朝ぼらけ 2
再びあの板張りの大部屋にて。その真ん中で正座をさせられていました。
目の前に高座に座る綾子さんも腕の包帯以外はすっかり包帯も取れ、居並ぶ人々の視線を一身に受けながらすらりと座る姿も堂々として美しい。
「では、改めまして纏異として鬼縫に加わっていただくに当たりまして、正式に辞令を言い渡します」
という綾子さんの宣言。それからは諸々、長ったらしい口上がたくさんあって、その中で、
「纏異殿には今後、「奥の蔵」管理をお任せいたします」
と言われて、昨日も聞いたような内容を只頭の中でなぞっていた私ははたと覚醒した。
「え、はい?管理ですか?」
黙って聞いていれば終わるものを、思わず口から疑義が零れる。
そんな私の言葉にいち早く反応してくれたのは、綾子さんの脇で書類を片手に控えていた全市さんだった。
「あーうん、あの蔵については全面的に君に扱いを預ける事にしたんだ。ひいては鬼着の管理を一任するってことだね。だから君にはあの蔵を、まぁぶっ壊すってんでないなら基本的に好きなように、自由にしてくれてかまわないってことだよ」
親切に答えてくれる、サラサラの坊ちゃん狩り?姫カット?が似合う綾子さんの兄。鬼縫の「織り」という何かと忙しいお仕事をしているらしい全市さんが、その細い目をもう一段細めて微笑んでくる。
「あ、ありがとうございます。いやでもですね、管理と言われても何をすればいいか・・・・」
それにだ、こんな豪邸の一角を自由にしていいと言われても、私のような凡百の人間にその全権を与えられていいも持て余すというか。そもそもどうしたらいいのかさっぱり分からない。
おまけに、今は蔵の中も荒れ放題。納められている鬼着達が入る人にどんな影響を与えることか分からないからと、八重ちゃんを始めとした・・・・確か「紡ぎ」という人たちでないと入れないそうで。使用人さん達が中に入れない為その片付けの進行は実に遅々としたものであった。あの大穴についてもどうにかしろと言うのか、いや、開けたのは私ですけど。
「まぁそう気負わなくていいよ。要するに鬼着は一種の危険物、一級の呪物なわけだ。一般人は勿論、下手に接触しようものなら僕らだってどうなるか分からない。そんな中で、君はあれらと何の問題もなくコミュニケーションが取れている。つまり、一番安全に扱える人にお願いするのが筋って事さ」
ぶっちゃけると丸投げってことなんだけどね、と付け足した全市さんの脇を隣の壮年の男性が肘で小突いた。どうにも一言余計なところがあるらしい。
全市さんの解説が終わったのを確認したのか、綾子さんが一つ咳払いをして注目を集め直すと、私を見やりながら改めて口を開く。
「・・・・概ね全市殿言う通りです。鬼着は、纏異以外が接触するのは危険な物。あれらの扱い、並びに蔵の管理を全てあなたにお任せいたします。勿論、協力が必要であればなんなりと申しつけてください。それと蔵の修繕についてですが、差し当たって・・・・」
「・・・・・・・・しっかし汚いなぁ、ぼちぼち脚立借りに行くかぁ」
そうしてこの「奥の蔵」をどうこうする権利を得た私がその後、とりあえずと、挨拶がてら訪れた蔵にて改めて直面した現実に対する回答が今朝である。
まぁつまるところ、何をするにもまず掃除である。
何せ鬼縫の人は勿論、絹居の使用人さんにしてもここは危険地帯で、これまでもまともに掃除などできることはなかったそうだ。
屋根や焦げ付いた床・壁の張り替えなどの為に業者さんを入れるとは言っていましたけれど、まずは危険物である鬼着や抽斗の中の小物さん達を退かさないといけないし。差し当たってまずは片付けてくれというのが綾子さんの指示だった。
私としても、せっかく交流を持った着物さん達を焦げ臭い蔵の中にほったらかしておくのも忍びないと思ったわけで、さっそくその清掃と移動の作業に入ったというのがこれまでのいきさつ。
