scene10
――10――
手の中に残る椿の花が、夢の中の記憶を揺り起こす。
『あんたはホント不器用なんだから、もっと口にしなさい、口に』
『玲貴。あんたはわかりにくい男だけどさ、本当は優しい人だって知ってるよ』
『ほら、玲貴。私とあんたの子供。お父さんに、なるんだよ』
『玲貴。愛してるよ』
『先に向こうで待ってるからさ。ちゃんと幸せになって、天寿を全うして、会いに来て』
『もし早く来たら――鶫姉さんと二人で、たたき返すから、そのつもり、で、ね』
『繋を、頼んだわよ。わた、しの、最愛の、ひ――と……』
俺は。
俺は、どこで間違えた……?
千鶴と出会ったのは、鶫の代わりを探していたときのことだった。
鶫はもうこの世にはいないということを受け入れられなくて、興信所に依頼して鶫の血縁者を捜し当てた。
鶫を失って七年。もう、記憶に残る彼女の声も、おぼつかなくなりつつある冬の日だった。
「君の借金を肩代わりする。だから、俺と籍を入れてくれ」
「それ、ナンパ?」
「俺にも事情があるというだけだ。君に不利益が及ぶようなことはない」
「へぇ?」
間の抜けた女だと思った。鶫とそっくりな容姿だが、彼女とは似ても似つかない。聡明だった鶫と違い、千鶴という名のこの女は、ずいぶんと劣って見えた。
それでも、それでも俺が鶫を忘れずに、そして、鶫を生み出すためにはなくてはならない存在には間違いない。
胸に開いた空虚な穴を埋めるには、もう、これしかなかった。
だが、本気で人と向き合ったことなどない俺にとって、真正面からぶつかってくる彼女との日々は、一筋縄ではいかなかった。いかなかったことを、思い出した。
「いいか? 君は従順であれば良い。余計なことはするなよ」
「はい、じゃあ離婚ね」
「なっ、何故そうなる!」
「お金が弱みだと思った? 頼み込むから頷いてあげただけよ。私の人生を金で縛れると思わないことね」
「……では、なにが望みだ」
「結婚生活したいんだったら、意見も希望も話し合いなって言ってんのよ。ほら、膝つき合わせて妥協点決めるわよ」
「おい、こら、引っ張るな!」
なにもかも強引な女だった。その裏で、鶫以外の人間に価値を見いだせなかった俺にとって、他人と触れあうことの意味を教えてくれたのもまた、彼女だった。
彼女との日々は我慢の連続で、最初の内は忍耐力を試されているのかと苛立っていたような気がする。
やがて罵倒は喧嘩になり。
やがて喧嘩は言い合いになり。
やがて言い合いは話し合いになり。
やがて話し合いはじゃれ合いになった。
「ほら、玲貴、見なさい。私たちの赤ちゃんよ」
「しわしわだ……君に似たんじゃないか?」
「ふふ。私と玲貴に似たのよ」
「――ああ……千鶴」
「なに?」
「その、なんだ……ありがとう」
「どういたしまして」
幸せだった。もう二度と、幸福なんて訪れないと思い込んでいたから、千鶴との日々はなによりも幸福だった。
だが、この世にもし運命の神がいるとすれば、俺は神を憎む。
「ごめん、玲貴。もう、長くないってわかるんだ」
「らしくないぞ、千鶴。大枚はたいて高名な医者を雇った。俺の財力は知ってるだろう。直ぐに良くなる。直ぐに、直ぐに、直ぐにだ!」
「玲貴――あんまり、自分を追い詰めないで。繋は、あんたにしか任せられないんだからさ。笑って、見送って?」
「くそっ――くそっ、何故だ。なんで、こんな。千鶴を、不幸にすることしか、できないのか?」
「大丈夫、大丈夫だから――私は幸せよ、玲貴」
やがて、千鶴は幼い繋と俺を遺して旅立った。これから、あと何年あるかもわからない人生の、こんな早くに、千鶴を喪った。では、繋を立派に育てれば、いつか俺にも、答えが見つかるのか。
千鶴が望むように、笑顔で彼女を見送ることすらできなかった。鶫の望みもわからず、彼女を傷つけたまま別れてしまったときのように。
だが、いつか、なんて悠長なことすらも許されなかった。
「ごほっ、ごほっ……これ、は」
俺も、千鶴と同様に、いずれ死ぬ病にかかった。延命しようと思えば、多少は効くかも知れない。ただそうするには、時間の大半を治療に使わなくてはならない。これからの人生を闘病生活で終える?
