opening
――opening――
身についてしまったいつものルーティン。同じ時間に起きて同じトレーニングをし、同じように義足を嵌めて同じように身支度をして、仕事の確認。今日のツナギの仕事は……今日以降、決めるようにと彼から言われた。
あの人――四条玲貴は、冷酷な人間だ。だからこそ、僕はいつものように過ごす。気取られないよう、気づかれないよう、機械のように。ただ機械的に物事を進める能力だけで言えば、僕とて、かの双璧、四条玲貴相手だとしても渡り合える。
(なんて、そんなことを言ったら、鶫さん――あなたは、なんというのでしょうね)
あの日、あの夜、うたかたの夢のようであったひととき。夢かうつつかはわからない。でも、真実であったと信じているあの言葉。
『罪の意識に苛まれている暇があるんだったら、一歩でも多く進んで、やりきって、あの世で私に“僕はこれだけ夢を叶えましたよ”って、自慢話のひとつでもしにきなさいよ!』
そうだ。立ち止まってなどいられない。まだ一つとして成し遂げていないのだ。あなたに自慢話ができないじゃないか。
ノートパソコンを鞄に入れて、車に乗って移動する。彼の家は、閑静な住宅街を抜けた先にある。元々は撮影スタジオだったらしいが、彼が買い取って暮らしているのだという。周囲にコンビニエンスストアや公園などがない分、人の目が少ない。子供の居る家庭も大半が車での送迎を行うような裕福な層で占められているため、なおさら。好き放題やるのなら、これ以上の条件もないだろう。
「到着いたしました」
駐車してインターホンを鳴らす。いつもなら無言でドアロックの外される音が聞こえるのだが、今日は、少し違うようだ。
――日常。あるいはルーティン。その流れから外れるということは、変化があったということに他ならない。なら、変化の理由は?
(気を引き締めなくてはなりませんね)
眼鏡を人差し指で押し上げて、意識を仕事の物へ強く固める。スピーカーからはガタガタと音が鳴り、直ぐに、彼の声が響いた。
『待たせてすまないね。今日はいつもの部屋に来る前に、スタジオに寄って欲しい。場所はわかるね?』
「ええ。仕事に関することであるのなら」
『クク、もちろんだとも。君のマネージャー業に必要なことさ』
「であるのなら、承知いたしました」
『楽しみにしているといい。俺からのプレゼントだ――辻口諭』
インターホンから音が止み、ドアロックが外される。分厚い鉄の扉を押し開けて、靴のまま入ると、突き当たりを右に。生活スペースは左側にまとめられているが、スタジオや録音室などは右側にまとめられていた。ここに、ツナギが普段配信に使っている機材もまとめられている。
(その、ツナギといえば)
昨日。突如配信されたツナギチャンネル。ライブストリーミングではなく録画のもので、ツナギ本人による活動休止の報告。理由としては、最近テレビへの露出が増えてきたコトからもわかるように、子役として活動するというもの。
それ自体は、まぁいい。どうせいつかの日のために四条が撮影させていたのだろう。だが、動画配信はしばらく続けさせる予定だったのに、どうして目的が変化したのか。方針を変えた? ――いや、急いでいる、のか。
(いずれにせよ、やるべきことは変わりない)
スタジオの前に立ち、ノックを三回。既に通達は行っていることだろう。確認は行わずに、直ぐに押し開く。木目の床、高い天井から照らす白い蛍光灯。広く伸びる床の先、蛍光灯の照り返しを不快に思いながら、ツナギの影を探す。
すぅ、と、伸びる影。スタジオの端、換気用の窓が開かれ、風が吹いている。窓の直ぐ前に開かれたオフィス用折りたたみテーブル。湯気が立っているのは、安物の、パックの紅茶だろうか。パイプ椅子に腰掛けて、台本を片手に、黒髪をなびかせて。
「鶫、さん……?」
どさ、と、音がする。僕が、自分の鞄を足下に落とした音だ。その音で我に返る。これまでとは違う。鶫さんの演技をさせている子供という感じはしない。あれが、四条の目的。あれが、四条の目指す“一端”だというのなら。
「ん? ああ、諭君」
いくら本読みに集中していても、僕に気がつくと、必ず本から目を離して目を合わせて挨拶をくれた。何度も視線を行き来させた、事務所の端の席。
心臓が早鐘を打つ。からからに渇いた喉を生唾でごまかすと、一歩踏み出し、足下に鞄が転がったままだったことに気がついて、半歩戻った。
「……なんの、台本を?」
声は、震えていないだろうか。握りしめた手が、痛む。
「これ? これは『紗椰』」
声色。
「私は覚えているから要らないって言ったんだけどね。まだ馴染んでいないだろうって」
黒髪を耳にかける仕草。
ため息を吐くときに苦笑してしまう、人の良さがにじみ出てしまう癖。
「馴染む、ですか」