で、昨夜やった片付けに引き続いて、頑張って早起きして日の出前から作業した甲斐もあり、床はとりあえず綺麗になりました。
掃除は上からがセオリーですが、流石にあの足元ではこれから作業に入る業者さんもやりづらかろうと思いまして。とりあえず手の届く箪笥を叩いて磨いてすぐ床掃除を始めた次第です。
行李についても丁寧に雑巾と布巾で、竹細工の隙間にびっしりと入り込んだ埃も叩いて落としてすっかり綺麗になりまして。作業としちゃあまだまだ始まったばかりですけれど、あまり時間をかけられない事情がありますので、とっとと進めたいと思います。
というのも、今日は綾子さんと出かける予定なのだ。
「おはようございます」
蔵を出て、渡り廊下にある中庭向きの掃き出しで体についた埃を払っていた私に、斜向かいの縁側から声がかかる。
纏う白い浴衣は、先日までに何度も見たお着物(紬という部類だそうだ)とは違い、その造りは簡素で華やかさこそないけれど、着る人が着ればこれはこれで幽玄な美しさを紡ぎだすと云うもので。ただの寝間着をして、着用者の魅力が、その立ち姿が、儚くも凛とした印象を見るものに与えてやまない。
寝る時はそうしているのだろう、長く、黒炭を思わせる艶やかな煌めきを放つ特徴的な黒髪を、肩の辺りでひとまとめに縛って胸の方へと流している。白い首からしゃなりと流れる黒い緩やかな流線が、浴衣の白の上に一筆書きのように妖艶な存在感を発している。
肩から臙脂色の半纏を羽織っていて、その内側には白い三角巾で括られた腕が覗いていた。
開け放たれたガラス戸の縁に添えられているのはその半纏の裾から伸ばされた自由な方の腕。朝焼けの茫洋たる光を受けて、その透明感に拍車をかけるゆるりと優雅な立ち姿は、絹居家御令嬢にして、退治屋“鬼縫”の現当主様たる絹居綾子さん。
私に色々と無茶を言い、どうやらさらに上の人からよりひどい無茶を言われているという、私が出会った人間の中でもとりわけ格別の、絶世の美少女である。
「朝から精が出ますね。言ってくだされば、人をやりましたのに」
言いながら、傍の棚から草履を出して踏み石の上にそっと置く。
その薄い唇から紡がれる低くも通りのいい声は、晴れ間広がるこの冷ややかな朝に相応しい。
「いえ、だって蔵の中で作業できる人は限られているんでしょう?無理は言えませんよ」
チャシッチャシッとゆっくり庭の玉砂利を踏みながらこちらに向かってくる音を聞きながら、服のアチコチについた埃を払う。
「管理を任せるとは言いましたけれど、別に独りでどうこうしろという訳ではないんですからね。昨夜も、八重が寝てからも小物の移し替え作業を一人でしていたそうじゃないですか。言ってくれれば、ちゃんと他の「紡ぎ」にも手伝わせますから」
「バレてましたか」
ハハハ、と笑いながら見やれば、綾子さんは庭の中心で蔵を見上げている。
真っ白な玉砂利と縁側、木枠の色も鮮やかな日本家屋の傍に立つ松の木。
それらを背景に立つ姿は、雑誌のグラビアにもそのまま使えそうなほど決まっている。
蔵を見上げる当の綾子さんの瞳は、私にはどうにも読み取りづらい色をしていた。
憂いなのか呆れなのか。そのアンニュイな表情がまたこの景色に映えて、まるで一枚の絵画のようだ。
徐々に上りつつある朝日が塀越しに顔を出しはじめ、綾子さんの立つ中庭にも橙色の陽光が差し始める。
日の光が目に入るのを嫌ったのか、さっと目を伏せた綾子さんがこちらに近づいてきた。
「あぁ、もしかして急がせてしまいましたか?今日は出かけるという話でしたものね」
「あー勿論それもありますけど」
「でしたらそんなに急がなくてもいいのですよ?出かけるのは日暮れ頃ですから」
言いながら私のいる縁側まで来て腰を下ろした。
