scene3
――3――
土煙の立ち上がる倉庫の中。わたしは、後ろ手をビニールテープで縛られて、コンクリートの床に転がされていた。わたしの隣には、同じように縛られている楓の姿。
かつてリリィを誘拐した犯人、藤巻が脱獄し、再びリリィを誘拐。その際に、楓も巻き込まれて誘拐されてしまう、というシーンだ。明里と美奈帆はリリィが攫われるところしか見ていない。けれど、いじめられてきた相手だったとしても、リリィを助けるために先生方に連絡を入れてくれている。
「は、ははは、やっと再会できたねぇ、リリィ。やはり運命! この出会いは、運命だったのだよ」
俳優・庄司平生さん演じる藤巻は、優しげで誠実そうな風貌だが、こういった悪役の演技が非常に上手い。庄司さん――藤巻は、眼鏡を押し上げて舌なめずりをすると、気絶したフリをしているわたしを、ねっとりと観察していた。
「邪魔者が入ったのは痛かったけれど、まぁいいさ。以前のぼくなら、んふふふ、彼女も興味の対象だったのだけれど……今、ぼくの目には君しか入らないんだ」
藤巻はそう言うと、わたしを仰向けに転がして、足先から首筋まで指でなぞっている。僅かに肌が沈む程度の力加減。不快感が背筋を巡り、その度に、リリィとしての屈辱感で爆発しそうな感情を鎮めた。
リリィ。そしてリーリヤ。二人の境界が揺らぐ大事なシーンだ。気絶したフリを続けると言うことは、怯え逃げるということ。でも、リリィの役目はそうではない。リリィが、悪の人格が生まれた理由は――善の自分を、守ることなのだから。周りのすべてを支配して、暴虐に振る舞って、自分自身を傷つけようと考えるものがいなくなるまで。
さぁ、目を覚ませ、柊リリィ。
縛られ、一方的に嬲られ、それでもこの牙は生きているのだから。
「汚い手で、触るな」
「っ」
他人を信じて裏切られた、無垢で弱いリリィ。
彼女が傷つかないのであれば――死んだって、構わないわ。
「ひ、ひひ。なんだ、元気が良いな。君はこうでないと。出会った時を思い出すよ」
「臭いのよ、あなた。近づくなって言ったのを、聞いてなかった?」
「っあああああッ!! ぼくのリリィは、そんなコトを言わない!」
激昂。怒りと共に頭をかきむしる藤巻。彼は今、屈辱で周りが見えなくなっている。だからこの隙に、なんとか縛られた手をほどかないとならない。虐めて、陥れてきたわたしが、必死になって逃げようとしている。なんて無様、なんて屈辱。
ああ、でも、それでも、臆すわけには行かない。逃げ切れたら一番。そうでなくとも、わたしが彼女に主導権を渡さずに殺されても、それでもいい。
誰に理解されなくたって構わない。
誰を傷つけたって、関係ないわ。
ただわたしは、自分のために動くだけ。
「だから、関係ないのに」
小さく呟く。
何故、あの子たちはわたしに関わるのだろう。何故、あの子たちは、わたしに向き合うのだろう。どんなにわたしが突き放しても、どんなにわたしが傷つけても、何故、立ち上がるんだろう。
「ふぅッ、ふぅッ、ふぅッ……頭を冷やしてくる。三時間で戻るから、君も、素直な態度の取り方を考えておくと良い。そうすれば、オトモダチにはなにもしないよ。マイスィートハニー」
「ねぇ、トイレ行きたいのだけれど? これ、ほどいてよ」
「そこですればいい。なに、ぼくがあとから丁寧に掃除してあげるからねぇ。いっひひひひひひひ」
「チッ」
倉庫から歩き去る藤巻。自分でほどかないとならないようだけれど、それはもう仕方がない。なんとか逃げ出さないと。わたしだけで良い。わたしだけ逃げれば、楓がやつの興味を引きつけてくれる。この子も綺麗な子だ。きっと、藤巻も気に入ることだろう。
コンクリートに手首をこすりつける。腕には、前回のときに藤巻につけられた傷がある。今更増えたって構わない。彼女が、痛い思いをする訳じゃないのだから。
「だから」
だから、さっさと逃げれば、良いのに。傷だらけの手首を顧みず、ほどけた手で、楓の手を縛るビニールテープを掴む。逃げたら良い。一人で逃げれば良い。なのに、なんで。
「ッ、痛い」
楓は――楓は、わたしが変わっても、友達で居てくれた。いつだって、敵対したって、わたしのためにわたしを止めると言っていた。それがわたしのためになんかなるはずがない。この子はバカに違いない。なのに、どうして、助ける必要があるの?
