scene3
――3――
明るい白色の蛍光灯に照らされた真っ白な部屋で、少女と女性が本を手に取り向き合う。“彼女”の名前のせいだろうか? それとも、倉本君からよく聞いていた、彼女のあの言葉のせいだろうか?
私は、その光景に思わず昔のことをフラッシュバックした。
平成元年が過ぎ、幾ばくかの頃、私は当時名が売れ始めていた一人の女性に出会った。数々の恐怖映画に出演し、特殊メイクの裏で卓越した演技を行う彼女は、その素顔をベールの下に隠し、すっぴんで街に出ても気がつかれないのだと笑っていた。
そんな彼女と私が出会ったのは、後の、彼女の転機とも言える作品だ。映画のタイトルは確か、“悪果の淵”。前半は美しい少女に心惹かれていく女性の、禁断の恋。後半は、悪漢に暴行され殺された美しい少女を追い、悪霊に成り果て、悪漢に復讐する女の物語。主人公は、暴行を行った一人の双子の弟で、事故死した彼に間違われて襲われる。私はそんな彼を助ける兄貴分として出演した。
それまでは、“恐怖演出の巧い女優”でしかなかった彼女が、少女と見せた禁断の恋の様子に、私を含めて人々を驚愕させた。恐怖演出以外は、なるほど荒削りだ。けれど、こうまで観客の心を釘付けにする演技が出来るのか、と。
(君にはまだ未来があった。君との未来を夢見た、若い私も居た。いつも君は、人を驚かせて――早く、走りすぎるんだ)
共に赤坂見附の弁慶橋で、夢を語り合ったワンカップを、忘れたことはない。なんだかんだと繋がりが出来て、魂をぶつけあった彼女を、忘れられたことはない。
「シーン――」
彼女とは、似ても似つかない少女を見る。銀髪に青い眼という異国情緒溢れる色合いでありながら、顔立ちはどこか親しみがある。それ故に神秘的であり、妖精のような、という形容詞がよく似合うことだろう。
名前は、彼女と同じだ。けれど、それ以外のなにもかもが違う。当たり前だ。当たり前だが――なにか、覚えのある空気を、肌が捉えた気がした。
「――スタート」
水城役の相川君が、きょろきょろと周囲を見回す。道に迷う演技だが、彼女もそろそろ芸歴二十年に近づこうとしているだけあって、本読みの場であっても堂々とした仕草だ。
「困ったな」
腕時計を見る仕草。観客に伝える、時間があまりない、というメッセージ。
「初日から遅刻なんて、先生になんてご報告したらいいのよ、もぅ」
そうして迷う彼女に、一人の少女が近づく。実際には性別のわからない格好をさせ、中性的なイメージのために一人称を変えるという少女も、この場では愛くるしく可憐な女の子にしか見えない。
そう、見えない、はずなのだ。
「せんせ。道に迷ったの?」
落ち着いたブレス。普段の彼女の声よりも、ワントーン低いボーイソプラノ。子供特有の舌っ足らずさがわかりにくいように、トーンと語調で調整している?
その声色と仕草、そして、さっとまとめた髪は、少女らしさを軽減させていた。
「え、ええ。あなたは、ここの生徒?」
「校舎はあっち。職員室は一階を歩けばわかるよ」
「あ、あの?」
「でも、気をつけて」
一歩。膝を曲げて、頭の位置を変えずにすり足で動く。体重移動が完璧に調整されたその動きは、見るものに“まるで浮いているかのような”印象を植え付ける。
――“彼女”が得意としていた、技法。
いいや、と、頭を振る。そんなはずはない。だいいち彼女は、よくいっても才能三割努力七割。血の滲む訓練をやってのけ、化け物じみた精神力で乗り越えてきた努力型の人間だった。けれどあの少女は、超人じみた才能を卓越したセンスで扱いきるタイプの、天才型の人間だろう。
そんな体に彼女の技法など、恐ろしい事態ではないはずだ。大方、彼女の映画を見たことがあり練習でもしていたのか、そもそも武道でも習わされているのだろう。
「っ」
「あそこは魔くつ。悪霊のすみか」
「……え?」
「気を抜くと、こわーいおばけに食べられちゃうから」
視線を外す相川君。君の視点だと、すぐに戻したはずの視界から、突然、少女が消えたように見えることだろう。視界を外した一瞬を察知して、音もなく死角に回り込んでいたのだから。
まったく、信じがたい。度し難いよ。彼女と少女を重ねるなんて。少なくとも彼女は、才能あふれた人間とは言い難かったというのに。
「……驚きましたね」
シーンが終わり、監督と講評する二人を眺めながら、月城君はそうつぶやいた。
「最近の子役は、あんなにデキるものなのでしょうか?」
「さて。夜旗君の御子息は、青さはあるが素晴らしい演技だったよ」
「彼は十三歳でしょう? 彼女がその年の頃にはどうなるのか、空恐ろしいですよ」
「どうかな? 今は神童でも、そのころには秀才かもしれない」
「二十歳すぎればただの人、ですか?」
「はは、そうかもね」
言いながらも、月城君の眼からは情熱が消えていない。彼は演技の上では氷のよう、プライベートでは花のよう、本性は炎のよう、という三面性の人間だ。誰よりも貪欲に役者の頂点を目指す彼にとって、彼女と同じ名を持つ少女は、肩を並べる資格があると判断したのだろう。
