scene4
――4――
「へっぷち! うぅ、さ、さむい」
夢の中の感覚は、想像力に左右されるらしい。夢の中でも演技の練習を試みた鶫の記録では、想像力を高めるために目を閉じて事務所の黒部珠美さんに“あつあつおでん”を食べさせて貰ったりとかしたみたい。
それで言うと、わたしが今こんなにも寒いのは、想像力のせい、というか、おかげ、なのかな。うぅ、妄想力たくましいみたいでなんだか微妙だな。幸い、寝間着じゃなくてよく着るワンピース姿だけれど。
(ここ……夢の中、だよね?)
拉致だったら、季節までは変わらないだろうし。
そう思ってきょろきょろと見回してみると、一応、妙なところはあった。こんなどう考えても外国人の、かつ、夏服の子供が歩いていても誰も見向きしないから。
となると逆に、ある程度、動きのある人間がキーなのかも。歩き回って探してみよう。朝起きるまでに終わるかなぁ。
「ん? でも、ここってもしかして……」
歩いていると、消防署が見えた。赤い消防車が立ち並び、隊員さんが施設の前を歩いている。消防署を正面に見て右側、道の先には住宅街。左側は、大通りが続いている。わたしはあんまり見覚えが無いけれど……鶫の記録には、色濃く残る光景。
思わず消防署の前を見れば、『東京消防庁池袋消防署』の文字が見えた。ついでに署の前に張られている掲示を見れば、日付は平成一二年――西暦二〇〇〇年だった。
(劇場通りだ……)
豊島区の池袋消防署前。この通りの先にあるのが“東京芸術劇場”だ。東京都が都民のために公演を行ったりする場所で、世界最大のパイプオルガンがあることで有名だったりする。
かつて、桐王鶫が所属していた小さな事務所、“黒部芸能事務所”は、当時の所長だった黒部時夫さんが脱サラして、奥様の珠子さんと設立された事務所だった。
事務所の場所は偶然、後に設立される東京芸術劇場の近くで、劇場ができてからは「ここに呼ばれるような役者を輩出する」ということを夢見ていたが、当時のライバルだった白紙芸能事務所に役者を引き抜かれてしまい、鶫が所属したときには既に他に役者がいなかった。
土地代の問題で駅からは多少離れるモノの、設立は一九六五年で、まだそこまで土地代は高騰していなかったころだからどうにか買えたみたい。でも、それで資金が底をついて、引き抜きを止められなかったようなのだけれど。
「よし!」
頬を叩いて気合いを入れ直す。劇場通りを歩いて、東京芸術劇場を右目に豊島区立西池袋公園のある左手に曲がる。道順は記録を辿ればいい、と、思う。信じる以外にできないのだけれど。
池袋公園を左手に歩いて行くと、立教通りから細道に入る。立教大学よりも手前を曲がって、もうちょっと入り組んだ通りを歩いて行くと……あった。
「ここだ……」
黒部芸能事務所。
一階部分は社用車が一台と、鶫のマイカーが駐車されている。社用車はマークⅡで、鶫のマイカーは真っ赤なマーチだ。ナンバーも、鶫の記憶と変わらない。
外階段を登って二階部分が事務所、三、四階部分が控え室など仕事のフロア。五階部分が黒部家という作りだった。一九八三年に鶫が所属した当時は、所長の一人娘の珠美さんがまだ五歳の頃だった。消防署前の情報が正しければ、今は二〇〇〇年。珠美さんは二十二歳だ。
(でも、わたしが突然訪ねて、大丈夫かな……)
いつも。いつも、わたしの側には“誰か”がいた。小春さん、春名さん、最近なら真宵さんもそう。ダディやマミィもそうだし、ときには虹君が、ときには凛ちゃんや珠里阿ちゃん、美海ちゃんが。
そして、誰も側に居なくても、わたしの側には鶫がいた。強くて、たくましくて、優しくて、少しだけおっちょこちょいな彼女がいた。
今は一人。
初めて、独りだ。
「すぅ……はぁ……」
目を伏せる。
目を開ける。
ひとりだ。
だからといって、培ってきたぜんぶは、嘘なんかじゃない。
かん、かん、かん、と音を立てて階段を登る。鉄錆の匂い。ざらつくコンクリートの壁。扉に向かって手を伸ばして、ドアノブをひねる。まず、目に飛び込んでくるのは玄関マットと靴棚。それから待合のソファーとテーブル。パーティションの向こう側に事務机が置いてあるようなシンプルな作り。
