scene1
――1――
――内側に潜り込む。
淡いピンクのカーテンから零れる朝日。蛙がモチーフの可愛い時計は、まだ、起床の時間を指してはいない。あと三十分もすれば、御門さんがわたしを起こしに控え目なノックをしてくれることだろう。
だから、その前に。朝の微睡みの時間。一番頭が冴えているときに、心の内側に語りかけて、潜り込む。
深く、深く、深く。
――瞼を閉じる。光が遮られ、目の前には闇だけが広がる。
深く、深く、深く。
――夢の中で空を飛ぶような、足を踏み外すような、浮遊感。
深く、深く、深く。
――落ちる。内臓が浮くような気持ち悪さ。ただ、風は感じない。
深く、深く、深くまで。
――身体が止まる。水面にシャボン玉が落ちると、溶けるようにくっつく。
――浮遊感が消える。くっついたシャボン玉が爆ぜて、水面に消えるように。
(あかるい)
目を開ける。辺り一面は真っ白な空間だ。演技に入り込むときのように己の内側に潜り込むと、この場所に落ちることができた。
(不思議なところ)
一面、真っ白だ。無限に白が続いていて、どちらが上か下かもわからない。ただ、歩き出すと、足下が水面のように揺らいだ。わたしはパジャマに裸足のまま、まっすぐ歩く。上下左右はよくわからない空間だけれど、前だけはよくわかる。進む先、目の前にある空間。ある一定のポイントで切り分けられているかのように、闇が広がっていたから。
一歩、一歩、確かめるように歩く。明るい、暗い、冷たい、温かい。夢の中のようなのに、色んな感覚が混じり合う。経験が芽吹くように、わたしの夢を彩る。
(居た……)
黒い闇。近づいて手を伸ばせば、波紋が広がるばかりで、それ以上先には近づくことができない。どんなに押し込んでも、空気の壁に触れているかのように、触感ではなにも感じていないのに進めない。
その先に――俯いて佇む彼女の姿があるというのに、わたしはこれ以上、どうすることもできなかった。
「……っ」
声が出ない。近づいて、手を伸ばして、それでも何かを語りかけることはできなかった。やっぱり、わたしと私が深く交わることができるのは、演技だけなのかな。
聞きたいことがたくさんあるのに。話したいことがいっぱいあるのに。ありがとう、って、伝えたいのに。
あなたは、本当にわたしの前世なの?
あなただった私が、生まれ変わってわたしになったの?
請い願っても届かない。それでも、彼女は俯いていた顔をゆっくりと上げて――
「つぐみ様、朝ですよ」
――意識が引っ張り上げられる。
「ぁ――みかど、さん」
「はい。御門です。つぐみ様」
ノックをしても返事がないと、御門さんはこうして起こしに来てくれる。体感時間よりも長くあの意識の底にいたのだろう。御門さんに「おはようございます」と回らない呂律で挨拶をしてから時計を見れば、起きようと思っていた時間は過ぎていた。
「おこしてくれてありがとうございます、みかどさん」
「いいえ。まだ余裕はありますが……ご準備いたしましょうか」
「はい」
ずいぶんと気温も上がってきたから、厚着だとつらい。腰回りの装飾は、可愛らしい白蛇のワンポイントが特徴的なリボン。全体で見れば、上品に裾を彩るフリル付きのワンピース。あとは、髪を垂らしておくと余計に暑いので、御門さんが二つ結びにしてくれた。いわゆる、ツインテールというやつだ。
鏡の前で左右に揺れてみれば、ツインテールもぴょこぴょこと跳ねた。なんだか少し面白い。
「さ、つぐみ様」
「っあ、はい!」
「ふふ、ゆっくりで大丈夫ですよ」
御門さんと一緒に並んで部屋を出る。歩きながら考えるのは、やっぱり、入り込んだ意識の先、奥の奥、深いところ。白と黒の空間のことだ。
わたしはずっと、死んだ桐王鶫が生まれ変わって、その記憶が復活したのだと思っていた。でも、何故かその記憶であるはずの私と対話することができる。これって、どういうことなのかな。わたしと、私は別の人? リリィとリーリヤみたいに、人格が違う? でも、仮に前世、として、前世も現世も趣味嗜好は変わってない。わたしも、蛇と蛙とカラスが好きだし、味の濃い物よりも薄味の方が好きだし、なにより演技が大好物だ。
(むむむむ……難しい)
顎に手を当てて唸りながら歩く。意識の奥で鶫の記憶と触れ合えたらまた変わったのかも知れないけれど、結局、話しかけることはできなかった。それどころか、目を合わせることすら叶わなかった。
あのとき、何を考えていたんだろう。鶫の記憶は――私は……。
「さ、つぐみ様」
「ん、ぁ、はい」
促されるまま応接室に入る。そういえば、なんで応接室に行くのか聞いていなかったけれど――という疑問は、扉を開けて直ぐに氷解する。
ソファーに腰掛け、マミィと向き合って書類を手にした女性。後ろでまとめた黒髪と銀縁眼鏡の、大人の女性。
「っ」
気がついたときにはもう、走り出していた。わたしがどんな思いで彼女を待っていたのか、思い知らせてやらないと、なんて、生意気な考えも踏み出すごとに剥がれていく。着地も考えず、飛び出してしまえば良い。だって、絶対に受け止めてくれるから。
「こはるさん!!」
「ッ……つぐみ、様――!」
