scene9
――9――
『六月二十日 雨
まだまだ入院が長引きそうだから、日記をつけることにする。
とはいえ、せっかく玲貴が買ってくれた日記帳は、おしゃれすぎて使いづらい。
携帯電話のメモ帳の方が楽だから、日記帳は観賞用にしよう』
『六月二十一日 雨
窓の外の景色が変わらなくて暇だと玲貴に言ったら、
散々皮肉ったあとに花を買ってきてくれた。
私の好きな椿の花だ。本当に、素直じゃない』
『六月二十二日 曇り
やっと雨は上がったけど、天気は不安定だ。
玲貴が花を持ってきてくれていなかったら、心が折れていた。
出逢った頃からそうだけど、玲貴は素直じゃない。
独裁者か! ってくらい横暴なくせに、本当は、人肌が恋しい。
なんて、言ったら怒るんだろうなぁ』
『六月二十三日 雨
今日も玲貴は花を買ってきてくれた。
ちゃんと息子の世話をしているんだろうね?
と、問い詰めたら、「見くびるなよ」なんて。
玲貴は誤解されやすい。
九割九分九厘は玲貴の自業自得だけど、理解されにくいところはある。
だけど、玲貴だって人間だ。魔王でも悪魔でも神様でもない。
せめて、私たち家族だけでも、ちゃんと面倒を見てやらないと』
『六月三十日 雨
数日、意識を失っていたらしい。
玲貴が泣くところなんて初めて見た、と言ったら怒られた。
それから、繋とも少しだけ二人で話をした。
私と玲貴は、玲貴の身勝手な理由で知り合った。
でも今は、玲貴は私を愛してくれているし、私も玲貴を愛してる。
人生、何があるかなんてわからない』
『七月三日 雨
最初、玲貴は子供の名前は“鶫”にしようとのたまったから、
思い切り、頭をひっぱたいてやった。不服そうだったけどね。
でも、玲貴はいつものように折れてくれて、私の思うようにしてくれた。
繋。
誰かと繋がれる子であって欲しい。
誰かに繋げる子であって欲しい。
誰かとの繋がりで、幸福になって欲しい。
私たちの祈りで生まれた、私と玲貴の愛の結晶。
私たちの、宝物。
なんとなく、退院は難しいんじゃないかなって、思わないでもない。
悔しいけどね。
でも、だから、繋がこの日記を見つけてくれることを祈って、
一つだけ、玲貴の妻として繋にアドバイス。
玲貴は抜けているから、暴走しちゃうこともある。
でも、あいつは繋と何にも変わらない、ただの人間だから。
聞く耳持たなかったら、ひっぱたいてやんなさい』
携帯電話を閉じる。私の知らない玲貴の姿。私が生まれ変わったこの身体、ツナギという少年の、お母さんの日記。私には、関係ない人間の、はずなのに。
「ツナギ……あなたが、泣いているの?」
窓ガラスに映る私の頬から、一筋の涙が流れ落ちる。私は……私は、鶫。桐王鶫。一九七〇年七月二十七日生まれ。血液型はB型で、享年三十歳。死んだ当時の身長体重は百六十三センチ四十七キロ。
父の名前は桐王嗣。母の名前は菫。父は幼少期に家を出て、一酸化炭素中毒により死亡。第一発見者は私だった。そのときの父の表情は――表情、は?
そもそも、幼少期の思い出が、どこか曖昧だ。私は、私は、本当に、桐王鶫なの? いいや、桐王鶫のはずだ。だって、私にはまだやらなければならないことが、演技によって、ハリウッドに立って、それから。
(それから――それから、なん、だったか)
自分が揺れる。
自己が揺れる。
ねぇ、つぐみちゃん。
ツナギの記憶からかき消えている、ツナギの友達。
あなたなら、なにか、わかるのかな?