「あれ? 玲貴から聞いていない? 生まれ変わり、というやつよ。私も半信半疑なんだけどね。記憶が戻ったのは、ごく最近なんだけど……まさか男の子に生まれ変わるなんて思わなかったわ」
手を握り、開き、動作の確認をするように動かす。鶫さんは癖のつくような動きの仕事を終えたときなんかも、そうやって、自身の身体のメンテナンスをしていた。役柄のためなら柔道整復師の資格を取ると言って、拘束時間の壁を前に断念していたこともあった。
浮かべる笑みは楽しげだ。鶫さんはそうやってメンテナンスをするときは、いつだって楽しげだった。なにせその先には“未知への挑戦”がある。挑むことが好きな方だ。楽しくもなるのだろう。
「無茶はなさらないでくださいよ、鶫さん」
「あはは、諭君は固いなぁ。いいよ、大丈夫。なんだか転生前よりも調子が良いかも」
なるほど、なるほど、そういうことか。ああ、四条玲貴。あなたが何故、先に彼女に逢わせたのか、僕にはよくわかる。彼とて僕ほどのマネージャーの仕事はできない。であるならば、僕を逃がさないようにしなければならない。なら、今の、鶫さんの姿を見せるのは効果的だろう。
嫌になるほどに。
「――では、仕事の話をしましょうか。まずは今後の方針から」
「ええ、わかったわ。といっても前と変わらないわ。たとえ極悪非道の大罪人であろうと、道ばたの小石だろうと、演じきって見せるから」
パイプ椅子を引っ張り出し、鶫さんの対面に腰掛ける。彼女は堂々と、不敵な笑みを浮かべていた。そういう人だ。いつだって、なんだって演じてみせると言ってはばからなかった。恐怖を楽しみ尽くして、恐怖で人を繋ぐのだと。
「桐王鶫なら、そう言うと思いました。さしあたってはリハビリが必要、ということでしょうか」
「うーん、そういうことになるのかしら」
「その方が良いかと。四条にも確認はしてみますが」
「そうねぇ。まぁでも」
頬杖を付き、笑みを見せる。差し込んだ光が、柔らかく笑う彼女の顔を照らす。
「諭君に任せるわ」
「よろしい、ので?」
「ええ。あなたの仕事を、信頼しているからね」
「――承知いたしました。万事、つつがなく」
席を立つ。スタジオを出る、直前。そっと振り返ると、やはりそこにはいつもの彼女がいた。何度言っても、稼げるようになっても、安物の紅茶で済ませていた。食べ物にこだわりはなく、強いて言うなら薄味でないと濃く感じてしまう程度。出がらしのお茶くらいがちょうど良いと笑っていたのを、思い出す。
今度こそ、振り切ってスタジオを出る。どうせアレはいつもの部屋で、ワイングラスを傾けながら、優雅に微笑んでいることだろう。
(アレは――いいや、今考えるべき事柄ではない)
廊下をまっすぐ進み、応接室の扉をノックし――ようとして、止まる。事故の影響でだいぶ視力は下がったが、その分、他の感覚が鋭くなった。その、聴覚が、中の音を捉える。
『ゴホッ、ゴホッ、ガッ、ぐ、ひゅっ、はぁ、はぁ、はぁ……チッ』
咳き込む音。水気混じりの息。ガタガタと音を立て、やがて鎮まる。もし、もしも、そういうことであるのなら。ああ、いや、早合点はできない。あとでロロにも確認を取って、それから、そう、調査が必要だ。
少しだけ待って、少し靴を鳴らし、今度こそノックを三回。数秒間があり、『開いているよ』と響く声。息を整えたか? 四条玲貴。
「やぁ。俺からのプレゼントはどうだったかな? 辻口諭」
「さて。演技を見ていないので、まだなんとも」
「ははは。相変わらずだ。だが真理でもある。演技を通して初めて、真の意味で“完成”されるのだから」
くすんだ金髪。濁った碧眼。痩せてもまだ劣らない端整な顔立ち。
「では、仕事の話を」
「ああ、そうだったね。エマ、という人物は知っているかな?」
「助監督の?」
「クク、さすがだ」
かの、鶫さんの親友、閏宇さん。彼女の元で修行を積んだという、経歴不詳の謎の人物。男装の麗人であるということ以外、ほとんど、容姿は伝わっていない。もちろん五十を過ぎてまだ三十代どころか二十代にしか見えない東洋の魔女、閏宇さんが視線を集めすぎているのはあるとは思うが。
「彼女と取引をしてね。鶫をオーディションに出させて貰うことになった」
「取引?」
「ああ。ああいう人間は金銭では動かないから面倒だ。――誰かに何かさせるのなら、自分も表舞台に居ろと言うのが交換条件でね」
息を呑む。活動休止を宣言してから三年。四条玲貴が、表舞台に立つのだとしたら――大きく、業界が動く。
「では、轟に復帰を?」
「いいや。事務所を立ち上げた。鶫もそこに加わる」
「承知いたしました。では、それまでは彼女には慣らし運転を?」
「そういうことだ。なに、凡人では気がつかない。ひとまずはツナギとして活動をさせてくれ」
そうだろう。急な転換は世間がついていかない。だが、急いで目的を果たそうという割に、仕事の取り方は堅実に進めようとするのは何故だ?
