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或る老婆の最期

地方の一族が正月の決まり事として行う宴会。

そこで最年長の老婆がとった行動には、どんな意味があったのだろうか。

 毎年の正月二日に親族一同が集まるのは、その家族の習慣だった。

 現代では珍しいのかも知れないが、なにぶん九州の片田舎のこと。仕事の都合などで来られない者も当然いるのだが、隣県程度の距離に住んでいるなら、ほとんどが集まる。

 そしてそんな集まりは、まず一年の報告から始まる。


 本家の居間を中心に、ふすまを取り払って広げた臨時の会場。その中心には齢九十六を数える老婆が座っていた。

 誰かの母であり伯母であり、祖母であり曾祖母でもある彼女は、誰に視線を向けるでもなく、全員を見ているようで、あるいは誰も見ていないようで、細めた目をゆったりと揺らしながら微笑んでいる。


「おばあちゃん。私、この人と結婚するけん」

「ん」

 一人の女性が緊張気味の男性を連れて挨拶に来たのに対し、老婆は変わらぬ微笑みのまま短い声と頷きだけで応えた。

 女性は老婆にとって曾孫にあたるのだが、それを理解している様子は無い。

 ただただ、良かったね、とでも言いたげに笑っている。


 婚約者と顔を合わせ、困ったように笑った女性は自分の席へと戻った。そして隣に座る自身の母親も同じように困った顔をしていることに気付く。

「おばあちゃんに挨拶は済んだとね?」

「うん。でもあんまりよぅわかっとらんごたる」

「そうねぇ。最近は痴呆が進んどるごたるけん」


 そう言う母親の顔に、悲壮感はあまりない。

 老齢だから、という理由で納得できるのか、母親は現状を受け入れているらしい。その先に祖母である人の死が待っているのは承知のうえで。

「そうやね……。じゃあ、結婚式は」

「おばあちゃんに無理させたらいかんし、何かあっても困るやろう?」


 老婆は呆けてはいても、暴れたり悪口を言ったりとようなことは無かった。それでも、新郎側に迷惑になるかも知れない、と母親は遠回しに言う。

「……うん。そうやね」

 女性は納得したように頷いた。

 それでも、彼女は寂しさを感じざるを得ない。ほんの数年前までは高齢で多少耳が遠くなったといっても、受け答えは普通にできていたのだ。


 自分も老いていくという事実に対する怖さをかんじながらも、それ以上に、現実で家族に降りかかっている老化と、会話が通じなくなってしまった曾祖母の存在に、何をできるわけでもない無力感の方が強い。

「おばあちゃん。お酒、飲む?」

「ああ、お嬢ちゃん。ありがとうねぇ」


 曾祖母の返答に、ちくりと胸を刺すものを感じながら、女性はそっと日本酒の一升瓶を抱えて、少しだけグラスに注いだ。

 にこにこと笑ったままそのグラスに手を伸ばし、老婆はほんの少しだけ口にする。

「おいしかねぇ」

 そう言って、老婆は女性の顔をじっと見つめた。


「なぁに?」

「うんにゃ、なんでんなかよ」

「おお、婆ちゃんも飲みよっとか」

 別の親戚が声をかけて来たのを機に、女性はさりげなくその場所を離れた。これ以上曾祖母と話していても気分が鬱々とするばかりだと思ったからだ。


 やがて親戚同士の話は盛り上がり、食事が用意されて宴会へと変わっていく。

 女性の結婚話もほとんどの人に伝わり、近しい人から順に祝いの言葉が飛び交うようになった。婚約者の男性も、やや強引ながら酒宴に巻き込まれ、女性との出会いや仕事の話へと、話題は行きつ戻りつしながら、関係の無い所へとそれていく。