オーディション当日を迎え、観客席にはさくらちゃんの姿もあった。ひらひらと手を振ってくれる彼女に、精一杯のツナギの演技で振り返す。
玲貴との久々の演技も、滞りなくやれた、と、思う。スイッチさえ切り替わってしまえば、あとは、いつものように没入して演技をするだけだから。
「さすがだよ、鶫。やはり君は天才だ」
「玲貴――私は」
「ん? 何か、気がかりでもあったか? ――ああ。完璧主義の君のことだ。大方、まだやれたとでも言いたいのだろう? だが安心してくれ。どうせ、君以上の演者などいない。辻口にも見せてやりたかったが、こんなときに風邪とは間の悪い男だ」
玲貴の言葉に曖昧に頷くと、不意に、視線を感じた。舞台袖。暗がりの向こう。賑わうスタッフさんたちの中でまっすぐ私を見つめる、白銀の少女。
「ぁ」
空星つぐみ。
あの日、私を見抜いたただ一人の少女。
「ツナギ」
「つぐみ、よね? がんばって」
「うん。だから、みてて」
「え、ええ。もちろん」
強い言葉。揺るがない意思の言葉。突然消えたり出現したりするマネージャーにびっくりしすぎたおかげで、玲貴に気がつかれなかったけれど、確かに私は今、彼女の瞳に見入っていた。
「さ、ツナギ様。こちらに席がご用意してあります」
「え、ええ、ありがとう???」
お礼を言って、つぐみのマネージャーさんに促されるまま最前列へ。そうすると、最前列通路側の席で、虹が、空席の隣で私を迎え入れてくれた。
「よ、ツナギ」
「うん。久しぶり、虹」
「わたしもいるよ!」
「あはは、凛も。久しぶり」
虹の向こうからひょっこりと顔を出した凛。彼女にも手を振っておく。そのさらに向こうでは、大人になってさらに綺麗になったさくらちゃん、ずいぶんと老け込んでしまった見城さん、渋くて格好良くなった柿沼さんが続く。さらにその向こうでにんまりと笑っているのが、監督のエマさんだ。
虹はなんだかそわそわと準備中の舞台を見ていて、そのさらに向こう側のさくらちゃんと見城さんの会話が私の耳に届いてくる。
「いや、つぐみちゃんは可哀想でしょう、これ。あのツナギちゃんの演技のあとじゃ、大半のことは霞んじゃうよ」
「あら、見城さんはつぐみちゃんをご存知ないのですか?」
「『妖精の匣』は見てるよ、そりゃあ。それに、トッキーもすごかった。あと五年経ってたらもっと正当に評価されて、国内外から引っ張りだこだろうさ。でも今日ばっかりは、状況が悪い」
状況が悪い、と言われたら、申し訳ない気持ちになる。私のせいだよね、それ。つぐみは大丈夫かな? なんだか、心配になってきた。
「ふふ、きっと、あの子はとんでもないことをしてくれますよ、見城さん」
「へぁ?」
「それに私も、少しだけ、“フェア”になる協力は致しましたから」
「協力? 観客の割合を、鴨浜関係者のみの構成から、ウィンターバードや閏宇さんの関係者の混成になるように手配したこと? そんなに関係あるかなぁ」
「出資者に気を遣わなければならない人間ばかりでない、というだけで、変わる物ですよ」
ん? いや、そんな不公平な構成は許すつもりは無いけれど、私の耳に入る前に公平になっていた、ということなのかな。初耳だ。
「ツナギ」
「え、へ? な、なに、どうしたの? 虹」
「始まるぞ」
「あ、うん」
虹に言われて舞台を見る。ベンチの上に腰掛ける玲貴。私の時と変わらない態度だ。同じような演技でも頼まれたのだろうか? ……さすがに、それは、不利だと思うのだけれど。
『それでは本日最後の公演です。その演技はまさしく百変化。新星子役、空星つぐみ! さぁ、開幕だ!』
エマさんの気取った声と同時に、つぐみが舞台袖から現れる。まず、玲貴の台詞から始まるこの舞台は、スタートのタイミングを自分で決めづらい。事前に打ち合わせをしたのか、していないのか。第一声が放たれる瞬間を、私はただ、固唾を飲んで見守ることしかできない。
お願い。
あなたの演技を、見せて。
つぐみ。
「また来たのか」
玲貴の台詞が告げられる。
玲貴の方に視線をやり、戻したときには既に、つぐみは玲貴の側に居た。
「あ、あれ?」
「見えなかったのか、ツナギ。つぐみが重心を変えずに、移動したんだよ」
滑るような移動。気配が消えるわけではないから、近づいていくことはわかる。観客も喜んでいる気配が伝わる。でも、これ――俯く玲貴は、つぐみの奇妙な移動方法に、気がついていない。
これは、なんの布石? なんの伏線? なにを、演じようとしているの? 交互に台詞を言う構造である以上、つぐみの言葉が無ければ次には進めない。ただ台詞を待つ玲貴は、気がついているのだろうか。
「なん、で、そんな顔――?」
眉を下げ、肩を落とし……寂しげに微笑む、つぐみの表情に。
「だめ?」
違う。この次の台詞は、「うん、だめ?」だ。言い換え? でも、それにしては、違和感が残る。ここにいたい、というフレーズもない。ない、けど、意味は通じる。