ああ、でも、それは私にとっても同じだ。このくらいの子供だと、やはり共に演技をする上で、扱いに困ることもある。かつての“さくら”は別格だとしても。
けれど、あの少女ならば、少なくとも演技という枠で不満を持つ機会は少なそうだ。箱入りのようだから、体力は心配だけれどね。
どうしてだろう。なぜ、こんなにも熱くなっているのだろう。こんなことは、いつぶりだったか。ああ、そうだ、久々に彼女の名を聞いて、あの日のことを思い出したから、だろうか。
『君には、将来の夢はあるのか?』
『そういう柿沼さんにはあるんですか?』
『質問に質問で返すな。……当然、役者の頂点に立つことさ』
『なら、私の夢と共存できそうですね』
『共存?』
『ええ! なにせ私の夢は、ハリウッドで人々を恐怖の渦にたたき落とすことですから!』
『は、はははははっ! なんだそれは! ああ、なるほど、いいだろう。その時は僕が、君の恐怖映画に出演して、主演男優賞をもぎ取ってやろう』
『いいですね! 約束ですよ、柿沼さん!』
きっと君は、死後の世界でも人々を驚かせているのだろう。そんな彼女が私を見たら、彼女はなんというだろうか。きっと、不甲斐なさにため息をついて、それから、全力で驚かせに来るだろう。彼女の悪霊演技にうなされたことすらあったのだから。
君ほど真摯で、君ほど情熱的で、君ほどおそろしい悪霊を、私は知らない。そんな君に愛想をつかされるような行動は、もうできないな。
『柿沼さん、出番ですよ』
挑戦的に笑う彼女を、まぶたの裏に焼きつける。どこかで物足りなさを感じていた役者人生だが、返り咲くのも面白い。
「かきぬまさん?」
「……――ああ、すまない。なんでもないよ」
次のシーンは、私と少女か。校長である絹片幸造が、柊リリィに声をかけるシーンだ。絹片は柊リリィが壊れる原因となった事件に間接的に関与していて、だからこそ罪悪感がある。教師としての正義感と校長の立場を失うことへの怯えと、少女に対する罪悪感に揺れ動く人物だ。だから、なにがあろうと黙認を貫く。正義の為に働きはしないが、悪の為に動きもしない。そういう人間だ。
このシーンでは、いじめを見とがめはしないが、見逃しもしない、という彼のスタンスが描かれる。
「では、行きましょう。シーン――」
相対するのは三人の少女。夜旗君のご息女と、子役選抜の中で主要人物ではないいじめ被害者の子と、少女……空星、つぐみ君。ボーイッシュでどこか人好きのする、神秘的な少女を演じ切った彼女が、どんな悪役を見せるのか、年甲斐もなく楽しみにしている自分がいた。
「――スタート」
平賀監督の声。彼の良く通る声が、私たちの意識を切り替える。目の前には、三人の少女たちがいた。その様子に、瞬時に、行われていることを察する。
「君たち、なにをしている?」
さて、この老骨にいかなる演技を見せてくれるのか。まだ、舌っ足らずな子供が、未就学児の子役が、いたずらっ子のようなさきほどの演技の直後で、何を見せてくれるのか。
そう、演技に半ば入り込めていなかった私をあざ笑うように、ガラス玉のような瞳が私を射抜いた。
「あそんでいたんです。ねぇ?」
「ひっ」
被害者の子が、びくりと肩を揺らして小さく唸る。素晴らしい演技だ。だが、あの子の実力ではない。異様な空気に飲み込まれて、演技をさせられている。
その、肝心かなめの少女は、挨拶に来た空星つぐみではない。柊リリィという、事故によって人格形成に問題が現れた、悪意の人格そのものだった。
「せんせい。わかりますでしょう? あそんでいたのです」
「あ、ああ。そうなのかね。だがもう今日は遅い。日が暮れる前に帰りなさい」
「はぁい。いこ、かえでちゃん」
「……うん」
夜旗君のご息女、凛の演じる秋生楓が、心配そうにリリィと私を見ながら頷いた。被害者の子をその場に残し、悠々と歩き去るその背が、くるりと振り返る。
「またあした」
笑顔。
けれど、虚無だ。
なにも楽しくはない。
なにも嬉しくはない。
ただ、壊して守るためだけに。
ただ、愛して奪うためだけに。
強烈なメッセージを、瞳に乗せてたたきつけた。
「カット。いいね、さすがです」
「……そうかな?」
「柿沼さん?」
「私はまだ、みんなに比べて温まりきっていなかったようだ。恥ずかしいよ。次からは、もっと出来ると思うよ」
「あれ以上、ですか? しかし、真に迫っていましたよ。その、戸惑いが伝わってくるようでした」
平賀監督の言葉に、目を見張る。ついで出てきたのは、忘れかけていた炎だった。私は、戸惑う演技などしているつもりはなかった。それでも周囲に伝わったというのであれば、間違いない。
演技を、させられたのだ。あの、小さな少女に。
「腑抜けていたみたいだな。くっくっくっ」
「か、柿沼さん?」
「ああ、いいや、なんでもないよ」
ただ、今は感謝をしよう。それから、君の墓前に謝らないとならないね。私はどうやら、まだまだ、君との約束を果たせていないようなのだから。