scene3
――3――
閏宇さんと話をした、翌日。鶫と会うと決めたのは良いけれど、方法もわからないまま、わたしは当初予定していたツナギのもとへ行くことになった。
病院の中庭。ベンチに差し込んだ光がスポットライトのようにわたしたちを照らす。短期入院中のツナギのお見舞いに来たわたしは、彼と並んで話をしていた。
「つぐみも、入院していたことがあるんだよね? どうやって暇を潰していた?」
「わたしは、えほんを読んだり、えんぎのれんしゅうをしたり、とか」
「ふぅん。なら私――じゃなくて、おれも、時間の有効活用をしてみようかなぁ」
腕を組んでため息を吐くツナギは、どこか退屈そうに目を細めていた。海までには退院できるとはいえ、そろそろやることもなくなっちゃうもんね。
「つぐみは、紗椰の本読み、どうだった?」
「まだなぞっただけだから、かお合わせみたいな感じだったよ」
「顔合わせかぁ。でも、トッキーで対決した子も居るんだよね? 嫌がらせとか――されるタマじゃないか。つぐみは」
「どーゆーいみ?」
もう、と、唇をとがらせれば、ツナギは目をそらして笑った。あれでも、なんでツナギがトッキーの対決のことを知っているんだろう? あ、エミリちゃんのSNSでもチェックしてたのかな? 曖昧な情報しか載ってなかった気がするけれど、ツナギは頭が良いから、推測したのかも。
「ツナギは、どう? さいきん」
「とりあえずは、フィジカルとメンタルの両方でチェックかな。フィジカルは純粋な栄養失調。メンタルは、まぁ色々。良い匂いのする部屋で、優しそうなお兄さんに話を聞いて貰うだけ」
ツナギはそう、どこか退屈そうに告げた。これまでとてもめまぐるしい毎日だったからね。
「そうなんだ……メンタルケアかぁ」
「つぐみは、悩み?」
「うーん……なやみ、かな」
「そうなんだ。で? どんな?」
深く澄んだ青い目で、ツナギはわたしを覗き込む。海の、深いところ。深海の色。覗き込まれると、吸い込まれてしまいそう。
「たとえば――ゆめの中にはいるのって、どうすればいいとおもう?」
「夢の中? うーん……そうだ。今日、ちょうど居るし、聞いてくるよ。待ってて!」
「へ? ぁ、ツナギ?!」
ツナギは軽やかに立ち上がると、わたしの制止も間に合わないほどの身軽さで病院の中に走って行く。わたしはそんな彼の様子を、ただぽかんと見送ることしかできなかった。
手持ち無沙汰になってしまったので、中庭の様子をぼぅっと眺める。車椅子のおじいさん、入院服のお兄さんに寄り添う女性。小さい子も居て、女の子と男の子。手に持っているのは、凛ちゃんも持っていた人形、“クマザウルス”だ。シロクマに恐竜の尻尾が生えている、なんともいえないディティール。
平和でのどかな光景だ。ベンチの背もたれに身体を預ければ、視界いっぱいに青空が広がる。薄く浮かんだ白い雲、日差しは強く眩しいけれど、肌を撫でる風は心地よい。絵に描いたような穏やかな日常。爽やかな夏の景色。色んなコトが解決した今、本当は、この日常に感謝して、前を向くべきなんだろうって、思う。
(でも)
祈るように、胸に手を当てる。わたしはきっと、わがままなんだ。満足しなきゃいけないのに、いまに満足できない。
「お待たせ、つぐみ」
