scene5
――5――
――四条邸・スタジオルーム。
トレーニングの合間。休憩の為に取った時間で、鶫さんの皮を被ったツナギが、席についてスポーツドリンクを口にする。マネージャー業に励むように見せる傍ら、ツナギの様子が気がかりで仕方がなかった。
ここのところ、日を追うごとに精度が上がっている。鶫さんとして、桐王鶫のような演技を磨き上げている。元からこうなるように育ててきた四条玲貴の妄執のなせる技なのか。いずれにせよ、あまり時間はない。
「――ねぇ、諭君」
「はい。いかがなさいましたか?」
一息吐くツナギが、改まって僕の名を呼ぶ。
「聞きたいことがあるんだけど、今、良い?」
「はい。問題ありません」
「ん。ありがと」
どこでこんなにデータを取っていたのか。鶫さんに、所作の一つでさえ近づいていく姿には寒気すら覚えた。
「あのつぐみっていう子、本当に、その、“ツナギ”と仲が良かったの?」
「ええ。そのように聞いています」
「そう、なんだ」
考え込むように首をかしげる仕草。それに違和感を覚えて、日頃は深入りしないようにしているが、つい、言葉を重ねてしまう。
「なにか、気になることでも?」
「うーん。夜旗虹、夜旗凛、諭君、ロロはともかく。この身体で知り合った人の情報は残っているんだけれど……あの子の、つぐみのことだけ思い出せないのよねぇ」
――なるほど。ふむ、なるほど。
「では、さほど重要でもなかったのでは?」
「うーん、やっぱりそういうことなのかなぁ。でもなぁ」
理由はわからない、わからないが、もしも自分だったらと置き換えてみると予想がつく。もしも僕の肉体で、僕ではない精神の人間が我が物顔で鶫さんと接しようなど耐えられるはずがない。
本当に大切だから、自分ではない自分が、彼女と触れ合おうとすることを許さなかった。それは、確かに残ったツナギという魂の抵抗。そして、その抵抗が生きているのであれば、まだ可能性はある。
(それでこそ、僕がマネージメントをすると決めた役者だ。ツナギ)
戦っているのは、我々だけではない。きっと、今この瞬間も、ツナギは自分自身と戦っているのだろう。なら、ますます、僕たちが退くわけには行かない。
「こういうときは、動くに限る! 続き、やってくるね」
「はい。ご無理はなさらず」
「あはは、ありがと」
トレーニングに戻るツナギの背を見送って、僕は僕の仕事に戻る。例のオーディションの観客は、ほとんどが四条玲貴の都合の良いように組まれた人選だ。けれど、そこに、少しだけ波紋を刻もう。
メールの宛先。プライベート回線で送れば、誰より頭の回る彼女のことだ。察して動いてくれることだろう。
(あなたの思い通りにはさせない。鶫さんを騙らせた罪は、後悔で贖え、四条玲貴)
駒は揃いつつある。
それはきっと、四条玲貴の予想から、少しずつ外れながら。
――/――
家に帰ってすぐに、シアタールームに駆け込む。今から見れば、もしかしたら遅めに帰ってくるダディとマミィに会えるかも知れないからね。そのときに、ツナギのことについて情報の共有ができると思う。
――なんて、もっともらしいことを言っておいて、本当は二人の顔を見ないとぐっすり眠れそうになかったから。老いた母。死んだ父。“家族”。私が得られなかった、両親という存在。
(ダディとマミィに、会いたいな)
胸が締め付けられるようだった。
映像を流す準備をしてくれる小春さんの作業の傍ら、あふれ出そうとうごめく感情を、胸に手を当てて、押しとどめることが精一杯だった。
「つぐみ様、準備ができました。私はこのまま映写室におりますので、何かありましたらベルを」
「うん。ありがとう、こはるさん」
ミニシアターに光が当たる。最初は砂嵐。それから直ぐに、画面が切り替わった。画面の端に表示されているのは、撮影された日の日付だ。二〇一四年二月二十二日、まだ肌寒い季節。
どこかのリビングだろうか。画面に映るのは白い壁と、机と、机に手を置いてカメラを見る女性の姿。黒い髪と、どこか微かに紫がかって見える黒目。その容姿は――“鶫”に、本当によく似ていた。背筋を伸ばし、ただ、微笑みながら佇む女性。彼女は優しげで、どこか儚くさえ思えるような表情で見つめるまま、じっと動かない。