「友達はいないのか? 知人でもない大人の男といたら、親が心配するぞ」
そして、なんとなしに応えたであろう玲貴の言葉で、違和感は形になった。繰り返された台本に忠実な台詞を言うことで、玲貴から引き出す言葉を操る。ほんの僅かに眉を上げた玲貴も、気がついただろう。
「つぐみのやつ、やりやがった」
「兄もわかるか。うん。さすがつぐみ。すごいどきょーだ」
台詞を一部、丸々飛ばしたんだ。
つぐみは玲貴に手を伸ばす。けれど小さく首を振り、玲貴に向き直る。何を意味しているんだろう? なにを、玲貴に求めて、諦めたのかな。
「あなたの方が良い」
言葉を句切り、玲貴を見る。玲貴はただこれまでの流れに忠実に、つぐみに視線を向けた。本を閉じて、顔を向ける、最初に玲貴が反応するシーンに忠実に。
「友達よりも」
不意につぐみが、僅かに目を見張り、それからゆっくりと舞台の方に視線を向ける。釣られて玲貴も舞台に視線を向けると、つぐみは少しだけ、玲貴から距離を離していた。
人間、見ていても意識を向けていなければ、像を捉える以上の意識を割くのは難しい。確かにつぐみの姿は視界に入っていたはずなのに、つぐみは、玲貴からもう一歩離れた位置に瞬間移動していた。
わかりやすい視線移動。身体の動き。玲貴と観客をも巻き込んだ、視線誘導……!
「家族よりも――あなたがいい」
今度は、目で見ているまま、玲貴に近づくつぐみ。私たち観客側から見れば、ただ近づいているようにしか見えない。でも違う。頭の高さが変わらなかった。予備動作のない動きは緩急を忘れさせる。
玲貴の目から見たつぐみは、どう動いていた? それこそ、瞬間移動させられたように見えたのでは無いか?
肌がぞわぞわと粟立つ。
ここにきて、ようやく気がついた。
この劇は、私たちの演じた物と、違う!
「そ、んなこと、君の家族は、許してはくれないぞ!」
本来「お父さんとお母さん」というはずの台詞を、つぐみは“家族”と言い換えた。意味は変わっていないのだから、言い換えの範疇だろう。大きな改変をしたわけでもない。
玲貴もまたそれに合わせて、家族と言い換えた。でも、だからどうなるの? なにか、関係がある?
「許さなくても良いよ。あなたが許してくれたらそれでいい」
つぐみはさらに一歩近づく。玲貴の頬に両手を添えて、優しく微笑み――でも、一筋だけ、涙を流した。玲貴の視線が揺れる。上げようとした手を、戻し、また上げようとする彼の行動には、戸惑いがあった、ように、見えた。
「わかって」
一言だけ告げられる言葉。玲貴の台詞の前に言われたことで、また、順番が崩れる。
「私は、あなたが好き。家族とも友達とも違うの」
どこに、どこに軌道を修正する?
微笑む彼女に、涙を流す彼女に。
「わからないな」
手を振り払う玲貴の行動に、完璧に合わせて離れる手。まるで、すり抜けてしまったよう。
「わからない。それで?」
「ッ俺は、俺は、つまらない男だ。君のような――」
「私のような、なに? 私らしさって、なに?」
「――屁理屈か? っぁ」
玲貴は台詞を告げてから、つぐみの台詞に気がついたのだろう。怒りか、困惑か。今つぐみが言ったのは、玲貴が言うはずの台詞の改変だ。続いた言葉もかぶせられ、玲貴は、動揺している。動揺、してるんだ。
動揺なんてするはずないヒトなのに。
「そうか――力関係が逆なんだ。さっきまでは“少女”が言い募って、“男性”があしらう男性主体の演技だ。でも、ツナギ、わかるか?」
「わかるか、って……? まさか」
「そうだ。追い詰められているのは“男性”だ。“役割”が、入れ替わってやがる!」
当たり前の人間のように動揺する玲貴。
当たり前の男性のように困惑する玲貴。
玲貴も、また、“―――”と変わらない、ただの――。
「そんなよくわかんないものよりも、私は、あなたがいい」
静かに告げられた言葉は、静まりかえるホールに響く。抑揚を抑制することで“静かさ”を演出しただけで、声量そのものはあったから、“静かなのに響く”という奇妙な感覚を覚えた。
現実味がない。
夢と現の境界が、ぐらぐらとぶれてゆく。
「不幸に、なるぞ」
「ええ。だめ?」
「好きにすれば良い」
不幸への肯定。
認め合うという演出は、男性が折れるだけであった台本にはなかった演出だ。
繰り返しの舞台。三番目という飽きの出始める状況。だからこそ、観客は聞き慣れた台詞の羅列がねじれていくことに、現実味を失っていく。
夢を、見ているみたいだ。
「ふふ――今日は、ね?」
つぐみは、赤い花を取り出す。どこから? と思えば、玲貴の背中側からだ。い、いつの間にそんなところに隠していたんだろ……う、って、最初の視線誘導のとき! あのときに、ベンチと玲貴の背に挟んだのか。玲貴も、気がついていても反応できない。台本にない台詞を、他ならぬ玲貴が言うわけにはいかないから!
