第一発見者
随分前の話になるけれど、僕が住んでいた町は何の変哲もない住宅街で、一軒屋の自宅がある通りは、一軒だけアパートが合って、あとは同じような戸建が並んでいる場所だった。
奥が突き当りで少し広い家があったけれど、どんな人が住んでいるかは知らなくて、唯一、お隣さんだけは少し年下の男の子が住んでいたこともあって、おばちゃんたちの顔も憶えていた。
色々とお世話になったと思うけれど、男の子やおばちゃんの顔と一緒に、ほとんど忘れてしまった。
それくらい昔の話。
もう一人だけ、交流は無かったけれど憶えている人が居る。
当時中学生だった僕から見ての推定だから不正確だと思うけれど、痩せて皺が多くて、八十歳くらいに見えた。
特に印象的だったのが、左手が金属の棒で、先が少しだけフック状になっていたこと。夏でも長袖を着ていて、どうなっているかは見えなかったけれど、肘を曲げて動かしているのは見たから前腕のどこかから切断したのだろうと思う。
お爺さんは斜め前にあったアパートの二階に住んでいて、ときおり自転車で出かけたり帰ってきたりするのを見かけた。
仕事をしているわけでは無いみたいで見かける時間はバラバラ。
僕は何故か「パチンコに行っているんだな」と思い込んでいたけれど、理由は憶えていない。
ひょっとすると何か景品的なものを抱えて帰ってきたのを見たかもしれないし、父親がパチンコを好きだったから、そう思い込んだのかも知れない。
思い込みと言えば、僕は中学から高校に上がるまでずっとお爺さんのことを「戦傷を受けた人」だと思い込んでいたけれど、これも出所不明の記憶だ。
いずれにせよ、見た目は不自由そうにしていて、でも誰かに手伝ってもらっているとか、誰かと話しているとかいうところは見たことが無い。
アパートはワンルームで、一人暮らしなのは間違いない。
尤も、一人暮らしだと確定したのは、彼が亡くなったときのことだけれど。
「警察が来てる……?」
朝起きて、二階にある自室のカーテンを開けると、目の前にある道路を挟んだはす向かい、お爺さんがいるアパートにパトカーが停まっているのが見えた。
不思議とは思いながらも学校に行く準備をして一階に下りると、母親が朝食を用意していた。
「なんか警察がいるんだけど。何かあった?」
「お向かいのアパートのお爺さんが亡くなったらしいよ」
「あの人が?」
あら知ってたの、という反応をしていたけれど、そこまで詳しくはないと答えて食事を済ませた。
それから数日経って、詳しい内容を知ることが出来た。
それもまた母親からの情報で。お隣のおばちゃんがお爺さんが亡くなっていたのを見つけて、その話題で数日ずっと近所は話題になっているらしい。
「自殺だったらしいのよ。それもドアの外で首を吊ったみたい」
そういう話を中学生の僕にするのもどうかと思うけれど、今思えば変に隠されるよりは良かったと思う。
「一人暮らしで身よりも無いとかいう話を聞いたけれど、どうするんだろうね?」
やっぱり一人暮らしだったか、とか、訪ねてくる人が居なかったのは、家族が居ないからだったか、とか色々考えたけれど、発見した時の状況のインパクトの方が強かった。
二階の、階段を上がってすぐの部屋がお爺さんの部屋だった。
ドアを出た目の前、波板の屋根を支える通路の梁にロープをかけたお爺さんは、家の中から引きずり出した椅子に乗って、ロープで作った輪に首を通した。
扉は鍵がかかっておらず、遺書があったかどうかは僕が聞いた話にはなかった。でも、なんとなく遺書は書かなかったんじゃないかと思う。根拠は無いけれど。
椅子を蹴り飛ばしたお爺さんが、ロープだけでぶら下がったのはいつだったのかはっきりしない。真夜中だか早朝だかわからないけれど、誰にも見られず、一人で黙々と準備したのだろう。
何年も一人ぼっちで暮らしていたお爺さんは、どうしてその時に死のうと思ったのだろう。
僕の部屋から、お爺さんが首を吊った通路は見える。
早朝の散歩に出た隣のおばちゃんが見つけていなかったら、ひょっとすると僕が第一発見者になっていたかも知れない。
お爺さんの死についてある程度話を聞いた夜、僕は本を読んでいたけれど、気になって何度かアパートの方を窓から眺めてみた。
六部屋あるアパートはどこにも電気がついておらず、何度見ても、夜中になっても灯りが点くことはなかった。他の住人も出て行ってしまったらしい。
お爺さんは誰にも見つからないまま、身体が朽ちて行くのを耐え切れなかったんじゃないかと思えてきた。
動きはゆっくりで、深い皺が目立つ顔だったけれど、決して不潔というわけではなかったし、自転車も古かったけれど、ちゃんと手入れされていて、音がうるさかったりもしなかった。
それから数年経って、一人暮らしを始めてから数ヶ月、酔って帰ったアパートの中で、ふとお爺さんを思い出したことがある。
「このまま孤独死したら、どれくらいで見つかるだろう?」
友人も居て隣県に住む恋人もいる。でも異常を感じて見に来るにしても二週間くらいは先になるだろう。離れた場所に家族もいるが、連絡はそんなに頻繁でもない。
「身寄りがないなら尚更か」
人が孤独死して、そのまま腐っていく過程を本などで知ってはいるけれど、自分がそうなるイメージは難しい。
でも、お爺さんは自分が高齢であることで不安が募ったのだろう。
家族はいない。
それに親しい友人が居らず、職場などがなければ?
「怖い、と思う」
酔いが醒め始めた頭で考えた結果は、お爺さんの行動に対する理解だった。
「誰にも見つけてもらえずに、一人で朽ちていくのは耐えられなかったんだろうなぁ」
死んだ後の孤独を想像して、それが日に日に現実味を帯びてくる日常を過ごしながら、お爺さんはとうとう耐えられなくなったのだろうか。
自殺することそのものを良いことだとは思えないけれど、孤独に死んでいくのをただ待つだけなのは苦痛だと理解できた。
僕はふと思い立ち、携帯を取って恋人に電話をかけた。
「もしもし、今大丈夫? 飲み会が終わって帰ってきたところなんだけれどさ」
若くても孤独死の可能性はある。でも、僕は自殺をするつもりはなかった。他に方法はあるはずだから。
「今度会うとき、合鍵を渡すよ」
“だから、時々は、気が向いたら、本当に急にでもいいから、会いにきてくれないかな”
たったそれだけのことを伝えるのに、まだ酔っていた僕は顔を真っ赤にしながら、十倍以上の言葉で薄めて恋人に告げた。