scene4
――4――
どうやって、あの部屋を出たのか思い出せない。ただ演者としての魂がわたしの肉体を動かし、ちゃんとお礼を言って出た……と、思う。今こうして隣を歩く虹君が、なにも言ってないから。
「つぐみ」
「うん」
「うん、って、はぁ」
「うん」
でも、どうすれば良いんだろう。ツナギの出自がわかって、それで? 言うなればわたしの存在は元凶のようなもの、だよね。そんなわたしが、ツナギの力になれるの?
どうしたら良いんだろう。どうすれば、ツナギをあの呪縛から解放してあげられるのかな。わたしにできることはなんだろう。なんなら、できるのかな。わからない、わからなくて、苦しい。陸に打ち上げられた魚は、こんな風にもがくのかな。苦しくて、どうにもできない無力感に苛まれて、息の仕方も忘れてしまうのかな。
それは、なんて。
「わたしは――ふみゅ!?」
突如、両頬を挟まれる感覚。訳もわからず混乱する中、わたしの頬はたてたてよこよこ、縦横無尽にこねくり回された。
「お、おお、くそ、なんだこれ」
「ふにゅ、ふにゅ!?」
「癖になるな……もっと伸びるか?」
「ほひひゃい! ほひひゃいはら!!」
ほっぺたが餅のように伸びきってしまう! なんとか振り払おうとするのと同時に、虹君の手が離れる。伸びきってないかなぁ。うぬぬぬ、理不尽だ。なんだっていうんだ。
「こーくん! もう!」
「はっはっはっ、なるほどよく伸びるじゃねぇか」
「なにが“なるほど”なの!?」
虹君はわたしの問いに答えず、ぐしゃぐしゃと強くわたしの頭をなで回して、それから膝をついてわたしと視線を合わせた。
「で? なに悩んでんだ」
「……きかないんじゃ、なかったの」
「聞かねぇよ。おまえがちゃんと、わかってんならな」
わかる? なにを、わかっていないように見えたのかな。いやそりゃもう、わからないことだらけで、どうして良いかも、何もかも、整理が付かなかったといわれたらそうなんだけれど。
「なぁ、つぐみ。おまえのその考え事は、周りが見えなくなるほど抱え込めば解決するのか?」
「え――ぁ、と」
「そんな辛そうな顔で考え込まれたら、辛気くさくて迷惑だから、オレが解決してやる。……でも、そうじゃないんだろ?」
わたしをまっすぐ見つめる虹君の、赤みがかった鮮やかな黒目。ふてくされているようにも見えるけれど、そうじゃないって今ならわかる。わたしを心配して、告げてくれている言葉。
……虹君に、一人で抱え込まないって約束しておいてコレじゃ、心配掛けちゃうよね。事情を話すことだけが、悩みを共有する手段じゃない。歩けなくなったら、そう、外に発信することだって、“一人で抱え込まない”ことになるんだ。
「しんぱい、かけて、ごめんね。こーくん」
「別に。おまえに何かあると凛がぴーぴーうるせぇから、それだけだ」
「それでも、だよ」
顔を背けて頬を掻くこーくんの横顔がどこか可愛らしくて、思わず笑みがこぼれる。こうやって自分自身の中でぐだぐだ悩んで考えて、それで、ツナギのことを助けられるのか。そんなの、改めて考えるまでもない。
立ち止まっている暇はない。苦しくて、悲しくて、辛くて、怖いのなら――全部終わったあとに、嘆けば良いのだから。
ぱん、と、自分の両頬を叩いて気合いを入れる。家を追い出されたという鶫の母、菫。彼女に行くところがあるとすればきっと、一つだけだ。生きていれば、の、話だけれど――亡くなっていたら、そのときにまた考えたら良い。
そうなると、もう日も暮れてきた。ダディもマミィも今日は遅くなると言ってたけれど、だからといって、あんまり時間を掛けるわけにもいかないから、急ぐのなら今。
「こーくん!」
「お、おう」
「ありがとう! わたし、とりあえず動いてみる!」
「ああ――ははっ、そうだな。その方がおまえらしいよ、つぐみ」
正門から飛び出すように走って、途中で振り向いて虹君に手を振る。虹君は最初と変わらないように見えるぶっきらぼうな様子で、けれどどこか楽しげに手を振り返してくれた。
虹君に――わたしの、ライバルにあんな風に背中を押されて、動かなかったらどんな顔でツナギに向き合えば良いかわからないよ。
「こはるさん、まかべさん、もう一度だけ、くるまを出してください」
待っていてくれた小春さんと、運転手の眞壁さんにそう声をかける。そうすると直ぐに、小春さんから返事が来た。
「はい。ご随意に。つぐみ様の“やりたいこと”。不肖小春がお付き合いいたします」
「御意」
二人の言葉は、とても心強い。大きくは聞かず、子供のわがままと一蹴もせずに付き合ってくれる二人の存在が、とてもありがたかった。
目的地の住所は――えっと、うん、椿さんに聞いたと言うことにしておこう。鶫の記憶から記録を引っ張り上げて告げると、眞壁さんは手早くカーナビに入れてくれた。
「では、参りましょう」
「はい!」