『……あれ、これ、カメラ回ってる?』
ようやく声を上げたかと思えば、出てきた言葉はどこか間が抜けていた。思わずあっけにとられる中、映像の中の女性はため息と共に格好を崩し、頬杖をついた。けれど、誰かの視線に催促されるように、居住まいを正す。
『まぁ良いわ。えー、このたびは、未来の私にビデオレターを送りたいと思い、この映像を残させて――なによ、それ。え? カンペ? 堅苦しくなくって良いって言われても、そうねぇ』
この女性が、千鶴さん、なのだろう。想像とは結構違ったけれど、なんだかとても明るそうな方だ。マミィとも私とも少し違ったタイプの女性。この方が、ツナギの、お母さんなんだ。
『そもそも、私の誕生日プレゼントにビデオレターを撮影したいと言い出したのは私だけれど、なんで私だけしか映っていないのかっていう問題が残ってるんだけど……はいはい、恥ずかしいのね』
呆れたような物言いだけれど、撮影者の方のことが本当に好きなのだろう。呆れた仕草の中に、暖かさと愛おしさが見え隠れしていた。相手は、やっぱり椿さんなのかな。椿さんは、千鶴さんのことがとても好きなご様子だったしね。
こうして映像を見ているだけなのに、なんとなく、この方とお話ししてみたいような気持ちになってくる。不思議な人だ。
『未来の私はきっと、たくさんの子供と優しい家族に囲まれていることでしょう。今、幸せ? 私はそりゃあもう幸せなのだけれど、もしかしたら、十年後、二十年後には倦怠期が訪れて家庭はしっちゃかめっちゃかになっているかもしれないわ。そこで、今日この日の気持ちを忘れないためにも、ここに、どうして今、幸せなのか、手っ取り早く映像で残しておくことに――え? 聞いてない? 止めたいなら出てきなさいよ。……まったくもう』
人差し指を立てて、自慢げに話す千鶴さん。彼女に、おそらくカンペでストップが入ったようだけれど、結局、撮影者はカメラの前には出てこなかった。
『そもそも私が結婚した理由は、私の夫が「初恋の人にうり二つ」という理由で、私を買ったから』
……えーと、えーと、え、良いの? 大丈夫なの? その、こんなことを言って。とても、ツナギをあんな風にした玲貴が正気には思えない。こんなことを言っているのがばれたら、ひどい目にあってしまうんじゃないかな。
過去の人が相手だということはわかってる。でも、この人は私の妹だから……だから、か、どうかはわからない。自分の心に整理なんか付かない。それでも、気持ちを寄せてしまう。
『「君は従順であれば良い」とか、「家族の前では貞淑でいろ」とか、「子供が生まれさえすれば用はない。そのあとなら好きに生きろ。手切れ金はたんまりくれてやる」とか、それはもうひどい男だったのよ』
……わたしの力では、あんまり強くは殴れないかも知れない。けれどトラウマを呼び起こすくらいはできるよね? きちんと気配を消せるように練習をしておかないと。
せっかく結婚して、借金を返して、それで? そのあとの人生が、こうして続いていったの? 病気で死んでしまうまで、ずっと? 私が、死ななければ、なんて――そんな益もないことばかり考えてしまう。
『だからもし、もしも、うちの宿六が将来、拗らせてしまったときのために、ここに私の対処法を残すことにしたの。幸せへのステップよ。将来の私か、私の子供か……もしくは、同じように偏屈なひとと結婚してしまった私の子の嫁は、しっかり聞いておくように』
あっけらかんとした話し方。ウィンクをするお茶目さ。苦境に遭っても笑っていられる強さには、どこか、私に似た性根が見えて、少しだけ笑ってしまった。
『えーまず、「君は従順であれば良い」って言われたときは確か、「はい、じゃあ離婚ね。お金が弱みだと思った? 頼み込むから頷いてあげただけよ。私の人生を金で縛れると思わないことね」で、解決だったわね?』
ん?
あれ、えーと?
