ黒なボディと鮮やかなランプ。黒いヘルメットのバイザーが持ち上げられ、垣間見える目元が、力強く瞬いた。
「え? え?! ねぇ、あれ、あなたの知り合い?!」
「はい!」
小春さんは軽トラックに併走すると、窓ガラスを黒樫の短杖でたたき割る。器用に片手でロックを外すと、バイクを乗り捨てて運転席に乗り込んだ。
「スタントマンでもやれそうね……まぁいいわ、こっちはあそこで突っ立ってる鶫をぶん殴るわよ!」
「はい! え!? ぶ、ぶんなぐる???」
ブレーキがかかって脇道に逸れていく軽トラックを尻目に、鶫が見えるところまでバイクを走らせる。でも、あとちょっとというところで、バイクが止まった。
「うるうさん?」
「あー……仕組みはわからないけれど、私はこの先に進めないみたいね」
「え?」
バイクを降りた閏宇さんに抱き上げられて、アスファルトに立つ。閏宇さんが空中に向かって手を伸ばすと、ある一定の場所が波紋のように揺らめいて、止められていた。
「一人でいける?」
「……はい!」
「そ、なら代わりに一発お願い」
「が、がんばります」
一歩進む。境界で区切られているのか、わたしの先にも波紋が生まれた。でも、止められることはない。一歩近づいて、波紋の向こうへ通り抜けた。
「きたよ、つぐみ」
夜空に星は瞬かない。
明滅する外灯が、スポットライトのように鶫を照らす。
俯いて、目元の見えない鶫が――わたしの声に、僅かに身じろいだ。
追いついた。
だからもう、逃がさない!
きっちりお話を聞いて貰うまで、わたしは、退く気なんか無いのだから。