シュッとした背筋。私は立っているため、綾子さんの綺麗なつむじが良く見える。
「いやいや、それにしたって早くからやっといた方がいいですよ。業者さん、お昼には来るんでしょ?」
「昨夜から作業していて、残っているのはほとんど鬼着だけなのでしょう?別に掃除までする事ありませんよ」
そういって蔵の中に目を向ける綾子さん。まだ出しっぱなしのバケツを見ている。
「それもそうなんですけどね。ほら、鬼着さん達とおしゃべりもしたかったので」
つまるところ、私の一番の目的はそれだったのだ。
昨日の会合、そして先日の盃の件。正式に纏異というお仕事を請け負うと決めた以上、やはり鬼着さん達から色々と話を聞いておきたかったのだ。
とはいえ、鬼着さん達の声は基本的に皆には聞こえないらしい。
ということは、真昼間に独り言を言いながら掃除をするハメになるわけで、流石にその光景を使用人さん達が見聞きしてしまうというのは気が引けた。
ので、早起きしたというのも大なりなのである。
人手をなるべく借りたくないのも、どうせ話しかけてくる鵯さんや松割らに対応する姿を、あんまり他人に見られたいものではなかったというのもあったりします。
「・・・・ま、そんなところでしょうね。では、私は日課がありますからこれで。依子さんも、朝餉には遅れないでくださいね。ほどほどに」
そう言って立ち上がると、さっき降りた縁側まで足を向ける。
「わかりました。それじゃまた」
見送る私を一瞥して、白百合のような後姿が去っていく。
あまり長々見送っても悪いと思って、さてと振り返り蔵へと戻る。
中の水を変えようと入り口に置いていたバケツを持ち上げると、蔵の中から忍び笑いが零れてきて訝しむ。
「ん?なに鵯」
特徴的甲高さからすぐ鵯だと分かる。このヒトの特性らしいのだけれど、やたらと耳ざといので今の会話の事だと思うけど。
「ンフフフ・・・・いえネ、なんだかたった数日で随分ナカヨクなられたものネェって」
なんだかからかわれている気分だが、別に何が悪いわけでもない。確かに、多分顔を洗うついでなのだろうけど、わざわざ顔を出してお話しにきてくれたんだし、仲良くなれたのならそれはそれは喜ばしいことで。
「別にいいじゃん。私はずっとツンケンされてるよりありがたいもん」
「ウフフ・・・・イエイエ、ネェ、そうねぇ。フフ・・・・まるで姉妹、というには、まだまだカタいとは思いますけど。ウフフ、仲がいいのは良い事よネェ」
何が言いたいのかと訝しむ内に、ふと今の「姉妹」という言葉が引っ掛かる。
「・・・・鵯さぁ、もしかして」
「アァ!エェ!別にネェ!お二人の間だけの事ですかラ!エェエェ!アタクシは何も!フフフフ、密やかで秘めやかデ、エェ、とっても可愛らしいなぁト。フフフフ・・・・」
疑念が確信に変わると共に顔が急に熱くなる。
「・・・・まっさか・・・・!鵯もしてかして!アンタ出歯亀してたの!?」
「出歯亀なんてそんなァ!エェエェ、勿論アタクシは何も言いやしませんヨ?お二人の秘密ですからねぇ!お二人だ・け・のネェンフフフフ」
別に変な事してたわけじゃないけど!なんかこう!恥ずかしいじゃないか!
今思い出しても口元が緩んでむずむずするような変な感じなんだから!
「オイオイなんだよ、おもしれぇ話なら聞かせろよ」
「松割は絶対ダメ!」
「そうデス!オンナノコの秘密なんですよ?!自重してくだサイ!」
「アンタが言うな!」
「おや、でしたら、私にはお話いただいても?」
「ンフフー、後でネェ」
「シラサメさんまで!ダメに決まってるじゃないですか!綾子さんに悪いでしょバカァ!」
どうせこういう事になるから一人で作業したかったのだ。
意外に姦しいシラサメさんに驚きつつ、朝ごはんまでの時間を引き続き掃除にあてるつもりだったのが、ほとんど鵯への糾弾に費やされることになってしまったのだった。