人が訪ねてくることがほとんどないから、いつも、黒部所長は待合ソファーに腰掛けて紙巻きたばこを吹かしていた。その記録に寸分違わず、あごひげを蓄えた男性――黒部時夫所長が、新聞を片手にくつろいでいる。
「あのぉ」
「ん? 君は――大変だ」
「たいへん?」
わたしが声をかけると、黒部所長は顔を上げ、やがて目を見張る。
「たたた大変だ! 珠美ー! 珠美ー! 外国人の子供が迷い込んでる! 俺は英語がわからないんだ、珠美ー!」
転がるように立ち上がり、駆け出していく黒部所長。奥の階段を登る音が聞こえてきたかと思えば、強く叱りつけるような女性の声が建物をびりびりと揺らした。
遠くてよく聞き取れないけれど、たぶん、「子供を一人で、置いてきたんじゃないでしょうね?!」だと思う。
(当たり前なんだけど、鶫の記録のままだ。知っていても、目にするとこんなにも違う)
百聞は一見にしかず。そんな言葉の意味を実感していると、どたばたと人が戻ってきた。黒髪黒目で、頭髪はシニョンでまとめた女性。鶫は彼女を、本当に小さな時から知っている。
「えーと、えーと、ハ、ハロー?」
英和辞典を片手に、珠美さんはわたしに声をかけてくれる。当時は翻訳なんて気軽にできなかったから、こうやって辞書や手引き書を見ることが多かったみたいなんだよね。
そこまでして向き合ってくれる珠美さんに英語で答えたい気持ちを、ぐっと抑える。ここで挑戦……というのも、ちょっと失礼だし。
「あの、にほん語でだいじょうぶです。ごめんなさい」
「ナイストゥーミーチュー……へ? あら、そうなの? ……父さん?」
「い、いやぁ、急用を思い出しちゃったからこれで!」
「あ、コラ! まったくもう、ほんっとに」
華麗な逃げ足で退散していく黒部所長を、ぽかんと見送る。おおらかで飄々としていて底抜けにお人好しで、でも、事務所を守るときは極道みたいな目つきになる。頼りになる、優しい所長。日常生活でちゃらんぽらんなところは、奥様と珠美さんがカバーしていたみたいだ。
珠美さんは、黒部所長を引き留めようとした手を力なく落とし、額に手を当てて首を振る。呆れている、という表現がぴったりな仕草が、なんだかおかしかった。
「慌ただしくてごめんね。それで、えーと、迷子?」
「いえ! あの、きりおうつぐみさんを、さがしに来ました!」
「鶫さんを? えーと、今は撮影中だったかなぁ……ん、違う。中止になったんだった」
珠美さんはスケジュール帳で予定を確認して、そう答える。
「明日になれば戻ってくると思うけれど……」
「えっと、んと、国にかえらなければならないので、きょうがいいんです……」
「あー、そっか。日本語ができるっていっても、どう見ても外人さんだもんねぇ」
うんうん、と、珠美さんは納得して頷いてくれた。現実世界に帰るのも国に帰るのも同じようなものだよね! なんて、演技をしてみたら、なんとかなったみたい。
「ところで、鶫さんにどんな用事?」
「おはなしがあるんです」
「お話?」
「はい。つぐみ……さんと、たいせつな」
「そっかー。鶫さんは本当にもう、色んなところで友達を作ってくるんだから。まぁ良いわ。今日、お休みだからフラフラしてると思うのよね。一応、行きそうなところはわかるから、連れて行ってあげようか?」
珠美さんの提案は魅力的だ。でも、たぶん……ううん、直感なんだけれど――それじゃあ、だめなんだと思う。
「いえ、ばしょを教えてください!」
「えーと、心配だけれど……ああ、考えてみれば、ここまで一人で来るって言うのも考えにくいか。わかったわ。えーと、たぶん――」
珠美さんはそう言って、鶫が居そうな場所を教えてくれる。
「ありがとうございます。行ってみます!」
「うん。気をつけてね?」
「はい!」
場所は――日ノ本テレビ局。休日にまでテレビ局に通っている、という印象はどうなんだろう、なんて思わなくもないけれど、新しい技術を得るためとかだったらとても「らしい」感じがして、笑ってしまう。そんな鶫だから、みんな、あんなに惹かれたんだろうなぁ。
珠美さんに頭を下げて、事務所を飛び出す。日ノ本テレビへは、池袋から有楽町線で一本だ。切符を買って……切符を買って? お、お金、ない。どうしよう。
(いや、でも、夢なんだし……気合いで!)