こんなバカな子のために、どうしてこんな思いをしてまで、助けようとしているのかな。わたしは、わたしだけ生き残ればそれでいいのに。わたしだけ嫌われればそれで良いのに。
「なんて、無様」
握りしめた手は、みっともなく震えていた。それがどうにも滑稽で、こぼれ落ちた言葉はそれ以上に、屈辱的だ。まるでわたしまで、バカになってしまったかのような。
「カット! よし、場面転換だ」
演技がすとんと抜け落ちる。わたしのビニールテープは切れやすいように細工が施されていたけれど、凛ちゃんのビニールテープは簡単に解れないよう見せるために、けっこう固めに結ばれている。それを外して、緩い物に付け替えるのだけれど、このあとのシーンは乗り込んで来るみんなと共同で撮影を行う。でも今日は、先生役の相川さんが別の仕事でいないから、後日、撮影される予定だ。
「いやぁ、良い演技だったよ。怪我はないかな? つぐみちゃん、凛ちゃん」
「だいじょうぶです、ありがとうございます! しょうじさん」
藤巻を見事に演じた庄司さんが、にこやかに話しかけてくださる。わたしが頭を下げると、テープをほどき終わった凛ちゃんもまた、並んで頭を下げた。
「おつかれさまです。ありがとうございました」
「うんうん。最近の子は丁寧で良い子だねぇ。凛ちゃんも、お疲れ様。……と、じゃあぼくはこれで」
「はい」
忙しそうに退出していく庄司さんを、凛ちゃんと二人で見送る。
「いそがしそうだったね。……つぐみは、このあとは?」
「とくになにもないよ。りんちゃんは?」
「ない。なら、いっしょにあそべる!?」
凛ちゃんはわたしの手を握ると、ぐいっと前に乗り出した。
「じゃあさ、じゃあさ、このあと――」
「あのぅ、凛ちゃん」
「――いなほさん?」
本当に申し訳なさそうに、凛ちゃんに話しかけたのは稲穂さんだ。日立稲穂さん。凛ちゃんのマネージャーさん。
「明日のお仕事が、今日にずれ込みましてぇ……ごめんねぇ」
「うへぇ……おしごとなら、しかたないです」
「あはは。りんちゃん、あした、わたしもオフだからいっしょにあそぼう?」
「っ! うん!」
次の仕事に向かう凛ちゃんを見送る。そうなると、わたしは一人、暇になっちゃう。ツナギが暇だったら一緒に竜胆大付属に乗り込みたいところなんだけど、しばらく返信できないっていうメッセージのとおり、あれから音沙汰がないんだよね。
(しょうがない。ダディとマミィにもお願いはしているし……)
せめて今は、わたしのオーディションに備えよう。
「こはるさん」
「はい」
「オーディションのこと、もう少しきかせてください」
「承知いたしました、つぐみ様」
スタッフさんや監督さんたちにも挨拶をして、社用車に乗り込む。いつものように、運転手の眞壁さんは優しく微笑んで車の扉を開けてくれた。
「オーディションの詳細ですが、一対一の演技を行うそうです」
「いったいいち、ですか?」
「はい。相手役の方は変えず、同じ台本で連続して行うようですね。候補は、つぐみ様の他にもう一人だけ。二組ですね」
相手を変えず、となると、ますます『妖精の匣』のオーディションが思い起こされる。
「審査員はいません。あくまで、観客の前で演技をしていただくだけ、ということです。そのときの演技や観客の様子といったものを加味して、エマさんの判断でオーディション通過者を決める、ということだそうですよ」
なるほどなぁ。先攻か後攻かで難易度が変わりそうだ。二組なら評価基準にされる先攻が不利だけれど、審査員を置くタイプじゃないのなら新鮮な舞台という意味で後攻の方が不利かも。
「相手役の方は――四条玲貴が務めるようですね」
「え……しじょう、れき?」
「はい。三年間活動休止をしていましたが、今回で現役復帰のリハビリも兼ねるようです」
四条玲貴。
その名を思い浮かべると、関連した私の記憶が湧き出てくる。確か、最初の共演で怖がらせすぎて、不眠症にしてしまった方だ。それからも――
(あれ?)
――それからも、なんだっけ? 上辺の記憶は直ぐに出てくる。でも、それ以上深く情報を引き出そうとすると、まるで何かに拒まれているかのように引き出すことができない。
そういえば以前にも、四条玲貴の名を思い浮かべたことがあった。でもそのときも不思議と自分の中からあまり関連した思い出が湧き上がっては来なかった。なんとなくだけれど、きっと、過去に関わりがあった人間だ。そのはず、なんだけれど、あれぇ?
(もっと、深く)
意識を研ぎ澄ませ。
意思の抵抗をねじ伏せ。
知識の深淵に、踏み込む、ように。
(もっと、もっと、もっと)
意識の中。真っ白の空間。闇に向かって手を伸ばすと、私は慌てた様子でわたしに駆け寄り――慌てすぎて、転んだ。
『あ。じゃない、ちょっ、待っ――』
私がわたしに手を触れる、直前。足下がひび割れ、光のシャボン玉が闇から浮き上がる。そのすべてが、わたしにぶつかって、はじけて、記憶の波が、流れ込んだ。
――『ホラー女優、か。何でも良いが、俺の足を引っ張らないでくれよ』
――『ななななんだ、あの演技は!』
――『馬鹿にして、悪かった。君は間違いなく、一流の演者だ』
――『家族からは反対されていてね。かび臭い、プライドばかりの家さ』
――『はは、君と居ると、気が楽で仕方がない。変だな、まったく、本当に』
――『鶫』
――『君は、すごいな』
――『俺は』
――『俺は、君のことが好きだ』
――『君のことを――愛しているんだ』
いしきが、おちる。
ふかいところで、しずむように。
「ッつぐみ様!」
やみに、もぐるように。