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飼い犬

病気になって、老いて、それでも長生きしてくれた飼い犬の思い出。

 生まれて十六年。小型犬なので人間で言えば八十歳を超えているオスの飼い犬は、生後すぐにその家にやってきてからずっと、家族の一員として生きてきた。

 夫婦と二人の息子がいる四人家族の家に飼われ、室内犬として不自由なく過ごしてきたのも、長く生きてこられた理由かもしれない。

 それでも、老いは等しくやってくる。


 長毛種で目がくりくりと大きな犬だったこともあって、最初に目を患った。

 次第に見えなくなり、光の強弱が辛うじてわかるらしい程度まで視力が落ち、家の中を移動するときも、あちこちにぶつかることが増えていく。

 心配した家族は玄関や勝手口など段差がある場所には入れないように仕切りを設け、掃出し窓なども開け放しにならないよう注意をしていた。


 家族を安心させたのは、彼の食欲が子犬だった頃からほとんど衰えなかったことだ。

 自分の餌を食べ、おやつをもらい、それでも誰かが何かを食べているとすぐに気付いて駆け寄っていった。

 時折ちょっとした病気で注射された日だけはぐったりとしていたが、翌日にはすっかり元気にご飯をねだる。


 十三歳頃、目が悪くなり始めてから赤っぽい茶色だった体毛は色が抜け始めて白さを増し、歳を取って来たね、と言われ始めたころに後ろ足が悪くなった。

 後ろ足を引き摺る様になって、しばらくは動き回ることも億劫になったようで、寝ている時間が多くなった。足はどんどん悪くなり、とうとう立つ事もかなわなくなる。

 歳も歳だから、と弱っていく犬を心配そうに見守りながら、家族は犬の最期を覚悟した。


 しかし、一度彼は復活を遂げる。

 理由は獣医師にも不明だったようだが、再び後ろ足が動くようになり、ややぎこちないながらも歩き始めた。

 家族は撤去していた仕切りを慌てて取り付け、不思議なこともあるもんだ、と疑問に思いながらも家族の回復を喜んだ。


 それからしばらくは再び元気に家の中を歩き回り、お腹が減ったら母親に餌をねだり、誰かが食卓につくと横に寄り添っておこぼれを待つ、いつもの生活を続けていた。

 食欲があるなら大丈夫、と家族は安心し、それから二年。犬は十五歳になった。

 この年、犬は癌を患う。


 顔や体に腫瘍ができ、目に見えて体力は衰えていく。

 散歩には行きたがるし食欲はまだまだあるのだが、一目見て“終わり”が近い様子に、家族は再び覚悟をする時間が来たことを知る。

 まだ食欲があるから大丈夫。

 歩けるうちは大丈夫。

 そう言って自分たちを誤魔化しながらも、最期の時など来ないかのように、当人たる犬自身も変わらぬ振る舞いを続けていた。


 犬が生きている十数年の間、家族の方も変化している。

 両親は仕事が変わって勤務時間が変化し、それでも犬の為に母親は昼過ぎには帰ってくる生活を続ける。

 犬の体力が落ち、夜中に目を覚まして鳴くようになっても、母親は彼と共に眠り、泣き始めたらどんなに夜遅くとも撫でて落ち着かせた。


 特に犬と仲が良かったのは二人兄弟の次男の方であり、まるで自分の弟でもあるかのように―――あるいは本当にそう思っていたのかも知れないが―――接し、次男が怪我をしてコルセットを付けて自宅で安静にしていると、ずっと寄り添っていた。

 そんな次男も成長し、職を得て家を出た。

 働き始めは余裕も無い。そうそう実家に帰って来られるものでも無かったが、数ヶ月に一度次男が姿を見せると、誰よりも早く犬が出迎える。


 足が弱っても声を出し、動きが遅くなっても近づいていく。

 次男はそんな犬と友達のように付き合い、並んで昼寝をしてから一人暮らしのアパートへと帰ることも度々あった。

 本格的に弱ってきたときも、次男が家にいる時は、常に近くにいたがった。


 兄弟の長男の方は、しばらく家を離れていたが戻ってきた。

 自宅で仕事をするようになり、犬との時間も長かったが、どちらかといえば犬とのじゃれ合いを好み、世話をするというよりはただ元気に動き回るのを見るのを好んでいた。

 犬が弱って来た頃に別の仕事をするようになり、犬との時間は減ったが、それでも時折ヨロヨロと歩き回る犬を見つけては、怪我をしないように様子を窺っていた。


 ある日、長男が結婚相手を連れてきた。猫と一緒に。

 長男夫婦と共に猫は二階、犬と両親はそのまま一階で、という二世帯生活が始まったのだが、犬はすっかり目が見えなくなっていたので、誰か知らない人が居るらしい、程度の認識でしかなかった。

