scene4
――4――
無事に本読みを終えた私たちは、のちのスケジュールを確認した後、各々で解散することになった。本当なら凛ちゃんと帰るつもりだったのだけれど、急用ができたと携帯の画面を渋面で見つめ、謝られたので、慌てて構わないと答えたのだ。
なんだか時間が空いてしまったので、せめてテレビ局の地図を覚えようと、スタッフさんに許可をもらって探検をしている。
「小春さんは、もうおぼえましたか?」
「ええ。道を覚えるのは得意です」
「ばーどうぉっちで?」
「はい。ときにはキャンプなども行いますので」
「なるほど」
いろいろ考えているんだなぁ。
そう、感心していると、不意になにかの音を耳が拾う。小春さんの袖を引いて足を止めると、小春さんもまた、その音に首をかしげる。
「会議室、でしょうか?」
「はい。そうですね」
好奇心、というか。少しだけ気になって、扉に近づいてみる。
――……!
――……。
言い争い? 会議をしている?
いいや、違う。これはもっと、私にとって身近なものだ。
「こはるさん、しぃー」
「っ」
唇に指を当てて、小春さんとその場を動く。というか、演技で訓練したわけでもないのに足音をさせずに歩けるんだね、小春さん。
そっと廊下に出て、ゆっくりとドアノブを回し、ほんの少しだけ開いて覗き込む。
声色の質からして、私の勘違いじゃなければ――
「はい、じゃ、もう一回オレの台詞ね」
「ん」
――ビンゴ。やっぱり、自己練習だ。私もよくやった。
(って、片方は、凛ちゃんだ。……じゃあ、もう一人って?)
近づけば、片方が聞き覚えのある女の子の声だと気がつく。さきほど別れたばかりの、凛ちゃんだ。では、もう片方は? そう思って、そっと目線を動かした。
艶やかな黒髪、瞳の色まではよく見えないけれど黒系統。骨格から見て間違いなく男の子なんだけど、際だって綺麗な顔立ちは、男女の境を曖昧にする。美しく、中性的な美少年だ。もしかしてこの子が、前に凛ちゃんが言っていた“兄”なのだろうか?
「なんで、泣かないんだ」
一言。
その、一言に息を呑む音が聞こえる。一緒に見ていた小春さんが、少年の一言に、震えた。
痛みを我慢したような顔。声は震え、軋み、今にも叫びだしてしまいそうなほどに込められた言霊。一言が、世界に影響を与え、現実を歪ませて幻想を呼び起こす。まるで、そう、在りし日の“さくらちゃん”のような。
「へんなこと、いうんだね。泣いたらふたりはかえってくるの?」
一方の凛ちゃんも、やはり演技が巧い。泣き笑いのような表情。色の抜け落ちた瞳。父も兄も役者で、母は下手な役者よりもずっと滑舌と語彙と、ときには演技を求められるアナウンサーだという凛ちゃん。
もっと小さな時から、彼女は演技の世界に触れてきたのだろう。ほんとうに、別人のような儚い演技だ。もっとも、経験の差もあるのだろうが、少年の方は別格なんだけどね。
「泣けよ。今じゃないともう、きっと、一生……本当に、泣けなくなるじゃないか!」
「っ、わたしが泣いたから、ふたりは死んだのに?」
「事故だろ! おまえが悪いんじゃない。悪いんじゃ、ないんだ。自分を責めなくても良いんだ! ……泣けよ。泣いたって、良いんだ」
副音声が聞こえるかのような叫び。きっと視聴者は、この一言に色んな言葉を重ねるだろう。許し、救い、あるいは怒りかもしれない。そう感じ取らせるだけの力がある。
現代のドラマや映画をもっと見よう。きっと、この二十年で、とても多くの名演が世に打ち出されていることだろうから。そう強く願うほどに、良い演技だ。
「わたしは――ぁ」
「――ん? どうした?」
「……つぐみ!」
「は?」
あ、気がつかれた。
演技中の凛ちゃんと目が合ってしまい、凛ちゃんは演技をぶった切って私に駆け寄る。子犬みたいでとても愛らしいが、少年には申し訳ないことをした。
「のぞいちゃって、ごめんね」
「いい。つぐみならとくとーせきでいい。いいよな? あに」
「はぁ? なに言ってんだ。ダメに決まって――」
そう言いかけた少年は、私を見てぴたりと止まる。その様子に、凛ちゃんはすかさず目を細めて少年に声をかけた。
「つぐみがかわいいからって、みすぎだぞ、あに」
「ばっ――いや、ちがっ」
「かわいくないともうすか」
「そんなことは言ってない! じゃなくて! おいおまえ!」
少年はそう、勢いを振り払うように私を指さす。
「おまえだろ、凛の言ってた“演技の天才”って」