眞壁さんの言葉に頷く。
空は茜色から瑠璃色へ、グラデーションしていくところだった。空にまだ星は見えないけれど、空の端で月は傾き始めていた。
都心から少しだけ離れて、路地裏を進んだ先。古びたシャッター街を抜けると、その建物は直ぐに見えた。
記憶の風景と比べるとずいぶん古びているけれど、さび付いて壊れた門戸も、ひび割れたコンクリートも、申し訳程度の駐輪場もあのころのまま。二階建て、八部屋のアパートメント。
桐王鶫が、幼少期を過ごした地。
――目を閉じれば、あの頃の風景が蘇る。いぐさの畳の匂い。シンク周りに置いたいつものコップで飲む、水道水の味。窓の隙間から吹き付ける風の冷たさ。ちゃぶ台の上に並べられた母の化粧箱。酒瓶の転がる側で、いびきを立てて寝る父。
力も弱くて、痩せっぽっちで、かわいげもなくて。私はいつも、家の中に居ることが苦痛でしょうがなかった。それでも、父が競馬を当てたときに買ってくる寿司折りの味、母が機嫌の良いときに作ってくれた、豚の生姜焼きの味。温かい日も、確かにあった。
「つぐみ様、私も共に」
「はい」
さすがに、子供一人で行くわけにはいかないからね。小春さんを伴って、外階段から二階へ。奥から二番目の、二〇二号室。緑色の冷たい扉、使われていない牛乳瓶ケース、磨りガラスの向こうからぼんやりと見える、灯り。
表札は――表札だけは、比較的新しい。一度は外して、でも引き払っても次のヒトが入らなかったか移ったのか、これだけ、書き換えたのだろう。縋っているのかな。表札には、“風間菫”と書かれていた。
「チャイムは私が」
「あ。そっか。おねがいします」
手が届かないものだから、小春さんが代わりに押してくれる。するとさほど待つこともなく、『はい』という声と共に、扉が開く。
チェックの古着。だるだるのズボン。かつては黒かった髪も真っ白で、顔も手も皺だらけ。みすぼらしい老婆。私の手を振り払って男と出て行ったあの頃の面影は、ほとんど残っていない。
「あ、あの、あなたたちは……?」
今は、七十五歳を過ぎたくらいだったかな。こんなところで一人で住み暮らしているということは、椿さんのお父さんに追い出されたあと、浮気相手にも逃げられたのだろう。思うところがないのかと言われたら躊躇うけれど、今は、そんなことを気にしては居られない。
「ちづるさんのことで、聞きたいことがあります」
「っ」
まっすぐ母を見る、わたしの視線に、彼女は息を呑んで後ずさる。
「か、帰って頂戴。そんな子、し、知らないわ」
「あなたがちづるさんのお母さんだって、つばきさんに聞きました。――あなたのお孫さんのことで、聞きたいことがあります」
フォローをしてくれようと身を乗り出した小春さんを手で制して、わたしは彼女に語りかける。一歩だって譲らないし、こうして、孤独に暮らす老婆相手だからといって退いてやるつもりもない。
もう、一つだって母さんに譲る物なんかない。
「……孫。……あなた、千鶴の子の、友達なの?」
「はい」
「そう、そうなの、ね――待っていなさい」
彼女は落ちくぼんだ目を擦ると、ふらふらと家の中へ引き返していく。半開きの扉から見える部屋の様子は、あの頃と、さほど変わっていないように見えた。いぐさの畳、ガムテープで目張りされた窓、裸電球。
老いた母。彼女は、何かを手に持って戻ってくる。その足取りはおぼつかなかったが、それを持つ手はしっかりとしていた。長方形の、箱のような物。
「これで、あの子との約束は全部終わりよ。これを持って、帰って頂戴」
「やくそく? ……あっ、ちょっと」
わたしにその箱を押しつけると、直ぐに扉がしまってしまう。明確な拒絶。もう、扉を開くことはないのだろうと、なんとなくわかった。
押しつけられた物は――ビデオテープ。VHSの、ビデオテープだ。ツメが折られていて上書きして消せないようになっている。樹脂製のケースに収められていて、タイトルのテープには少しだけ止め跳ねに癖のある文字で、「タイムカプセル」と、書かれていた。
「あの、こはるさん、ビデオって家で見られるかな?」
「はい。シアタールームに機材がございます」
どんな約束事かわからない、けれど、ツナギがあの状態じゃ引っ張って見て貰うわけにもいかないだろうし――うん。何か、ヒントになるかも知れない。
「こはるさん」
「はい。直ぐに」
きっと。きっと、これからも、彼女は孤独に生きていくのだろう。それでも、もう、わたしも、私も、彼女に向ける言葉など持ち合わせていない。
幸福な記憶もあった。それよりもたくさんの痛みと裏切りがあった。あの日々を作り上げたのは彼女自身だし、なにより、手に入れかけた幸福を手放したのも彼女の選択だ。だから、ああ、でも、一言だけ告げるのなら。
(さよなら)
もう二度と、会うことはない。
だから振り返ることもなく、わたしは小春さんと車に乗り込んだ。




