平成23年3月21日(月)
今日は牡鹿半島の鮎川港に対する港湾調査が行われた。
午前中に作業艇で派遣隊が赴き、現地の人から要望などを調査したところ、やはり燃料が欲しいとのことだった。
午後はその要望にあったガソリン20リットル及び2号軽油 40リットルを準備し、さらに慰問品等もそろえて再び派遣隊を出すことになった。
僕はその午後の便に作業員として指定された。
久しぶりの派遣作業だったので、素直にうれしかった。
鮎川港は先日、双眼鏡で確認していたのだが、そのときの認識としては「大した被害はなかったのかな」という感じだった。しかし、実際に作業艇で陸岸に近づいてみると、それは認識違いであることを思い知らされた。
湾内は漂流した索や網だらけなのはもちろんのこと、陸岸には多数の漁船が打ち上げられているのが確認できた。その上空を多数のうみねこが舞っており、遠目にそれを見た僕は心の中で(あの下には遺体が打ち上げられているんじゃないか)と思った。
宮戸島と同様、地盤が沈下し海面スレスレまで下がってしまった岸壁に着くと、いきなり不気味な音が僕たちを出迎えてくれた。
まるで何か怪獣の唸り声のようだった。
最初は、押し流されて一階が吹き抜けのようになってしまった正面の建物を、風が通り抜けてそんな音を出しているのかと思ったが、そうではなかった。
僕たちが降り立ったのは、港内で一番大きい接岸場所、定期航路・観光船用の船着き場だった。海に突き出たコンクリート製の岸壁は、海中に建てられた鉄柱によって底を支えられており、下は吹き抜けになっていた。
満潮時などの空気抜きのためか、コンクリの地面には無数の穴が規則正しく開けられており、そこから波によって押し出された空気が上へと勢いよく吹きあがることで前述の不気味な音を出していたのだった。
鮎川港は、想像するに被災前は石巻や網地島などを結ぶ定期航路、金華山を巡る観光船などの発着場として、或いは地元でとれる水産物などの販売を生業とした土地だったのだろう。
しかし、実際に上陸してみると、そこに広がるのは無惨な災害の傷跡だけだった。
作業艇を横づけた港一の大きさの船着き場は、地盤沈下で大きく沈み、防舷物 に付着した貝の後などから、その下がり幅は1メートル程度と思われた。
その前を通る道路は、あちこちで地震により持ち上げられ、津波によって無惨に引き剥がされていた。幅10メートル、厚み3~40センチもあるアスファルトが持ち上げられ、岸壁近くにあった公衆便所の入り口に突っ込んでいた光景は衝撃的だった。
その隣の船の待合い所兼お土産センターの建物は、1階がほとんど根こそぎ持っていかれており、内部はがらんどうに近い。裏手が町のメインストリートのようで、ほかに立体駐車場や数件の土産物屋・旅館などの姿も見えたが、ほとんどが2階まで津波により荒らされている。
岸から数百メートル奥は高台になっており、そこに建つ住宅などは被害を免れたようだが、港と同じ高さに位置していた住宅などは跡形もなく流されたようで、後には瓦礫と木材の積み重なりしか見えなかった。
それでも高台の手前で津波は引いたと見え、最奥に位置する何棟かの住宅は残っていた。だが一階はぐちゃぐちゃで、人の住めるようなものではない。
かつては捕鯨基地として栄えていたのか、海側から向かって右手には、名残としてかつて活躍したと思われる捕鯨船が展示されていた。
岸壁に陸揚げされ、頑丈なコンクリートの土台に固定された船は、皮肉なことに無傷であった。舳先には「第十六利丸」という名前。背後には博物館らしき新しい建物も見え、瓦礫などは多いものの、一帯は比較的被害が少なそうだった。
港の中央には僕たちのいる船着き場、そして左手に広がるのが漁業施設のようで、今は陸自の災害派遣部隊が重機などを使って捜索をしているようだった。