「そうなの? りんちゃん」
「うん。いった。よくわかったな、あに」
「おまえはいちいちわかりやすいんだよ、凛」
まぁ、それはわかる。
少年はそう、天使のような顔立ちからは想像も出来ない口調で、肩を怒らせた。なにか怒らせるような――いや、覗き見は怒られるか。そうだよね。
「で、おまえ。覗きが申し訳ないと思うんだったら、おまえがオレの本読みに付き合え」
「つきあえって……いやらしいぞ、あに」
「そういう意味じゃないしなんでわざわざそこだけ抜き取った!?」
仲良いんだなぁ。っと、感心している場合ではない。
「あの、のぞいてしまってごめんなさい!」
「申し訳ありません、夜旗様。この責任はマネージャーである私が」
「ああいえ、責任とかいいので。オレはただ、この子の実力が見たいだけです」
「わたしの?」
随分と、ハッキリ物を言う子だ。正直、好感が持てる。そして一役者として、今世で初めて受けた“挑戦”に、魂が震えた。
前世ではそれなりにあったことだ。片親の子。両親に逃げられた子。不幸というだけで成り上がった子。撮影の場で、オーディションで、舞台の上で、カメラの裏で、多くの人間と己の魂をかけてきた。
私は、挑戦相手を子供だと見くびらない。それは、私自身がされてきて、一番嫌なことだったから。
「ぜひ、おねがいします」
「へぇ。良い度胸じゃん。凛」
「はいはーい。つぐみ、あっぷはしないけどはんせいように、さつえいするね」
「では、凛様。不肖、御門小春がその大役、承ってもよろしいでしょうか?」
「うん」
あっぷ? あっぷってなんだろう。まぁ、小春さんが止めないのであれば大丈夫か。
「シーンはどこですか??」
「この台本。さっき凛がやったところじゃなくて、ここ」
なるほど。自分の我が儘で両親が事故に遭い、心を閉ざした少女。少女と出会って彼女を助けたいと願う少年が、そんな少女の心に踏み込むというのが、さきほど凛ちゃんが演じていたシーンだ。この台本は、時系列としてはそのあと。
少女、玲奈は少年、将の言葉で氷のように固く閉ざしていた心を僅かに溶けさせる。それが、両親を慕っていた叔母、朝子の「おまえがいなければ良かった」という言葉により、最悪の形で決壊してしまった。
マンションの屋上。飛び降りようとする玲奈。将は、決死の覚悟で玲奈を止める。
「じゃ、凛。合図よろしく」
「めいかんとくのじつりょくをみよ」
「余計なことはするなよ?」
罪悪感。
両親への思い。
叔母への恐怖。
少年への儚い感情。
己自身への、煮えたぎるような憎悪。
「シーン――あくしょん!」
激情は堰を切り、心を燃やすように、溢れ出る。
「っおい、そんなところでなにやって――」
「来ないで!!」
「――っ」
だから、お願い。
どうかわたしを、見逃して。
――/――
揺れる白銀の髪。まっすぐに見つめる青い眼。異国の情緒を思わせる色合いの割りに、親しみのある容貌。その全てが神がかり的に配置された、人間離れした造形美に、思わず瞬きを忘れた。
――なんてことは、悔しいから言ってやらない。こんな覗き見幼女なんかに、絶対に言ってやらない。
「シーンはどこですか?」
なんて、何事もなかったように、この夜旗虹の挑戦を受け取る幼女に、むかっ腹が立ってくる。なんだ、本当にオレと並べるつもりでいんのかよ。ウケる。そんな、とりとめも無い気持ちを、凛の生意気な視線で止められるほどに。
わかってる。ああ、わかってるよ。この世界は何処まで行っても実力が全てだ。実力を測る挑戦をしたんだったら、全部受け止めてやるさ。
「この台本。さっき凛がやったところじゃなくて、ここ」
すかした顔で台本を読んで、あろうことか、ぱたんと閉じた。覚えたのか? 直感像、とかいうんだっけ? それだけは、割とマジでうらやましいかもしれない。
いやいや、何言ってんだ。そんなわけあるか。オレだって、やればできるに決まってる。きっと。
「あに?」
「なんでもない」
凛の小さな、訝しむような声に頭を振る。気にするな。戯言も雑音も、今のオレには全部不要だ。
イメージしろ。オレは、年の離れた女の子に淡い恋心を抱く少年だ。妹のような存在だったのに、大人びてきた少女。彼女を守ると誓ったのに、ふがいなさに己を憎む少年、将だ。
「じゃ、凛。合図よろしく」
「めいかんとくのじつりょくをみよ」
「余計なことはするなよ?」
没頭しろ。