ツナギの声で視線を戻す。中庭を小走りで戻ってきたのだろう。ツナギはともかく、ツナギに手を引かれている白衣のお兄さんは、少しだけ息を切らせていた。
「ツナギ……あっ、あの、おいそがしい中、ごめんなさい!」
「あ、あははは、いいよいいよ。ツナギ君を元気にするのが僕の仕事だからね。その一環さ。ああ、と、僕はカウンセラーの水無月優。よろしくね」
水無月先生、は、細身に細目のほんわかした方だった。人によっては気弱そう、と言われてしまいそうな下がり眉と、青みがかかった黒髪。
頼りになりそうか否かで言えば、失礼だけれど、あんまり。でも、とても話しやすそうで、にこにこと笑っていてくれるのもあって、気軽に悩みを打ち明けられそうな柔らかさがあった。
「それで、えーと、つぐみちゃん、だったよね? ツナギ君がよく話している。何か聞きたいことがあるっていう話だけれど……どうしたのかな?」
よく? よくって、どんなことを話しているんだろう。いや、今は良いか。
「あの、ゆめの中に、はいりたいんです」
「夢の中? ふむ、明晰夢が見たい、っていうことかな」
「めいせきむ?」
「自分の意思で、夢の中を動くことができる夢のことだよ」
夢の中を自由に動く。鶫がいたのは、わたしの意識の深いところだった。夢は深層意識の表れだとも言うし、もしかしたら、それで……。
「つぐみは、夢に入りたいの?」
「うん。えっと、ツナギは、そういうのはない?」
「そうだなぁ」
怪しまれても困るから、純粋に、夢の中で遊びたいような体を装う。相手はカウンセラー。心理戦のプロだ。不自然にならないように、かつ、不自然さをごまかせるように緊張の演技も織り交ぜよう。
「夢の中でもつぐみに会えたら幸せだけど、夢じゃ満足できないかな」
「ふぇっ!?」
「ツ、ツナギ君、オトナだねぇ。僕、ドキドキしてきちゃったよ……」
そんな、わたしの演技は、ツナギがわたしの髪を一房掬い上げながら告げた一言に、あっけなく崩されてしまう。だ、だんだん、ツナギの照れが少なくなってきてる。ど、どどど、どうしよう。
「で、でも、なるほど。夢の中でもツナギ君に会いたいんだね? うんうん、ツナギの心理状況にも良い影響を及ぼしそうだし、明晰夢を見る方法を教えてあげよう!」
「ほんとうですか! って、あの、その、ツナギにあいたいからとかではなく」
「あはは。そうだね、無神経だったね、ごめんごめん」
違う、違う。そうじゃない。そうじゃないんだけど、恥ずかしくてツナギの顔が見られない!
「明晰夢の初心者に最適なのは、MILD法かな。オーストラリアの大学で研究されている方法で、やり方はいたってシンプル。入眠……眠ってから五時間後に起きて、二度寝をするっていうやり方なんだけど、二度寝をするときに『次に夢を見るときは、自分は夢の中にいる』と何度も唱えるんだ」
五時間後、かぁ。起こして貰う……んじゃ、怪しまれちゃうよね。なら、なんとか自分で起きないと。わたし一人でも、できるんだって見せないと。
「……わかりました。ありがとうございます! みなづき先生!」
「ははは、いいよ。でも、夢中になりすぎないようにね? 現実のツナギ君が、悲しんでしまうよ」
「うぅ、だからちがうんです……」
肩を落として力なく反論するわたしの背を、ツナギは、慰めるようにぽんぽんと叩く。嬉しいけれど、原因はツナギだからね?