なにも、成せてはいないのに。
「鶫……千鶴……俺は、俺は――」
赦しが、欲しかった。
誰の期待にも応えられず、むざむざと二人を死なせた。
だから、赦しが――ああ、一度だけで良い。話がしたかった。
「とうさん、みて。こうすると……かあさんに、にてるよ!」
だから。
俺を元気づけようと、黒髪のウィッグを被った繋に。
「なぁ、繋。父さんのために――父さんの言う演技を、してくれるか?」
魔が、差し込んだのだ。
「鶫、鶫によく似ている。ああいや、鶫の造型はこれで正しいのか?」
写真と映像を忠実に、蝋人形を発注した。
部屋に見本として置いた蝋人形は、いつしか、鶫そのもののように見えた。
「鶫の幼少期の経歴が出てこない。父親の死因は、自殺? その当時の様子は――警察に、金を握らせよう」
鶫の経歴のすべてを洗い出すために、悪事を働く警察官に資金援助を行った。鶫以外の人間なんて、どうでもいい。なんだっていい。どうにでも、なればいい。
繋に鶫を演じさせた。幸い、繋には演技の才能があった。だから少しずつ植え付けた。鶫の口調を、行動を、思考を、記憶を、声を、所作を、振る舞いを、言葉を。
繋に鶫を繋げるんだ。そうすれば、もう一度、鶫と話すことができる。鶫を復活させられる。鶫と目を合わせてあの日のことを謝って鶫と鶫と鶫と鶫と鶫と――
銀の少女が、俺に近づく。
何故だろう。その姿に重なったのは、鶫ではなく。
『ふふ……私は、幸せよ――“玲貴”』
白いベッド。
シーツにくるまれた。
痩せこけた頬。
自慢の黒髪はそげ落ち。
それでも優しく笑った。
「俺、は」
赤い花。
椿の花。
何故、これが、鶫の好きだった花だと思った?
馬鹿馬鹿しい。鶫は腹の足しにならない花などに、さほど興味を示さなかった。
「千鶴」
赤い花を窓辺に飾って、微笑む彼女の姿が、浮かび上がる。
『椿の花。大好きな姉と、同じ名前の花なんだよ』
これは、君の好きな花だったな。
――千鶴。
「父さん」
俺を呼ぶ声。
大歓声の舞台に耐えきれず、舞台袖に入ったところで、繋に呼び止められた。繋は胡乱げに振り返る俺の前で、黒髪のウィッグをむしりとり、放り捨てる。そのまっすぐな瞳は――間違いない。鶫ではなく、千鶴のものだ。
「おれはもう、誰かのフリはしない。父さんの息子の、四条繋として振る舞うよ」
今更。今更、俺に、父親を名乗る資格があるのか? 千鶴の忘れ形見を傷つけてきた俺に、繋の父親として振る舞うことができるのか?