うぬぬぬ、と念じると、手のひらの中に硬貨の感触。開いてみれば、鵜垣に追いかけられたときにツナギが投げつけてくれた五〇〇円玉が、手のひらの上できらきらと輝いていた。
「よし……!」
背伸びをして……届かなくて、駅員さんのところへ行き、切符を購入。えっちらおっちら改札機に通して、電車に乗り込んだ。
(ゆ、揺れる)
記録は、所詮、記録に過ぎない。思い返していたときはわからなかったけれど、夢の中とはいえ、鶫の記録の内側はとても現実味に溢れている。だから、電車に乗って移動する、なんて簡単に考えていたけれど、意外と難しい。
到底、席に座れるような状況じゃない。満員とは言えないけれど、つり革もそこそこ埋まっている。座席の近くの手すりにつかまって、揺れる電車に耐えるしかなかった。
とても長い時間、揺られていた気がする。
緊張とか揺れとかで、肩にのしかかる疲労感を振り払いながらどうにか電車を降りた。それから、日ノ本テレビに向かって歩く。
社屋の位置は幸い変わっていないようで、車窓から見た道しか知らないのだけれど、どうにかこうにか日ノ本テレビに到着することができた。
「ここにいればいいんだけれど」
口から零れた弱気に蓋をして、大きなビルに一歩踏み込む。外国人の子供が一人だ。普通だったら警備員に止められるのだろうけれど、鶫の記録に色濃い人間以外はぼんやりとした感じで、ルーティーンをこなす以上の感情は見えない。
エキストラさんを見ているようだ、なんて思いながら、受付に向かう。アポイントメントは……うぬぬ、と、念じると、首から提げるゲストカードが現れた。これをつけていれば関係者だ。
「あの、すいません、きりおうつぐみさんは、いますか?」
フロントで背伸びをして訪ねると、受付のお姉さんは首をかしげた。切符を売る駅員さんはそれだけで良かった。でも、臨機応変な役割を求めたいのなら、もっと、鶫の記憶に色濃く残る人相手じゃないとダメなのかな?
でも、ここは夢の中。鶫の記憶の中だ。記録に薄い人たちだけで構成された空間がある、というのも、変だと思う。だって、薄いのならそもそもこの場所自体が記録の中で鮮明に遺す必要が無いから。
(ということは、誰か……あ)
周囲を見回して直ぐに、窓辺でマネージャーらしき男性と会話をする人の姿が見える。柔らかい髪質の黒髪。少しだけ紺色にも見える黒目。鋭い眼差し。トッキーのCMでご一緒した海さん……ではなくて、もう少し落ち着いた雰囲気のあの男性は、もしかして。
「あの」
意を決して近づいて話しかける。男性はわたしを見ると、直ぐに、首をかしげた。
「私に何か用か?」
「やっぱり……かきぬまさん、ですよね?」
「そう、だが? なんでこんなところに、子供が……」
「たまみさんに、きいてきたんです。つぐみさんが、ここに、いるかもしれないって」
柿沼宗像さん。
妖精の匣。それから、紗椰でもご一緒させていただく大先輩。
彼は夢の中で、若い頃の姿のまま、わたしの問いに首をかしげていたのだった。