「花……」
でも、ここまでのやりとりでその存在を忘れていたのだろう。急に出現したかのように取り出された花に、玲貴は、条件反射で声を上げてしまう。
「あげる」
「わか、った。わかった。受け取るよ。これで良いな?」
「ふふ、ありがとう」
もう使ってしまった台本の一文。「そうか。それで?」というパーツを、玲貴の行動を誘導したことで補填した。重複はせず、言い換えや適度な改変のみ。ルールに忠実に、盤上をひっくり返すような行動。
(どこまで、計算されているの……?)
その結末が、知りたい。
「もう用はないな? なら――」
「自分に構っていないで、遊んできたらどうだ? かな」
「――はぁ。いつか、それが夢だとわかる。目が覚めるまでなら、ここにいてもいい」
まるで、玲貴が拗ねて受け入れたようだ。そんな玲貴の子供っぽい反応に、周囲からもくすくすと笑い声が零れる。なんだろう。不思議だな。こんな光景を見たことがあるような、そんな気がする。
拗ねる玲貴と、からかう■■■の、まばゆい日々。
胸の奥が、ぼんやりと温かくなる。意識の奥底で灰に埋もれた燠火に、風が吹き込むような。
「いつか覚める夢だとしても、夢を見るのも、叶えるのも自由でしょ?」
「目なんか、覚めるものか」
目は覚めるとつぐみが肯定してしまったから、玲貴は、否定する方に回るしかない。言わされているような状況。なのに、玲貴はどこか諦めたような表情で――いや、違う。没入している。玲貴もまたこの劇の登場人物として完璧に振る舞うように、引きずり込まれている。
玲貴が伸ばした手が、つぐみと交わらない。確かに伸ばし合った手なのに、つぐみの手はするりとすり抜けた。
「覚めるよ。だからそれまで、ここにいたい」
「――ああ」
「ふふ……私は、幸せよ――“――”」
最後の言葉は、なんと言ったのかな。なにかを呟くように口を動かして、玲貴の横をすり抜けて、消えていく。あとに残ったのは、真っ赤な花だけ。
母さんの好きだった、椿の花を見つめる父さんの姿。
知ってる。知ってるよ、つぐみ。母さんを失ったとき、確かに父さんは、ああしてただ呆然と椿の花を握りしめていたんだ。
「ツナギ、ほら、ハンカチ」
「うん――ありがとう、虹」
虹は、父さんを見て、どう思ったのかな。
私のそんな気持ちが通じたわけではないのだろう。ただ、抱えきれなかった感情を零してしまったかのように、虹はただ、呆然と呟いた。
「年の差の恋愛っていうからさ、オレは、つぐみはてっきり子供として熱愛するのかと思ってた。でも、あれは違う。きっとあの少女は、止まった人間なんだ」
「止まった、人間」
「つぐみは、最初から最後の最後まで――“少女”を“死者”として演じていたのさ。家族って言い換えたのもそれだ。遺された家族、と、気がつかせたかったんだろ。幅を無理矢理広げやがった。ふん……それでこそ、オレのライバルだよ」
死者?
死んだ人間として、演じていた。
つぐみは。
(母さんを、演じていた……?)
ひび割れていく。
父さんは狂人でも、超人でもない。恐ろしい怪物でも無ければ、なんでもできる神様でもない。ただの、人間だったんだ。母さんの言ったとおり、ただの、人間だったんだ。
「は、はは。ばかみたいだ。もっとはやく、ぅ、ぁ、気がつけば、っ、よかった」
ハンカチを握りしめる。あとから、あとからと、溢れていく涙が止まらない。止めようとしても、止まることはない。
私は――ううん。おれは、四条繋だ。
大好きな母さんと父さんの間に生まれた、彼らの息子だ。
意識の奥、灰にまみれた心の燠火が燃え上がる。つぐみのような、優しくて力強い不死鳥が、おれの中で産声を上げた。
もう、惑わない。
おれは――父さんと、戦うよ。
おれの人生を始めるために。
母さんの遺志を、繋げるために。