 記憶にない匂いを感じていたようだが、それはそれとして、食べ物をくれる人だったので警戒心はまるでなかった。


 猫については存在を認識すらできていなかったようで、時折一階に下りて来てはそっと目の前を通り過ぎる猫の匂いに戸惑い、正体はわからないまま周囲を見回して、その間に何を探していたのかを忘れてしまって寝る、というようなことを繰り返していた。

 猫の方も犬という存在を良く知らなかったので、大きさが近い謎の生物としておっかなびっくり近づき、近くに歩いてきたら一目散に逃げる、を繰り返す。

 犬の方は近づこうとしていたわけではなく、日課の室内散歩でしかなかったのだが。


 家族構成が変わり、季節も移り、犬は弱ってはいたものの食欲があることで家族を安心させる。

 今月は厳しいかも、来月まではもたないかも、と不安にさせながらも、腫瘍だらけの顔で家族に甘え、弱った姿を見せても翌日には元気になっていた。

 そんな日々を繰り返していたある日、食事だけでなく、水にも口を付けない日が訪れる。


「今日明日くらいかもね……」

 母親は嫌な予感に深く考え込むのを避けるためか、飼い犬が亡くなった場合にと考えていたペット火葬の業者に手続きについて確認の連絡を入れ、同時に兄弟のうち家を出ていた次男にも連絡を入れた。

 そして、その日の仕事を早く済ませた母親は、自分が留守にしている間に次男が来ていたことをメモで知り、横たわっている犬にそっと寄り添う。


「お水、飲める?」

 母親から木のスプーンで掬ったわずかな水を差し出され、犬はゆっくり舌を伸ばし、ポタポタとこぼしながらも少しずつ水を飲む。

 二度、三度と繰り返し、四杯目はもう飲もうとしなかった。

「ドッグフードはもう食べない? じゃあおやつは? 食べる?」


 すっかり食欲を失くしていた犬の鼻先に、母親は小さなキューブ型のおやつを差し出す。

 鼻をひくひくと動かしてはいるものの、食べようとはしない。

「いらない? じゃあ、そろそろ寝ようか」

 苦笑いして、母親は布団を敷いて、犬をベッドごと傍に寄せて横になった。そして、犬の腹の上に手を置いたまま目を閉じる。


 手のひら全体で、犬の身体が上下して呼吸しているのを感じると、弱々しいようにも思えるし、まだ生きようという力強さも伝わってくる。

「う……」

 小さな呻きが聞こえて、母親は細く目を開けて犬の方を見た。

 眠っている。目は開いたままだが、何かを見ている訳でもなく、寝息を立てているのは明らかだった。


 息苦しいのだろうか、もう呼吸するのも辛いのかもしれない。

「十六歳か」

 良く生きた、と思う。

 二人の息子が学校を出て就職した。その間もずっと一緒に暮らして、いつも顔を見てきたつもりだったのに、いつの間にか随分と歳を取って見える。

 自分も歳を取ったのだろうか。そんな風に考えると、長いような気も、短いような気もしてきた。


 小さくて足の短いころころとした子犬として家にやって来たのが、随分最近のことのように思えたが、実際は十六年。犬が生きて、死ぬくらいの時間が経っているのだ。

 ふと、自分の父が亡くなったときのことを思い出す。

 物心ついた時には立派な大人だった父は、そのまま元気でいつまでも父親として存在しているものだと思っていた。なのに、ふと気付けば父はお爺さんになっていて、発作を起こして入院したかと思うと、あっさりと死んでしまった。


 父は父のままずっといると思っていた。それは勘違いだと葬儀で改めて思い知った。

 犬も犬として、ずっと家族の側にいると思っていた。やはりそれも勘違いらしい。

 現実にいま、犬は死の淵にいる。

「変わるのね。それに、終わる」

 何も変化しないと思ってしまう。その方が楽だから、そう考えてしまう。変わらないような、悪いことなんてないような気がしてしまう。


 しかし、そうじゃない。

 気付けば犬のうめき声は治まっていて、今はゆっくりと寝息を立てていた。

気付かれないようにゆっくりと手を放した母親は、そのまま目を閉じて眠りについた。

 その日の夜、母親と並んで眠っている間に、犬は息を引き取った。


 深夜二時を過ぎたころ、いつもなら寂しげに鳴いて母親の存在を確かめようとするはずが、あまりにも静かなので逆に目を覚ましたのだ。

 息を整えて、部屋の明かりを点ける。

 四角い犬用のベッドに横たわっていた犬は、目を見開いてまるで眠っているようにも見えた。でも、その胸は上下していない。


「う……」

 しばらくの間、静かに涙を流した母親は、夫を起こし、犬の死を伝えると、冷凍庫から保冷剤をいくつも取り出して犬の周りに並べていく。

 そして、妻と共に夜の仕事をしている長男へとメールを送った。


『あの子が逝きました。ペット霊園に登録してるから、連絡する。帰ってきてからさよならしてね』


 わかった、と短い返信がきて、母親は次男にも報告を終え、脱力した身体でぺったりと布団のうえに座ったまま、もう動かない犬を、世が明けるまでずっと見つめていた。

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