答えなんか、わかりきっている。俺はいつだって、俺を中心に生きてきた。これ以上、繋を傷つけずに生きていくことなど、できるはずがない。
「俺はおまえを息子などと思ったことは一度も無い」
「ッ」
「どこへなりとも消えろ」
蝋人形を片付け、ああ、そうだ、あのスタジオも処分しよう。もう必要ない。あとは高飛びでも何でもしたことにして、どこかで一人消えていこう。どうせ俺は、鶫と千鶴の元へはいけないんだ。彼女たちのいる光の世界には、逝くことなどできはしない。
「父さん。それでもおれは、父さんの息子だ!」
追いすがる繋を振り切って、メッセージで呼び出した車に乗り込む。どうせオーディションの結末なんてわかりきっている。あの場に、あの少女以上の演者なんて、いなかった。
バックミラーで、声を上げる繋を見る。彼に寄り添うように駆け寄った少女は――逃げるな、と、俺に、まっすぐな瞳を投げかけていた。
「なんだ。アレの方がよほど、鶫に似ているじゃないか……クク」
もしも。
もしも、千鶴が生きていたら。
繋に寄り添う彼女の姿に、喜んでくれたの、だろうか。
夕暮れ。
朱色の太陽が沈もうとする中、不意に違和感を覚える。
最近雇った無口な運転手。余計な口は叩かず、仕事に忠実な男。
「おい。自宅に向かえ」
「……」
「聞いているのか? おい!」
返答はない。ないまま車は走り、やがて、大井埠頭のコンテナ前に車が停められる。暗がりで人気はなく、しんと静まりかえった場所。
「なんのつもりだ」
「……」
無言のまま、自動で扉が開けられる。降りろ、ということか。
「貴様――なんとか言ったらどうだ。聞いているのか? 眞壁二郎!」
「……」
「チッ」
仕方なく車を降りると、直ぐに扉が閉まる。つくづく不愉快だ。
「――遅かったですね。四条玲貴」
「その声――辻口諭! 貴様、なんのつもりだ」
コンテナの影から出てきた人影。杖をついた総白髪の男、辻口諭。辻口に寄り添うように立つ大男は――天岡、露炉亜。繋のスタイリストとして雇った男。
「少々準備に時間がかかってしまいましたが、まぁ良いでしょう」
「準備、だと?」
「僕は僕の担当俳優がなんの差し障りも無く活動できる環境を整える。この理念を曲げたことなど、一度もありません」
……そうか、そういうことか。桐王鶫のマネージャーを侮っていたのは、俺の方だったということか。鶫を支えたこの男が、一筋縄でいくはずなんかなかった、と。
俺はつくづく浅はかだ。
「ねぇ、四条。アンタ、やり直す気は無いの?」
「やり直す? ははは! そうだな、再起を図るも面白そうだ。なぁ、天岡」
「そうじゃなくて、父親としてよ!」
「くどい。俺は俺の意思でしか動きはしない。だいいち、こんなところに連れ込んでどうする気だ? 断罪でもしたいのか?」
糾弾か? それもいい。あとはひっそりと消えていくだけだ。後始末だけはして、この世から立ち去るだけだ。最後に糾弾させてやるのも一興か。
腐っても役者だ。内心など、こいつらには見せてやらない。せいぜい自慰行為のように、巨悪たる俺を弾劾すれば良い。もう、どうでもいい。
「まぁ、僕たちがここにいるのは時間稼ぎにすぎませんので、そこはどうでもいいです」
「ちょっと諭、ぶっちゃけすぎじゃない?」
は?
時間、稼ぎ?
(なにか、警察に突き出す証拠でも見つけたか?)
いや、だが、家には荒らされた痕跡は無かった。留守の最中に侵入があれば、俺のスマートフォンに監視カメラの映像が転送されるが、それもない。一番厳重に保管してある“千鶴の携帯電話”に辿り着くことすらできないだろう。
煙のように、消えでもしない限り。
「――なるほど。確かに良い演技ね」
かつ、かつ、かつ、と、靴音が聞こえる。コンテナに背を預けて、スマートフォンを覗き込む影。声を上げるまで、存在すら気がつかなかった。それほどまでに自然に溶け込む演技を可能とする、女の声。
その声を、俺は、知っている。
「良いわ。アリシア、あなたはそのままエマと合流しなさい」
『――』
「ええ、わかったわ」
ハンズフリー通話を終え、スマートフォンをしまう女性。やがて影から姿を現すと、あの頃とほとんど変わらない顔立ちに、喉の奥が引きつった。
「久しぶりね、玲貴」
