scene8
――8――
屋上庭園。ベンチに座るエマさんと柿沼さん。柿沼さんは口では「無理はしないで」と言ってくれたけれど、わたしたちに期待している様子がありありとわかる。
となると、エマさんが監督役、柿沼さんが観客役か。なるほど、燃えてきた。観客がいるのといないのでは、やっぱり違う。いつもはカメラ係の凛ちゃんのおかげで、いつかは観客に届く“いつもの演技”だったけれど、今日はダイレクトに届くのか。面白い。美海ちゃんや珠里阿ちゃんみたいな、友達へ見せる演技ともまた、違う。
「では、シーン――」
虹君がわたしの右側で俯き膝をつく。
レオがわたしの左側で俯き膝をつく。
わたしは一人、舞台の中央。善人のレオにも、悪人の虹にも好かれたくて、どっちつかずに振る舞う蝙蝠。だって、しょうがないじゃない。どちらかを選ぶコトなんて、わたしにはできないのだもの。
「――アクション!」
だから、お願い。わたしを選んで。
「つぐみ」
短くわたしに呼びかけるレオ。善人のレオへの振る舞いは、お人好しで放っておけない人間性を演じよう。
「レオ。どうしたの?」
「この辺り、最近は事件も多い。あまりフラフラしない方が良い」
「心配してくれるの?」
首をかしげ、笑顔を乗せて。
「そうだよ。つぐみが心配」
「あはは、大げさだなぁ。……でも、ほら」
身振りは大きく両手を広げて見回すと、釣られてレオも一緒に周囲を見る。わたしが見つけた、と、小声で呟いてから指を差すと、レオも、なんとなくそっちを向いた。
「あっちには道に荷物を持ったおばあさん、あっちには木に風船をひっかけた女の子」
めまぐるしく変わるレオの視線。わたしが老婆を指差せば、レオは助け出しに行こうと一歩前へ。続いて子供を指差せば、どこに行ったら良いかわからなくてつんのめった。
躓いて、転びそうになる彼を抱き留める。紳士的なひとほど、パーソナルスペースを意識してくれる。では逆に、容易に踏み込ませる人間を相手に、どう思う?
常人なら、気があるのかと思うだろう。
悪人なら、裏があるのではないかと疑うだろう。
善人なら、とくに彼のようなタイプなら――放っておけないと、思うことだろう。
「心配だよ」
「レオ?」
わたしは赤ずきんだ。森に迷い込んだ、哀れな小さい女の子。だからどうか、狩人さん。わたしを、悪い狼から守ってね?
「そんな君だから、心配なんだ」
「レオ、もう、どうしたの? ……変なレオ」
まるで、壊れ物を扱うかのように、正面からわたしを抱きしめるレオ。その肩口から覗くわたしの顔は、ふふふ、到底、彼には見せられない。こんな、ああ、快楽に打ち震えた顔なんて!
「レオ、おばあちゃんが道を渡っちゃうわ」
「……わかった。一緒に助けよう。そのあとは一緒に反省会。逃げちゃダメだよ――つぐみ」
「逃げるってなに? もう、信用ないなぁ。大丈夫だよ。だって、レオが守ってくれるんでしょ?」
「はぁ、まったく。いいよ、つぐみはおれが守る。絶対に、守るよ」
駆け抜け、舞台袖に移動するレオ。レオは直ぐに、片膝をついて俯いた。暗黙の了解によって行われる切り替えの合図。一人になったわたしは舞台の中央へ。虹君が現れるまでの数瞬、インターバルを挟んで見せよう。わたしが一人で両手を広げると、立ち上がり掛けた虹君が、察して動きを止めてくれた。
「レオは街で知り合った男の子。お人好しで、格好良くて、わたしのことを気遣ってくれる。だからわたしは、彼に求めて欲しかった。優しい彼に求められることが嬉しかった。今、彼は、わたしの望みどおり、わたしを求めてくれている」
独壇場という言葉がある。今、ここはわたしにしかスポットライトが当たっていない、わたしだけの独り舞台。胸をかき抱き、感激に打ち震えるように見渡せば、同じように固唾を飲んで見守る観客の姿。
「その欲望の名を、庇護欲、と呼んだ」
善人であっても構わない。どうかわたしを求めて、望んで、欲して。