ツナギの面会時間を終え、家に帰る頃には空はだんだんと茜色に近づいてきた。鶫の記録を振り返るとき、一番に思い起こされるのがこの空だ。家に居場所がなく、かといって、当時の日本の夜は今ほど安全でも無かった。だから日が暮れ始めるこの夕暮れ時まで、鶫は一人、時間を潰していた。
ぼろぼろのランドセルは中古品。水筒袋を揺らしながら、夕暮れに向かって歩く。寂しいとか、悲しいとか、そんな感情は枯れ果てて、ただ胸にぽっかりと空いた空虚さだけがからからと音を立てていた。
本当に真逆だ。どうしてわたしは、わたし自身を鶫そのものだって思えていたのかもわからないくらい、全部が正反対。鶫とわたし。何もかも違う、違うと、気がついた。
「こはるさん」
「はい。いかがなさいましたか?」
家に帰り、扉に手を掛けた小春さんを呼び止める。ここを開ければ、みんなが迎えてくれると思う、けれど、その前に。
「こはるさんは、ずっといっしょに、いてくれる?」
「はい。つぐみ様が“いやだ”というまでは、いつまでも」
「ふふ、なら、ずっとだ」
年が離れていても。
生まれた時代が違っても。
環境が、家族が、友達が、なにもかも真逆でも。
「さ、つぐみ様」
「うん。――ただいま!」
扉を開け放ち、駆け出す。大好きなダディとマミィ。それから、春名さんもいる。いつもは忙しくて、マミィよりも会える機会の少ないダディに向かってジャンプをすると、ダディは軽々と抱き上げてくれた。
「今日はおてんばだね、つぐみ」
「だめ?」
「いいや。ただ、本当に天使の翼が生えてきたのかと驚いてしまっただけだよ」
暖かい家族。ここが、わたしが帰ってくるべき場所。そのことを胸の奥に刻みつける。万が一、夢の中がとても居心地が良かったとしても、帰ってこられるように。これは絶対。
初めて――初めて、わたし一人で成さなければならない。今、ずっと側でわたしを守ってくれていた鶫がいないのだから、当然だ。
「今日は人形町で良いお肉が手に入ったから、ビーフシチューよ」
「つぐみ、今日はぼくの女神の手作りだよ」
「マミィのてりょーり?! やったぁ!」
連れ立って歩いて行く。今日は小春さんも席について貰って、家族みんなで夕食だ。暖かい。嬉しい。身体の奥から、優しくて鮮やかな気持ちが溢れてくる。もし、まだ、鶫がこの感覚を感じ取れるのなら嬉しい。だって、鶫は、わたしにとって。
「さ、つぐみ。マミィにも抱かせてちょうだい」
「うん!」
いつもの日常。変わらない、優しい生活。守りたい時間があるから、だから、わたしは。
夕食の場に向かう道すがら、意思を強く、強く、固めていく。鶫は頑固だから、ちょっとやそっとのことじゃ、捕まってくれないことだろう。だからわたしは、鶫以上に頑固になって立ち向かおう。
夕食を終えて、夜。歯を磨いて、寝間着に着替えて、天蓋付きのベッドに身体を横たえる。明日の午前中に予定はない。春名さんと小春さんに、「朝は起こさないで」とお願いしたら、快く頷いてくれた。
今が、夜の二十時。子供は寝る時間。目覚まし時計がなると小春さんたちなら気がついてしまうだろうから、スマートフォンのアプリで、目覚まし音の代わりにバイブが鳴るモノをセットしておく。うぅ、ちゃんとできているか自信ない。
(真夜中の一時に起きて、例の言葉を唱えて、もう一度寝る)
一回でできるかなんてわからない。わからないけれど、できなかったらできるまでやる。でも、水無月先生は「初心者ならこの方法」と言っていた。それはたぶん、初心者ほどこの方法が合っている、ということだから――成功率は一度目の方が高いのかも知れない。
(ちゃんと、起きられますように……)
目を閉じて。
意識が、ふわふわと溶けて。
――『…………ん?』
――『…れ、……こ…?』
振動で、目が覚める。え? 五時間も経った?
慌ててスマートフォンで時間を確認すれば、ちゃんと経っていた。深く眠っちゃうと、時間なんてほんとに一瞬だ。気をつけよう。
「よし! ――『次に夢を見るときは、わたしは夢の中にいる』、『次に夢を見るときは、わたしは夢の中にいる』、『次に夢を見るときは、わたしは夢の中にいる』」
また、だんだんと、意識が、とけて。
『次に夢を見るときは、わたしは夢の中にいる』
そして。
『次に夢を見るときは、わたしは夢の中にいる』
まぶたが。
『次に夢を見るときは、わたしは夢の中にいる』
おち、て。
『次に夢を見るときは、わたしは夢の中にいる』
わたし、は。
『次に夢を見るときは、わたしは夢の中にいる』
わたしは、目を開けた。
「え? あれ? ど――」
青空。
白い雲。
アスファルト。
「――どこ、ここ?」
人。
車。
雑踏。
自転車。
都会の街並みの中、一人わたしはぽつんと呟いた。