ボブヘアの黒髪。
光の角度によっては黄金にも見える奇妙な目。
中高生を思わせる低身長と、高く見積もっても二十代半ばにしか見えない容姿。
「閏宇……貴様、何故」
閏宇。本名を、閏井美宇。
桐王鶫の唯一無二の親友が、不敵な笑みを携え立ち塞がる。
「諭に泣きつかれてね。こうしてあんたの顔を見に来てあげたのよ。喜びなさい」
「黙れ」
「あら、冷たいじゃない。――私の親友の死を穢しておいて」
「ぐっ」
言葉のタイミング。
視線の投げ方。
声の張り。
(役者業を引退した? 冗談を言うな)
他人を圧倒する演技において、この女を上回る人間など、それこそ鶫くらいだった。
それが監督業に成り代わった今もなお磨かれているなど、どうして信じられようか。
「さっさと渡米した女が、ずいぶんな言い様だな」
「足踏みしかできなかった男は、言うことが違うわね」
「なにを」
閏宇は大きくため息をつき、靴音を鳴らして近づいてくる。俺より頭二つ半は小さな体躯。夜に溶け込む真っ黒なライダースーツ。小さいはずの彼女は、妙に、大きく見えた。
「良い機会だから言ってあげる」
閏宇は俺の胸ぐらを掴むと、その小柄さからは信じられないほどの怪力で、俺を引き寄せた。
「私は鶫の親友として、私と鶫の夢を叶え続けてきたわ。夢に逃げるあんたと一緒にしないでちょうだい。鶫の一番の理解者はこの私よ」
「ずいぶんな、ぐ、自信じゃないか……ッ」
「胸の一つも張れなくて、何が親友か。今のあんたを鶫が見たら、なんて言うと思う?」
言われて、自嘲する。鶫の親友などではなかった俺でも、それくらいはわかる。
「――許さない、か。くく、鶫のことだ。子供を傷つけた俺を、赦しはしないだろうさ」
「違うわ」
「は?」
金の目。
夜の月。
鶫の対。
「“わかってなさそうだから、一発思い知らせてやろうかな”、が、正解よ」
――それは、なんて、鶫らしい。
ああ、いや、そういうところはよく似ていた。千鶴も、そうだった。鶫が、千鶴がなんて言うかではない。彼女たちに決めて貰うのではない。
(だから、この女は苦手なんだ)
俺が、俺自身で考えて、答えを出さねば意味は無い。
そのための切っ掛けは、与えてやるから、と。
「本当は殴り込んでから引きずり回しても良かったんだけどね。証拠も降ってわいたことだし、選ばせてあげるわ」
「なに、を」
「犯罪者への資金援助の証拠。虐待の証拠。あんたのやってきたことは、直ぐに白日に晒される」
証拠、が、何故。
「何故……そこに、あるんだ?」
「さぁ。消えたんじゃない? あなたの家から、煙のように」
「何を、言って……いいや。では警察に突き出せば良い。何を選ばせる気だ」
閏宇は、紙束を俺に放り投げる。証拠のデータを印刷した物だろう。データは消去したはずだが……復元されたか。いや、だとしても、いつのまに? あのモニタールームには、誰も入っていなかったはずなのに。
「自主的に入院して病状を回復させてから出頭するか、強制的に入院させられて逮捕されるか。あんたが間接的に傷つけた子供たちへの償いはしなさい。あんたの資金援助がなければ、もっと早期に解決していたはずよ。苦しんだ子供たちへ、贖いなさい。でも――自暴自棄に振る舞って、自分の息子から父親を奪うことも、許さない」
許さないから、なんなのか。そう口にすることはできなかった。
この女は、やるといったらやる。落ち目の四条なんかよりも、自分の腕だけで稼いでいるこの女の方が、財力すら上回っているのだから。
「選択肢など、ないではないか」
「はっ――当たり前でしょ。それでもあんたは鶫の友達だったから、私がぶん殴るのは勘弁してあげる。それは、あんたの息子にとっておかなきゃならないから」
そうか――そうか、死ぬことすらも、許してはくれないか。
千鶴、鶫、俺は……俺は、生きて、償わなければならないのだな。
(この年になって、思い知らされるとは、な)
自分で決めて。
俺が俺の意思で償わせてもらえるというのなら。
(俺は――)
見上げた空は、夕暮れから瑠璃色に移り変わろうとしていた。
星々の瞬きの中、『しょうがないな』と苦笑する、千鶴の姿が浮かんだような、そんな夢を見た。
夢は、終わりだ。
もう――終わったんだ。