本読み? は、ふざけるな。今この場は、そんなちゃちな場じゃない。魂と魂をぶつけ合う、本気と演技の場だ。
屋上。
たたずむ玲奈。
追いついた自分。
「シーン――あくしょん!」
身を投げ出そうと震える彼女の背に、心が、凍った。
「っおい、そんなところでなにやって――」
「来ないで!!」
「――っ」
涙のにじむ声。空気が震えて、彼女の本気に足がすくむ。
「なにしに来たの? 放っておいてよ!」
「いやだ! 帰るぞ、玲奈! こんなことして、おじさんとおばさんが喜ぶとでも」
「朝子叔母さんは喜ぶわ」
「っ」
おまえさえ生まれてこなければ。
言葉の刃が玲奈をえぐる瞬間を、オレは確かに見ていた。見ていたのに、なにもできなかった。
玲奈の浮かべる嘲笑は、己自身に向けたものだろう。なのになぜか、それは自分に向けられたもののように突き刺さる。
「ねぇ、もういいでしょう? わたしをお父さんとお母さんのところへ行かせて?」
「自殺なんかして、あの二人に会えるとでも思ってんのか!」
「あっ、はははは、わかってるわよ。自分達を殺した人間なんかと、会いたくなんてないでしょうね!」
イメージが流入する。ペンキの匂いのするような、崩れた白壁のマンションの。
いや、いや、今時そんなマンションなんてあるか。きっと、よく整備されたコンクリートの。
流れ込んでくるイメージは、大人を相手にしているような、泣き出しそうな子供を相手にしているような。生まれたての胎児が、老成した……ちがう!
なんだ? なんでこんな、ちぐはぐなんだ? ええい、と、振り払って、一歩踏み出す。
「会いたくない? 笑わせんな! あんなに愛してたから、玲奈のところに行こうとしたんだろ? それを否定したら、あの二人の心まで否定することになるんだぞ……」
「っ、それ、は」
「帰ろう。ほら、風邪ひくぞ。帰ろう、玲奈――!」
「い、いや、こないで!」
いやいやと首を振る玲奈の足が、マンションの屋上から、一歩外に出る。死のうとした故意のものではない。動揺が踏み込んだ、偶然の事故。幼い体が宙に投げられ、自然落下を始めようとした瞬間、玲奈は、安心したように微笑んだ。
だからオレは、走る。安心なんてさせてやらない。おじさんとおばさんの愛を、オレの想いを、無駄なんかにさせない。間に合って、つかんだ手は、冷たく震えていた。
「なん、で」
「死ぬなんて、言うなよ。死のうとなんて、するなよ! オレは――玲奈に、死んでほしくなんかない」
「なんで、なんでよ……う、ぁ、ぁああああああぁああぁぁぁっ!!」
小さな頭を抱きしめる。今はただ、そのぬくもりが消えなかったという実感だけが、泣き出してしまいそうな自分を抑えていた。
「カット!」
声に。
音に。
色に。
交わる視線に、我に返る。
「いつまでだきしめてるんだ? あに」
「あ、ワリィ」
「いえ、おきになさらず」
こんなの、初めてだ。初めて、世界が交わった。あの瞬間、確かにオレは“将”だった。それを……こんなちぐはぐなやつに引き出された自分が、妙に悔しかった。
「ちっ……今回は引き分けだ」
「えっと、はい」
「なんだよ。ずいぶんと素直じゃないか。あんなにあっさり挑戦を受けておいて」
「その、うーん」
「煮え切らないな。言いたいことがあれば、言えば?」
そう問いかけると、なぜか、横の凛がため息をつく。
「はなせってことだろ、あに」
「はなせ……離せ? あっ、悪い!」
謝っといて抱きしめたままで、妹に指摘されて離れて謝るとか、コントか! 慌てて離れると、空星つぐみは頬をかいて普通にしていた。
ぐ……なんか悔しい。
「きょ、今日はこれくらいにしておいてやる。行くぞ、凛!」
「あ、うん。じゃあつぐみ、またあした」
「う、うん。またあした!」
のんきに手を振る凛をひっつかんで、会議室を出る。肩を怒らせて歩いていると、凛が小走りで横に並んだから、お袋の教育を思い出して歩幅を合わせた。
「どうだった?」
「はん。あれならオレの楽勝だね」
「あれなら?」
「あの分ならな」
なんというか、本気で演ってみて、すこしわかった。なんかずれてるっていうか、ちぐはぐなんだ。うまく言えないけどさ。
「そのぶんが、なくなると?」
「なくなる? ふん、そんなの」
化け物が生まれるに、決まってるだろ。
自然と出てきそうになった言葉を、思わず飲み込む。ただ首を傾げる妹に、オレは、なんでもないと悪態をついて、首を振った。