やはり、自分のいる船着き場のそば、メインストリートがあった場所が一番被害が大きいように見えた。何しろ至るところで車がひっくり返り、潰され、道路は剥がされ、木造建築物が無惨な姿に変わり果てているのだ。何人か、地元の住民がさまよう姿が散見されたが、誰も彼も力無く表情は乏しい。この光景にはどうも、目を背けるほかになかった。
しばらく岸壁でぶらぶらしていると、やがて役場の人が車でやってきた。
忙しいのか、空の燃料缶とポリタンクを置くとすぐにどこかへいってしまった。機関科の作業員は僕だけだったので、必然的に燃料を移し代える作業を始める。
作業艇艇長である1分隊の海曹も手伝ってくれたので、それはすぐに終わってしまった。
後はずっと被災地の観察に没頭した。岸壁の沈下幅、捕鯨船周辺の状況、町の破壊状況などはすべてその間に見たものだ。まるで怪獣映画か戦争映画に取り残されてしまったかのような錯覚に陥り、改めて自分は日常の中の非日常に触れてしまったのだと感じた。
自販機が破壊され、中の機械や缶を収納していた骨組みがすべて引きずり出されていたのも見た。おそらく被災した人たちが壊して持っていったのではないだろうか。そんな光景も、ここでしか見ることはできない。
上空にはヘリが次々とやってきた。
陸自や警察、それにUSネイビーのヘリも。ちょうど岸壁の反対側には小高い山があり、その上に建つ建物(恐らく避難所)の敷地内に降り立っているようだ。
自艦Wから持ってきた物資は、どれほど役に立つのだろう。そして岸壁に立つ僕の頭上には、数多くのうみねこが空を舞っていた。ミャアミャアという声が何度もこだまし頭の中に残響する。まさに「うみねこのなく頃に」 だ。
やがて、艦の方から満潮の予定時刻を知らせる声が無線機を通じて届く。
完全満潮まではまだ余裕があったが、その上げ幅を聞いて驚いた。
なんと自分たちのいる岸壁は完全に沈んでしまうらしい。よく見れば、岸壁と海面の差は20センチほどしかない。上げ幅は40数センチ。
指揮官である2分隊幹部たちが役場の方に行っていたので、自艦Wの無線で呼び戻してもらい、慌てて作業艇を離した。1300過ぎに到着してから、わずか1時間半程度の出来事だった。
漂流する索に錘をつけて沈める作業を繰り返しながら、Wに帰艦したのが1500頃。短いものだったが、非常に濃い時間が流れていたように思う。
その後は洗濯や入浴などをし、ゆったりとした時間を過ごした。
夕飯はサンドイッチ2個と焼き鳥2本、パンの耳を揚げて砂糖をまぶしたもの、ほかに豚汁というメニュー。本日の昼食は缶飯であり、いよいよ船の食料も残り少ないらしい。
それでも調理員は工夫を凝らし、飽きがこないよう努力をしていた。全く頭の下がる思いだ。ただ、栄養の偏りが心配だったのでビタミン剤を定期的に飲みはじめている。
夜のニュースでは、復興・捜索作業のための重機の燃料が足りないのだと、地元建築業の人が話していた。いやいや、僕の足下にある燃料タンクにはアホみたいに燃料があるというのに。その建設会社が一日重機を動かすのには、軽油3キロリットルあれば事足りるらしい。
陸上自衛隊の燃料を分けてもらってやりくりしているとのことだったが、うちにだって軽油が腐るほどある。
つくづく、こういうのはうまく行かないのだなぁと思った。
届けようにも輸送手段がない。そもそも、大型艦を横付けられる港もないのだ。
そんなことをうだうだ考えつつ、今日はもう寝ることにする。明日の予定はまだ未定だが、どうやら2週間程度災害派遣に従事したら3日ほど補給のため横須賀に戻れるらしい。
まだわからないが、その日を楽しみにしつつ、今の自分の持ち場を守ろうと思う。
(注1)
艦艇の主機、発電機用の主燃料。
(注2)
岸壁と船がぶつかって破損しないよう、主にゴムでできた緩衝材が双方に備えられている。防舷物とよばれ、風船のように中に空気が注入されたものや、分厚いゴムの柱のようなものなど様々なタイプがある。
(注3)
竜騎士07原作の2009年に放映されたアニメーション作品。ちなみに僕はどんな媒体の原作でもとりあえずアニメから入る派。