まるで、件の、エマのオーディションが最終目的であるかのように。人生は長い。まさか、ツナギという人間を実際に殺害するわけではないだろう。やりかねないから警戒はするが。
なら――四条玲貴の目標地点は、どこにある?
「オーディションの日取りは? そこには影響がないようにいたしましょう」
「八月十五日だ」
「承知いたしました。あと一週間とは、急ですね」
「撮影スケジュールもずいぶんと急だ。年末までに公開にこぎ着けないと意味がないからね」
「そうですか。では、まず調整から――」
――細かい取り決めを行い、いくつか確認し、スケジュールの共有を行う。それから、事務的なやりとりをすべて終えて、満面の笑みを浮かべた彼に背を向けて退出した。
スマホを手に取り……僅かに、僕自身の手が震えている。興奮? 恐怖? 歓喜? いいや、違う。
(ここで連絡を取るのはまずい。どこに目があるのかもわからない)
屋敷を出て、車に乗り込み、適当に走らせる。目的地は決めていないが、どこだって構わない。駐停車のできそうな路肩に車を停めてハザードランプを点灯させると、ようやく、スマホを手に取って操作した。
『ハァイ、諭。どうしたの?』
「いくつか確認して欲しいことがあります」
『……なるほど、まずい感じなのね?』
「はい」
電話に出たのは、ツナギのスタイリストのロロだ。彼は聡く優秀だ。こちらの言いたいことをくみ取って応答してくれた。
「まず一つ。決して、ツナギに逢っても動揺しないように。いつものあなたであること以上の武器はありません」
『んふふふ。最初からそのつもりよ』
「心強い。それから、調査をして欲しいことですが――」
『ええ、わかってるわ。二郎もたっぷり協力してくれるそうよ』
協力者の男性。彼が調査に協力してくれるのであれば心強い。それに、ロロもついていれば、まず問題はないだろう。こちらにも、ツナギに対して切り札がある。ただ、完全に四条玲貴を出し抜かねば切ることのできない札だが――焦りは禁物だ。
『でも、それほどアナタが警戒するなら、相応のカンジだったのでしょう? ――諭、アナタは大丈夫なの?』
「心配は無用です」
『あら?』
そうだ。こういうとき、なんと言うのだったか。逡巡して、すぐ、思い至る。
「サブカルチャーを趣味嗜好とする人間たちの間に、こんなスラングがあるそうです」
『スラング?』
「解釈違い。――所詮、彼女は、四条玲貴の脳内の桐王鶫でしかない、ということですよ」
『ぷふぅっ、な、なによそれ、アハハハハハ! ふっ、くくくくっ、良いわね。ええ、見せつけてやりましょうよ、あの野蛮なオトコに、ね』
「ええ、もちろんです」
情報と調査願いを通達し、電話を切る。
なるほど、四条玲貴。あなたの成した人格変換は一定の成果があったように思えます。忌々しいほどに、彼女の至る所が、“桐王鶫”という人間に準えていた。
もし、もしも、あの墓で、あの夜に、鶫さんの幽霊と邂逅していなかったら、僕も彼のように狂っていたのだろうか。偽物でしかない、桐王鶫に。
(いいや、それはない)
四条玲貴。
所詮、彼は自分の知れる情報の範囲でしか、鶫さんを知らないのだろう。
だから。
『諭君に任せるわ』
先ほど、そう、僕に告げた鶫さん。声色も、表情も、なるほど、なにもかもが桐王鶫だ。でも。
(ひとたび仕事の話と告げれば、彼女はどんな時だってキッチリ切り替えて、「辻口さん」と呼んでくれたのですよ。切り替えなければ仕事に身が入らなかった、当時の未熟な僕のために、ね)
今は、順調に事が進んでいることに満足していれば良い。僕も相応に、完璧な協力者として十全に仕事をこなし、四条玲貴にも桐王鶫にも、すべてそつなくこなしていこう。
(だが、ゆめゆめ忘れるな、四条玲貴。おまえは――桐王鶫の相棒を、怒らせたということを)
牙を剥くその日まで、ただただ従順にルーティンをこなす。
あの墓場で、僕なんかの自慢話を待つ、鶫さんのためにも。