そう言ってから俯くと、今度は虹君が動き出す。設定のピースは、レオがちりばめてくれた。虹君に繋げるためのワード――“事件”。
「おい」
鋭く声をかける虹君。あなたはわたしを知ってる? それとも、知らない? 目を見ればわかる。彼はわたしに、“怒り”を抱いてる。
「昨日のアレ、誰だ」
「……」
レオと出会っているところを見られたかな? なるほど、それなら、そう振る舞おう。
「誰でも良いでしょ?」
浮かべていた笑顔は嘘だった。
日常は全部、偽りと傷でできている。
それを、悪人ならどう受け取る? 滑稽だと笑う? 騙しやすい人間ができたと喜ぶ? そうだね。そうなるだろう。だから、ピースをもう一つ、二つ。
「チッ……おい、良いか。オレのシマで好き勝手やろうってんなら、相応のオトシマエはつけて貰うぜ」
「ふふ、どんな? ――冗談だよ、ごめんね」
音もなく近づいて、頬を両手で挟む。浮かべる笑みは悪戯っぽく、どこかひねくれている彼によく似た仕草。
一つ目のピース。同類だと、思わせるということ。悪人はいつだって孤独だ。誰も信用していないから、誰からも信用されない。でも、自分とよく似た人間なら、選択肢は二つ。好意を抱くか、拒絶するか。二つの選択肢を好意に傾けるために、ピースをもう一つ。
「嘘、嘘、嘘。ほんとのおまえはどこにいるんだ? ああ、そうだ。この間の事件は知っているか? 角のパン屋のおっさんが怪我をしたって。おまえも――ああは、なりたくないよな?」
どう怪我をしたかなんて誰も知らない。知っている口ぶりなのは、彼が犯人だからに違いないだろう。悪辣に笑う彼に、わたしはむしろ笑みを深めて、彼の胸に飛び込んだ。思わず抱き留める虹君を見上げて、つり上げられた口角をなぞるように、手を当てる。
「あのおじさんは、虹君のことを馬鹿にしたから報いを受けた。あの男も、あの男も、ああ、あのときだってそう。誰も彼も、あなたよりも悪辣になれないくせに、中途半端な悪に浸って笑ってる。ええ。わかるわよ。だってわたしも――許せないもの」
最初に、虹君に感じたのは“怒り”だった。悪人が怒りを抱く理由は、たいがいは、己のプライドを傷つけられたという独りよがりな理由だ。
だから、わたしも、それに倣う。ただ自分と似ているだけだったら、同族嫌悪が勝るだろう。自分は独りで良いというプライドと、自分が嫌いだという根底が重なるから。
でも、理解者なら?
「ねぇ、わたしにも報いを受けさせる? いいよ、それでも。好きにしたら良い。ただ――ふふ、そうしたら、必ず、あなたの喉笛を噛みちぎって、道連れにしてあげるから」
「く、くく……そいつは怖ぇな。ああ、だが良いさ。おまえはそれで良いし、そうしていれば良い。だが、オレから逃げようとするのなら――そのときは、オレはおまえを噛みちぎってやるよ」
歯を見せて、怒りと嫉妬の狭間で笑う虹君。うん、それで良い。そうしてくれたら良い。首元に虹君の顔が埋まるように抱きしめる。きっと、わたしは今、とても優しい顔をしていることだろう。
だって、彼は、求めてくれた。愛して、狂って、欲してくれた。こんなにも嬉しいことはない。虹君が舞台袖で膝をつくと、また、わたしの独白を挟む。そうしたら。三人のシーンでフィナーレだ。
「虹は、悪人。気ままでわがままで横暴で、けれどいつだって自分の仲間を探している。わたしはそんな、自分が一番でしかなかった彼の“一番”になりたかった。そうすれば、彼の中でわたしが、宝石よりも価値のある物になると知っていたから」
大事な物をかき抱くように、手を広げ、抱きしめる仕草をする。
「その欲望の名を、独占欲、と呼ぶ」
欲望の蒐集。それは、なんて心地よいことだろうか。うっとりと頬を染め、大好きなお菓子にでも触れたかのように笑みを浮かべ、見渡すと、自然と観客の様子が見える。息を呑んで見守る観客、と、あ、れ?
