よく知らない上司
若くして亡くなった会社の上司。
でも、その人とはあまり接点が無い。葬儀の場で感じた違和感。
会社関連で上司や取引先関係者の葬儀に出るという話は良く聞くけれど、入社半年で経験するとは思わなかった。
社内の連絡メールで送られてきた訃報を見た時、僕は誰かが亡くなったことよりも、黒いネクタイを持っていないことに対する焦りの方が強かったくらいだ。
薄情な話だけれど、社内の人とはいえ、亡くなった人のことを良く知らないから。
「ほら、ブラックでいいだろ?」
「あ、ありがとう」
同僚からコーヒーを手渡された僕は、金は要らないという彼に礼を言って栓を開けた。
「見てられないな」
彼が何を指して言っているのか、今の僕にはわかる。未亡人になった人のことだ。
亡くなったのは係長で、会社の中で一応は上司にあたる人だけれど、付き合いはほとんど無い。五十以上ある店舗の一つを任されているに過ぎない僕は、直属のエリア長とやりとりはしても、その上にいる人とはほとんど顔を合わせる機会は無い。
係長以上の人が居るのは基本的に隣県の本社だし、今回も葬儀会場は隣県まで運転してきた。少し疲れているけれど、葬儀に参加したらそんなもの気にならなくなってしまった。
会社が用意したのだろうか、ちょっとしたホールを借りて行われた葬儀には、ほとんどの社員が集まっていた。大体二百人弱だったはずだから、取引先も入れて二百数十人。
僕たち平の社員は全員が早めに来て椅子を並べるのを手伝った程度で、葬儀はすぐに開始され、社員から早々に焼香の順番が回ってきた。
慣れないことで作法もまともに憶えていないから、前の人を参考にして切り抜けた。
その時に、開かれた棺の中に亡くなった上司の顔を見た。
「……人間、死んだらあんなふうになるんだな」
「全員じゃないと思うけど」
同僚の言葉を聞きながら思い出す。
死因は事故などではなく、病気だった。知らなかった話だけれど、少し前からガンで入院していたらしい。
まだ四十前という若さで転移も早く、あっという間に悪化してしまったそうだ。
無念だっただろう、と理屈ではわかるが、本当のところは僕にも、もちろん同僚にもわからない。
ただ、棺の中で少しだけ見えた瞳と、前歯を見せるようにしてわずかに開かれた口元は、肌が白い以外はなんとなくまだ言いたいことがあるような雰囲気はあった。
葬儀が一段落して、僕たちは葬儀場のロビーに出ていた。まだ中では遅れて来た人が焼香したり、遺族と話したりしてる。社長もそれに加わっていて、終わるまでは待つべきだろうと思った。
それと、同僚と少し会話をしておきたかった。なんとなく。
「話したことはあるか?」
「無い。……いや、待てよ。確か何かの飲み会で酌をしたときに一言会話しただけだ。……ふぅ、今思い出した。励ましてもらったよ」
「そうか」
僕はその飲み会に参加していなかったから、全体会議で顔を少し見ただけだ。直接会話をしたことも無い。
「奥さん、大変だろうな。保険は下りるだろうけれど、子供もまだ小さいのになぁ」
課長の奥さんは、課長の年齢よりも少し若く見える人だった。三歳くらいの男の子を抱えて、葬儀の間ずっと泣いていた姿が、頭から離れない。
同僚も同じなんだろう。話題に出したことを後悔したような表情をしていた。
「他人なのかな」
「何の話だ?」
僕がぽつりと呟いた言葉に、同僚はコーヒーの残りを飲み干して聞き返した。
「課長はさ、あんまり会ってなくても同じ会社の人だろう? でも、あの奥さんとか子供は……」
「お前、それを他の人の前で言うなよ」
誤解される言葉だとは分かっていっている。そう挟んだうえで、僕は考えていることを口にせざるを得なかった。そうしなければ、今の感情が整理できそうになかった。
「奥さんや子供さんが可哀想で、大変だろう、って、そういう気持ちはもちろんある。突き放したいわけじゃないよ。ただ、そうやって同情するのは失礼な間柄なんじゃないかって思えて……上手く言えないけれど、表面だけお悔やみを言って終わりにするのが一番なのかも、と」
話していて思ったけれど、僕は結局課長という死者との距離感を掴みかねているのかも知れない。だから、奥さんにどういう感情で言葉を紡げばいいのか迷ってしまうのだ。
「だから、他人と思って離れた場所で何も言わないのが良いと思ったんだな」
同僚の言葉に頷くと、小さなため息が聞こえた。
「人間は社会で生きる生き物だから、内面でどう思っていても、社会的な付き合いはどこかで生まれる。全くの他人ならまだしも、葬式に来た以上はそうとは言えない」