身を投げ出したわたしを、小春さんは抱き留めてくれた。
「もう、わたしのマネージャーは、いやになっちゃった?」
逃がさない、なんて、格好良いことを言おうとしていた口が叛逆する。弱々しい言葉。こんな、弱いわたしで、軽蔑されちゃわないかな。私みたいに、強くないのに。
ソファーに登る形で抱きついた。足が震える。手も、少し。わたしから、離れちゃうのかな。だったら、さみしい。……つらい。
「ッ嫌になったことなど、一度もございません! 一度たりとも、ありません……!」
「こはるさん……」
「ですが……っ、私で、良いのですか?」
いつだったか。前にも、こんな会話をした。前の時はわからなかったけれど、今ならわかる。小春さんも、今、わたしが感じているのと同じように――怖いんだ。本当に、自分なんかで良いのか。
「こはるさんがいい」
「っ」
「わたしもね、こはるさんは、わたしなんかで良いのかな? って、こわかった。だから――えへへ、いっしょだね? こはるさん」
俯いた小春さんが、本当に小さな声で、零れ出るかのように「抱きしめてもよろしいでしょうか」と聞いてくれた。律儀だなぁなんて思いながら、わたしがそれに頷くと、小春さんはわたしを優しく抱きしめる。
「もう二度と、怖い思いはさせません。必ず」
「こはるさんといっしょにいて、こわいなんて思ったことはないよ。こはるさんが、守ってくれたから」
だからもう、どこにもいかないで。なんとなく、その言葉はいわなくとも伝わっているような、そんな気がした。
「ふふ、少し妬けちゃうわね」
「っあわわわ、おはよう、マミィ!」
「ええ、おはよう、つぐみ」
マミィの声で我に返る。慌てて離れると、なんとなくそのまま小春さんの隣に座った。
「今日は意思確認をしようと思っていたのだけれど、必要はなさそうね。契約更新はするとして――つぐみ」
「?」
「今日は、新しくあなたの護衛につく人間を紹介するわ。といっても、試験的に先日からついてはいたのだけれど、気がつかないように行動して貰っていたのよ」
ん? 先日? 昨日……というニュアンスではなくて、もうちょっと前から? そうなると、小春さんがお休みに入った時からかな。気配は感じなかった――って、そういえば御門さんの気配もぜんぜんわからなかったから、今更かな。
首をひねるわたしを余所に、マミィがぱちんと指を鳴らす。すると、マミィの横に女性が一人、跪いていた。現れたのではなく、降りてきたのでもなく、最初からそこに居たかのように。そして、目で見る限り、確かにそこに居るのに気配は感じない“違和感”。せ、世界は広いなぁ。
「彼女は真宵。それだけ覚えていれば良いわ」
「う、うん」
真宵、と呼ばれた女性。群青色にも見える黒髪のショートヘア。小柄な体型で、ともすれば高校生くらいに見えなくもない。着ている服は黒い無地の半袖シャツに、衣服のツナギのようにポケットの多いズボン。足下はよく見えないけれど、ブーツ、かな? 跪いた手には黒い手袋が嵌められている。
「よろしくね、まよいさん」
「……つぐみ、真宵に発言の許可をあげて」
「へ? う、うん、マミィ。えっと、まよいさん。きらくなカンジでいいよ?」
堅苦しいと、肩が凝っちゃうよね。いや、まだ凝らないか。真宵さんはマミィとアイコンタクトでなんらかのやりとりすると、直ぐに、肩をすくめて立ち上がった。
「そう? それならお言葉に甘えて」
立ち上がると、勝ち気な目元がよく見える。海外の方の血が入っているのだろうか。黒い瞳は薄く青みがかり、紺色に見えた。
「ね、お嬢様。あなた、指は鳴らせる?」
「え? あ、はい」
人差し指と親指で弾いて指を鳴らしてみせる。中指でも薬指でもできるのだけれど、こればっかりは無駄な技術だったなぁ、なんて思わないこともない。
「そ。それじゃあ、それが合図でOK?」
「これで、よべばいいんだね」
「そうそう。――私たちは煙。個にして群、群にして個。どこにでも居てどこにも居ない。闇夜に紛れる薄煙。小春があなたの剣なら、私はお嬢様の盾であり足。好きに使い潰してちょうだいな」
淡々と言い放つ彼女の様子に、少しだけ、居住まいを正す。使い潰す? わたしが、誰かを? なるほど。こうやって、少しずつ、わたしを理解して貰う必要があるんだね。
「まよいさん」
「呼び捨てて良いんだよ? 道具なんだから」
「えっと、まよい」
「はいはい、なんなりと」
だったら、わたしに言えることは一つだけ。一つで充分。
「わたしについてきてくれるのなら、さいごまでいっしょだよ。使い潰してなんか、あげないから」
「……へぇ。話には聞いていたけれど、五歳でこれかぁ。ほんと、空星は超人揃いだ。OK、お嬢様。あなたの言葉の意味、楽しみにしているわ。――美奈子様、我々はここで」
「ええ。下がってなさい」
また、音もなく消える真宵さん。
小春さんが戻ってきてくれたのは嬉しいけれど――これから、ちょっと大変かも。そう思いながら顔を上げると、にっこり微笑むマミィが見える。優しいマミィの大好きな笑顔、なんだけど、きっと色々あるんだろうなぁなんて、考えずにはいられなかった。