観客と、監督。監督の表情は、なんとも満足気だ。それは、期待していたものを見ることができたという満足感。及第点だと、語る目。
わたしの演技は、予想の範疇でしかなかったという、証左。
わたしと、私の演技で、心を動かすまでには至らなかった? 感動を与えるほどではなかった? その程度でしかないと、思われた?
――意識を埋没させる。
――身体の奥に潜る。
――魂の淵へと触れる。
――蓋を開けて垣間見る。
薄く目を開けば、真っ白な世界に立っていた。目の前には水面のような壁。その向こう側は、延々と続く闇。その闇の中で、ぼうっと浮き上がるように佇む女性の姿に、胸が締め付けられるような、懐かしさを覚える。
わたしが水面に近づくと、彼女もまた、近づく。鏡あわせの行動。直感的に理解させられる――彼女は、わたしの半身だ。今まで、見えないように、見ないように、蓋をし続けてきた。けれど、あのとき、彼女に触れたから、きっと、近づくことができたのだろう。
(きっと、わたしたちは、舞台の上でこそもっとも深く触れ合える)
ああ、でも、だからこそ、怖い。わたしの半身。わたしを受け入れてくれた、わたしの守護者。わたしの大切なあなたを、こんな、見返してやりたいだなんて欲望に付き合わせて良いのかな。
そう、水面に触れれば、壁越しに指が触れあって波紋が生まれた。その向こう側で、彼女は、鶫は――
『見返す? はっ――上等』
――獰猛に、そう、笑った。
――/――
今日は観客席。監督役でもない、ただ一人の観客として、彼女たちの演技を見る。インターバルが来てつぐみちゃんの独白が終わると、少しだけ彼女が俯いた。それで、我々も僅かに息を吐く。
やはり、以前から思っていたことだが、彼女はエチュードに強い。即興で組み上げる舞台の構築力は、他の追随を許さない。これならエマ君も、満足だろう。そう思って、見上げれば、やはり満足そうに笑っていた。先ほどの苛烈な笑みからは想像もできないほど、彼女は落ち着いた監督だった。
あとは、つぐみちゃんが仕上げに入って終わり、というところだろう。破滅、ということだった。こうまで強烈な二面性を見せた以上、次は二人に見限られて破滅をするように持って行く、といったところだろうか。となると、彼女自身が己に課したテーマは、“絶望”といったところかな。
膝をついていた二人が立ち上がり、つぐみちゃんを挟むように左右に立つ。最初にレオ君の方へつぐみちゃんが駆け寄ると、後ろから、虹君が手を伸ばした。
「おい、つぐみ。――それは誰だ」
「虹……なんで、ここに?」
「そんなことはどうでもいいだろ。そいつは誰だって、聞いているんだ」
……やはり、上手い。霧谷桜架の再来とまで言われる子役。どんな場面でも演じきって見せる天才の一角。この一言の中に、嫉妬と、信じたくないという年相応の希望さえ滲ませている。白くなるほど握りしめられた拳は、不安の表れだろうか。
「彼女はおれの友達――いいや、大事な人だ。君は確か……この辺りを率いるチンピラだろう? 彼女のような善人に、君のような姑息な悪党は似合わない」
つぐみちゃんが連れてきた金髪の少年。無名とは思えないほどに、彼もまた、上手い。荒い言葉遣いはしないかのように見えた彼が、こうも強い言葉を使う理由は、つぐみちゃんと虹君の間を行き来する視線からも読み取れる。親しげにつぐみちゃんに話しかけてきた虹君の様子から、気づきたくないことに気がついてしまった不安を、あるいは怒りを、ぶつける先を探しているのだろう。
「はっ、それが善人? なぁつぐみ、言ってやれよ。騙してましたってさ」
「君に同情していただけだろう。さ、つぐみ。なにも言わなくて良い。おれの後ろに隠れるんだ」
求めている。二人とも、口に出すか出さないかはどうでも良いんだ。ただ、つぐみちゃんに選ばれることを望んでいる。どちらか選べばそれで終わることだ。ああ、でも、あんなにも求めていた彼女が、そんな風に、選べるのだろうか。答えはもう、見えていることだろう。