葬式に来た、というより業務命令として来なければいけなかった、というのが正しかも知れないけれど、と同僚は挟んだ。
「これは儀式なんだよ、儀式。若くして亡くなった課長本人を悼むというのも重要だけれど、こうして会社は最後まで社員を支えますよ、と見せる必要もあるし、そうしてバタバタと忙しくして奥さんの悲しみを和らげる、あるいは多くの人が来ることで故人が慕われていたのだと伝える儀式だ」
「それって、必要なのかね」
「さぁな。でも何百年も何千年も、それこそ文明が違ってもやり方は変わっていても、誰かが死ねば家族や周りの人が何かをして死者を送るのは変わらないだろう? だったら必要ってことなんじゃないか?」
「うーん……」
納得が出来るような、そうじゃないような気もして、僕は首を傾げた。
「……お前、近しい誰かが死んだ経験あるか?」
「えっ? いや、無いけど……」
急に言われて慌ててしまったけれど、僕は近い家族が無くなった経験はほとんど無い。
そう思っていたが、ふと思い出したことがある。
「まだ小さい時に、父方の爺さんが亡くなったくらい、かな」
その時は誰かが死ぬということがうまく理解できなかった。火葬にも立ち会ったけれど、骨になってしまった爺さんの姿を見て、人間は最後にこうなってしまうのか、とぼんやり思っていた記憶しかない。
「人が死ぬ事実を受け止めるのに、一定の決まりごとをやって自分の中で感情を収めるのは大切なことだろ。周りのみんなが泣きわめいて悲しんだり、逆に放っておいたりしたら、そこにいた子供はどうすりゃいいんだ?」
「あぁ……」
僕は奥さんのことを考えていたが、課長には子供がいたのを改めて思い出した。
「奥さんは仕方ない。まだ若いのに旦那が死んで、取り乱すのも仕方ない。だから周りが整然と舞台を整えてやって、現実を受け止める手伝いをするんだ。お子さんのためにも、そうして見送るもんだと伝えるべきじゃないか?」
「僕たちもその手伝いをする一部になれ、と?」
「お前の時にもそうしてもらうためだよ。因果応報。情けは人の為ならず……っと、社長が出てきた」
同僚の目線を辿ると、会場から重い扉を開いて出てきた女性が板。
五十台後半にしては若く見える、黒いスーツに身を包んだ彼女は、僕たちの会社の社長であり、この葬儀をセッティングした人でもある。
「エリア長たちは?」
「外で煙草を喫っているんじゃないかと思います」
同僚の答えに「そう」と眉間にしわを寄せた社長は、少し疲れているように見えた。
ふと、この人も前社長である夫を数年前に亡くしているのだ、と思い出した。遺された課長の奥さんのことを、他人事とは思えないだろう。
「後は私と役員だけでやりますから、エリア長以下は解散してちょうだい。あなた達から全員に伝えて。……お疲れ様」
労いの言葉をかけられて、僕は「社長こそ」と口にしそうになったが、失礼だと思って言葉を飲みこんだ。
「あの……」
「なに?」
つい呼び止めてしまった僕に再び向き直った社長は、今までの印象よりも小さく見える。
「亡くなられた課長、どんな人だったんですか?」
「……」
失礼な質問かも知れないが、聞いておくべきな気がした。
社長は僕の顔を数秒見つめてから、口を開いた。
「優秀な人でした。若いのに気が利くし、アルバイトの子たち一人一人をちゃんと見ていて、よく相談にも乗っていたみたいね」
視線が、僕から離れてホールの方へと向く。
「結婚式に出席したのが、つい最近のことみたいに感じる。彼は会社の中で一生懸命働いてくれて、家庭でも良い夫だったみたい。月並みだけれど、私は彼をそれ以上は知らない。でも、ちゃんと見送りをすべき人だとは断言できる」
これで良い? とぎこちない笑みを見せた社長に、僕は頭を下げた。
「……何聞いてんだよ」
社長がホールに戻ったのを見計らって、同僚が呆れたように言う。
「知りたかったんだよ。なんとなく」
それが死んでしまった人のことだとしても、知らずに見送るのと、多少なり知って見送るのでは違う気がしたのだ。
僕たちは手分けして社長から指示を伝え、みんなが車に分乗して帰っていくのを見送った。
そして同僚と共にもう一度ホールに行って改めて課長に手を合わせた。
「ありがとうございます。こんなにしてもらって、あの人もきっと喜んでいます」
そう言って僕と同僚に深々と頭を下げた奥さんは、、涙の跡がはっきりと残ったままのやつれた顔で、それでも笑みを向けてくれた。
「奥さんに気を使わせてどうすんだって話だよな」
「そうだな」
それでも僕は、奥さんが日常に戻っていく予兆が見られたような気がして、少しだけ心が楽になっているのを実感していた。