『で、「家族の前では貞淑でいろ」には、なんだっけ? ――そうそう。「仲良くなって欲しいならそう言いなさい。ちゃんと努力はするから。ただし、私のやり方でね!」って言ったのよね? え? はっ倒した? なんのことだかわかんないわ』
なんだか、こう、イメージと違う。気まずげに目をそらす千鶴さん。そんな千鶴さんにカンペかなにかでメッセージを書いて見せたのか、撮影者にむくれてみせる彼女は可愛らしく見えた。とても、撮影者の方に気を許しているのだろう。
『で、あとは、あれね。喧嘩して荒れてたとき。「子供が生まれさえすれば用はない。そのあとなら好きに生きろ。手切れ金はたんまりくれてやる」なーんて言ってさ。そんなこと、思ってもいないのに、突き放すような言葉を使う悪い癖。焦ったり追い詰められたりすると直ぐ、強い言葉を使っちゃう。不器用なひと』
伏せた瞳。
柔らかく緩む口元。
僅かに朱の差す頬。
『おい、その辺で』
『なによ。喋れるんじゃない。だったらあんたも入りなさい』
『……俺は、いい』
『おっさんが照れるな』
そして、この撮影者は、まさか。
がたん、と、音がしてカメラが倒れる。横向きになった映像の奥。窓辺から差し込む光が、二人の男女を淡く照らしていた。
『まったく、しょうがないわね』
『しょうがないのはどっちだ』
『どー考えても、あんたの方だと思うけど?』
千鶴さんは、頬を掻く男性――玲貴のネクタイを掴んで引き寄せる。体勢を崩してよろめく玲貴と千鶴さんの影が、逆光の中、重なった。
『あ、ビデオ切らなきゃ』
『俺の調子を狂わせて満足か? 君は、本当に――ふ、はは』
『あ、今、バカにしたでしょ』
『ああ、したな』
『こんにゃろう』
ビデオカメラに駆け寄った千鶴さんが、カメラを持ち上げる。電源を落とすのかと思えば、その前に、千鶴さんの微笑みで画面がいっぱいになった。カメラのレンズを覗き込むように。
『ほんと、不器用な人だけどさ。さみしがり屋で臆病で強がりで、でも、愛の深い人なんだ。ね、未来にこのビデオを見ている誰か。もし、また彼が不器用になっちゃったら、そのときは――ふふ、ぶん殴ってやんなさい』
『おい、なにをしているんだ。今日は君の誕生日デート、なんだろ? 早く行くぞ……千鶴』
『はーい。直ぐ終わるから待ってなさい! ……いい? 辛いときこそ笑いなさい。そしたらきっと、辛い現実なんか吹き飛ばせる。私が、保証してあげる。じゃ、ばいばい』
画面が砂嵐になって、それから、暗転する。あとに残ったのはシアタールームの白い布だけ。何も映さなくなった画面を、わたしはただ、じっと見つめたまま動けなかった。
最初は――最初はきっと、ただの代替品だったんだと思う。でも接していく内に、千鶴さんの奔放さに惹かれていったんだろう。言葉は柔らかくなり、心は開き、笑みを見せるようになり、いつしか、本当に、愛する妻として彼女を受け入れていた、ん、だと、思う。
それなのに、どうしてツナギをあんな風にしてしまったの?
それなのに、どうしてツナギを裏切るように振る舞ってしまったの?
それなのに、どうして鶫のことを踏みにじるようなことをしているの?
それなのに、どうして、自分が愛した千鶴さんとの思い出を、辱めてしまうの?
ぐるぐると思考が巡る。
痛くて苦しい。胸がズキズキと悲鳴を上げて、泣き叫んでいる。
単純な悪ならば、こんなにも悩まなかった。
明快な敵ならば、迷うことなく戦えたのに。
(ああ、でも、だから)
だからこそ、わかる。わたしの意識の最奥で、鶫は苦しんでいる。拭いようのない怒りと、辛い過去と、幸せな過去が存在したという事実に戸惑い、悩み、迷ってる。
(だからこそ、わたしと鶫は別の存在だ)
辛い過去があった。
狂うだけの理由があった。
過去の思い出を陵辱するだけの何かがあった。
「だから?」
それが、わたしの友達を――ツナギを傷つけて良い理由になんか、なるもんか。
わたしの胸の奥で渦巻くのは、燃え上がるような怒りだ。ごうごうと音を立てて、わたし自身をも焼いてしまうような、熱くて強い、真っ黒な炎。
(鶫、ごめんね――わたしは、玲貴を許せない)
自分のしてきたことと、向き合わせてみせる。
他でもない、オーディションの――演技の場で、わたしはツナギのためだけに演じる。
誓いは重く、苦しい。
でもそれ以上に、怒りで、壊れてしまいそうだった。