「わ、わたしは、ち、違うの、レオ」
言葉にすることを望まなかったレオ君に言葉を掛け、彼は俯く。
「っ」
行動に示すことを望まなかった虹君の方へ向き直り、彼は唇を噛んだ。
「は、はは。騙されていたのは、おれか」
「違うの、レオ!」
「近づかないでくれ。もう、放っておいてくれ」
そう言って、レオは舞台袖に消え、片膝をつく。
「チッ……結局おまえも、他の奴らと同じだったってワケかよ」
「待って、虹!」
「近づくな! 報いも何もどうでもいい。一生一人で言い訳してろ」
「っ」
つぐみちゃんの手を振り払い、舞台袖で膝をつく虹君。
一人残されたつぐみちゃんは、舞台の中央でぺたりと座り込む。両手を眺め、嘆くように顔に当て、絶望の表情で天を仰いだ。
うん。テーマに沿った素晴らしい演技だった。エマ君も充分満足したのだろう。手を上げて、終了の合図をしようと口を開き――
「ふ、ふ、ふふふ、っあは」
――その手を、止めた。
(なんだ? 空気が――変わった)
ぴりぴりと肌で感じる緊張。エマ君を見れば、彼女もまた息を呑んでいる様子なのがわかる。原因は言うまでもない。つぐみちゃんが上げた笑い声だ。愉しそうに、嬉しそうに、あるいはそう、快楽に溺れているかのような。
「レオは素敵な人だったわ。善人でお人好しで、だからこそ人を疑うことを知らない。でも、もうだめ。騙されてしまった彼は、これからずっと誰かを疑ってしまうようになる。だってもう、傷つきたくないんですもの!」
宝物を胸にしまい込むように、乱雑に壊してしまうかのように、悪戯気に笑う少女。己の身体を抱きしめる指先は、快楽を求めるように動く。やがてその指は己の喉に伸び、緩く、絞めた。
「虹は格好良かったわ。一匹狼でプライドが高い。誰にも彼にも攻撃的で、だからこそ、懐に入れた人間には甘い、頼れる人。ああ、でも、残念だわ。彼はもう、誰も懐に入れることができない。だって、あんな裏切られ方をしてしまったのだもの!」
ああ、そうだろう。求めるように伸ばされた手。その手が、小指からゆっくりと折りたたまれ、握りつぶす。手のひらにのせたのは、彼が見せた、ひとかけらの優しさだろうか。まるで一羽の黒い蝶が無惨に握りつぶされるような姿を、錯覚した。
「わたしは見限られてしまったわ。わたしが、二人が鉢会うように動いたおかげで! ああ、でも良いの。これからどんなに時間が経っても、彼らの心にわたしは残る」
それが、目的だったのだとしたら。
「あんなにわたしに思いを寄せていた二人がわたしから離れて、きっと、この町の人々だってわたしを疎むわ。誰も彼も、心に猜疑心を抱いて!」
彼女の、目的は。
いや、彼女の欲望の名は。
「ああ、それはなんて――」
己の頬に手を当てて、つぐみちゃんは笑う。瞳の奥に熱を宿らせ、熱い吐息を零し、恍惚と嗤う。
「――気持ちが良いの」
そう、そうだ、その欲望名はきっと――破滅願望と呼ぶのだ。
「っ、こんな、ことが」
短く呟かれた言葉が、私にも届く。私と同じように、エマ君も驚愕しているのだろうか。そう、エマ君の様子を窺うと……彼女は、今のつぐみちゃんと実によく似た表情で、嗤っていた。
「ああ、ああ、ああ、素晴らしい、素晴らしいよ。く、はははははっ、予想外だ。こんな出会いがあるなんて、私は――ボクはなんて幸運なんだ。くふ、ふっ、ははははは!!」
ああ、ううむ、このタイプの人間はこの業界に生きていると時々見かける。自分自身よりも、効率よりも、合理性よりも、飛び抜けた作品の追求をする“面倒くさい”タイプの人間。
「カット! ――ボク……んんっ、私は決めたよ、今日、“運命”を書き換える」
演技の空気が霧散して、いつものように無邪気な様子で首をかしげるつぐみちゃん。そんな彼女に、私は、内心でひどく同情していた。
「ああ、ああ、人生には驚愕が満ちている! くふふふふふふふふふはははははは!!」
厄介な人間に目をつけられてしまったようだね、と。




