命の選択
注意)本作において医学的な部分に関しまして、真偽のほどは不明です。
多くの場合、人は病院で死ぬ。
家で眠る様に亡くなるのは稀で、何かあれば救急車で病院に運ばれ、たとえ途中で心臓が止まったとしても、死を宣告されるのは病院についてからだ。
「私の母もね、急に倒れて病院に運ばれまして。以前からちょっと調子は悪かったみたいですけれど、なんというか、まだ平気、まだ平気と言っているうちに悪くなっていたみたいで」
駅からタクシーに乗って、ホテルまで向かう道中のこと。
法事で遠方から来たと僕が言うと、彼はそんなふうに身内の死を語り始めた。
正直困惑していたし、飛行機と電車を乗り継いできて疲れてもいたから、行儀が悪いとは思いつつも、僕はドアに肘を引っ掛けるようにして身体を傾けるようにして聞いていた。
「母が病院に運ばれた時には、もう心臓は止まっていたそうで。でも今の医療って、心臓が止まってすぐとかだと死なないんですね。死ねないというか」
運転手も妹さんからの又聞きであまり詳しい状況は知らないようで、連絡を受けた彼が病院に着いた時にはもう、母親は意識が無いまま機械に繋がれていたらしい。
そして、延命治療が始まるわけだが、ここで運転手は以前に聞いた話を思い出し、集中治療室の母親から離れて、あることを家族に相談したという。
「何の時だったか忘れてしまったんですが、あの意識不明って状態、名前からして寝ているように見えても、“痛い”とか“痒い”みたいなのはわかるらしくて。何日も寝かされたままで、頭が痒くても注射針が痛くても、身体が動かせないって話なんですよ」
正直、ぞっとした。
金縛りにあったままで、点滴の針を抜き差しされるのも嫌だし、何よりどこかが痒いと思ってもまともに動けないままなのだ。
助けを求めることもできず、ただ医師と家族に全てを委ねるしかない。
「……それで、どうしたんです?」
聞きたくないような気もしたが、話に興味はある。
今は僕の両親も健在だけれど、同じような選択を迫られる立場になる可能性が無いわけでは無い。
車がぐるりとカーブを曲がり、夜の町を通り過ぎていく。
途中で歓楽街のような場所を通って、薄暗い公園がある方へと車は進んでいった。
「最初はね、すぐに生命維持を止めるなんてのはちょっと、って話も出たんですが」
運転手は少し明るいトーンで話を続けた。
どういうつもりだろうかと考えたが、ひょっとすると割と最近の話で、誰かに話すにも勢いが欲しいのかも知れない。
「やはり、私も妹も、母を長く苦しめたくはないと思いましてね。まあ、話せませんよこんなこと、本人の前で。だって、生きるのを止めさせる話なんだもの」
目的地まではまだ遠いのだろうか。
ほんの数分しか過ぎていない筈だが、随分と長い時間、重苦しい空気を味わわされているような気分だった。
「親父の希望でね、一日だけ、母親に我慢してもらいました。その時はね、親父も私も、妹だってすぐに踏ん切りなんてつきませんもの」
押し殺した笑い声が聞こえる。
いつの話かは定かではないが、そう何十年も前と言うわけでもないだろうけれど、運転手の中ではある程度折り合いがついているエピソードなのかもしれない。
「ご存じですか? 生命維持を止めるのに、家族の署名が必要なんですよ。それって死刑執行のサインと何にも変わりありませんからね。誰だってやりたくないですよ」
考えようによっては、死刑執行よりもっと悪い。
知る由も無いけれど、運転手がこうやって話す以上、彼の母親はそう悪い人では無かったのだろう。そんな人を苦しめ続けるのも、命を絶つのも、どの選択を取るのか家族の署名一つで決まるのだから。
僕は「知らなかった」としか答えようが無かった。
「でね、私と妹は一旦自分の家に帰ることになったんです。親父が心配でしたけれど、どうしてもそれぞれ一人で考えるべきだと言って。でも、それがいけなかった」
嫌な予感がしたけれど、僕は運転手の話を止めるのに、適切な言葉を出せなかった。
「親父がね、私と妹が家に帰っている間に、翌日の朝一で病院に行って、署名して来たんですよ。署名が終わって、生命維持装置を止める前に妹と私は病院に着きました」
勝手な真似をした、とも言えるけれど、運転手も彼の妹も、父親を責めなかったらしい。
「親父が何をやりたかったか、私たちには良くわかっちゃうんですよ。母親を死なせる選択を、子供たちにさせたくなかったんでしょうね。当人は、なんにも言いませんでしたけれど」
そして、生命維持装置は外され、母親は鼓動を止めた。
「簡単なものですね、人が死ぬってことそのものは」
医師が死亡確認を行い、死亡時刻が告げられ、記載される。
「はい、終わり。ってなもんですよ。後は通夜やら葬式やらの手配で、生きている人間のほうが大わらわ。会社に休みの連絡入れて、親戚に片っ端から連絡して、新聞にも載せて、なんてやっていて、気付いたら一週間。翌日は仕事だな、なんて」
忙しさが悲しみを薄れさせ、ショックを和らげてくれるものだとは知っていても、運転手はその時初めて“実感”したという。
「なんだかね、哀しくなったのは仕事が始まってからですよ。車を転がして、お客さん待ちの間に、ちょっとね……」
気付けば、指定したホテルの前で車は止まっていた。
「お客さん、着きましたよ」
「あ、はい……」
僕は表示された料金を払って、タクシーを降りた。
慣れた様子で下りてきた運転手は、トランクを開けて二つのバッグを手渡してくれる。
「私は、親父のお蔭で選択を逃れることが出来ました。でも、いずれそれをする時が来るかもしれないと思うと、怖くて眠れませんよ」
受け取ったバッグを抱えた僕は、一礼して運転席に戻ろうとする運転手を呼びとめた。
「どうして、そんな話を僕にしたんです? 別に不愉快とかじゃないですけれど……」
「何故でしょうね。ただ、誰かに言っておきたかったんだと思います。すみませんね、まだ、ひと月前の話だと思うと、親父に謝るべきか、感謝するべきか、なんとも決め辛くて」
「感謝で、いいと思いますよ」
「そうですか。……そうですね。では、ありがとうございました」
先ほどの会釈とは違い、深々と頭を下げた運転手は、先ほどとは違って、さっぱりしたような笑顔を見せて運転席へと入り、車を走らせて行った。
「多分、うん。良いと思うけれど」
今度は、僕の方が悩む番だった。
家族の誰かがそうなった時、僕は、署名できるだろうか?
答えが出せそうな気がまるでしないまま、僕は重い荷物を抱えてホテルのフロントを目指した。