 婚約者の様子を見て、大きな問題も無く受け入れられたと安堵していた女性は、ふと曾祖母の方へと視線が流れた。

 特に何か用があったわけでもないが、曾祖母は皺でクシャリと折りたたまれた相貌に変わらぬ笑みを湛えたまま、女性も良く知らない遠い親戚の誰かと話をしている。

「見てる……」


 女性が気になったのは、曾祖母の視線だった。

 先ほど自分に対してもそうだったように、曾祖母は赤ら顔で酔いに任せて気分よく喋りつづけている男性の顔をじっと見つめていた。

 二時間程、ぼんやりと曾祖母の様子を見続けていた女性は、次々に挨拶に来る誰に対しても同じように顔を見ていることを知る。


「ごめん、ちょっと酔いが、ね……」

「あ、じゃあ部屋にお布団用意するから。私ももう眠いし」

 寝室を用意されていることを知っていた女性は、婚約者がそろそろ限界だと知り、腰を上げようとした。

 部屋の場所と、どこに布団が仕舞われているかは知っている。去年までは両親と布団を並べていたが、今年は本家が気を回してくれた。


「おおっ、謡うとね、おばあちゃん」

「えっ?」

 誰かが嬉しそうな声を上げ、振り向いた女性は曾祖母がゆっくりと立ち上がるのを見た。

 言ってはなんだが、異様な光景だ。痴呆と共にかなり身体も衰えていたはずだが、杖や補助器なども使わず、ゆっくりだが自力で曾祖母は立ち上がっている。


 見回してみた女性は、そのことに違和感を覚えているのは自分だけだと知った。

「どうして?」

 疑問には答えが返ってこない。

「歌が始まるみたいだね。お婆さんが歌うなら、少し聞いてからにしよう。僕は大丈夫だから」

「あ、うん……」


 婚約者に提案され、座りなおした女性の耳に、歌が届く。

 曾祖母の歌声は声量があるわけではなかったが、静かになった宴会場によく響いた。

 女性には聞き覚えのある曲だった。小さい頃にこういう宴会の場で、お酒が入って上機嫌になった曾祖母が歌っているのを何度か聞いたことがある。

 郷里の唄だろうか、然程興味が無かったので聞きそびれてしまったが、上手く彼女にも聞き取れない部分があった。


 歌の意味も分からないし、節回しが合っているのかもわからない。

 それでも、この場においては曾祖母が元気な姿を見せていることが重要だった。

 歌の途中から、おぼつかない足取りで誰かに支えられながら宴会場を歩き始めた曾祖母の姿を、女性は不安げに目で追う。

「お、ばあちゃん元気かねぇ」

「良かこと、良かこと」


 口々に褒められているのだが、その言葉が聞こえているのかいないのか、曾祖母は歌を止めることなく、宴会場にいる親族たちの間をふらふらと歩きながら、一人一人の顔を見ていく。

 ちゃんと見えているのか、誰が誰なのか判別はついているのだろうか。

 女性には不明ながら、親戚たちの誰もが笑って歓迎している曾祖母の行動に、妙な胸騒ぎを感じずにはいられなかった。


 そして歌は終わり、一通り親族の間を巡った曾祖母は、疲れたように座り込む。

 女性は慌てて立ち上がり、他の何人かと一緒に曾祖母を抱えた。

「いつもなら寝とる時間やけん、ベッドまで運ぶとば手伝うてくれんね」

「あ、はい。わかりました」

 軽い、と女性は思った。

 以前に曾祖母を支えた時はいつだったか、思い浮かぶ記憶よりもずっと軽い。大人になって力がついたからという理由だけではないだろう。


 その軽さは、女性に抜け殻を想像させてしまった。

「ありがとうね」

「いえ。大丈夫です。私も休みます」

「そう。お布団は大丈夫ね?」

「はい、わかります」

 赤い顔でさらに酒を勧められていた婚約者を叔父たちから引きはがした女性は、まだまだ喧騒が収まらない宴会場を離れ、大きな本家の建物の中でも一番外れた場所にある、あてがわれた部屋へと向かう。


「酔ってからお風呂は危ないから、起きたらシャワーを浴びるのでいい?」

「いいよ、大丈夫……」

 すっかり酔いが回ってしまった婚約者からジャケットとネクタイ、それにスラックスをはぎ取り、布団へと寝かしつけた女性は、自分も上着を脱いで布団の中に潜り込んだ。

 疲れていたのだろうか、枕を整えて丁度良い具合に頭を落ち着けた女性の意識は、あっさりと眠りに落ちた。


「たすけて!」

 そう叫ぶ声が聞こえた気がして、水の底から引き上げられたかのように意識が覚醒し、目が覚めたとき、まだ部屋の中は真っ暗だった。

「……うん?」

 声が聞こえたのは夢の中のことかも知れないが、心臓がバクバクと音を立てるのがうるさいほどだ。


 視線を巡らせると、夜の闇が支配する部屋の中に、僅かな月の光が窓にかかったカーテンの隙間から差し込んでいるのだけが見える。家全体が静かで、先ほどまであれほど騒々しくやっていた宴会が嘘のようだ。

「気のせい、かな」

 変な夢を見たな、と思った。

 直後、水音が聞こえた。


 ばしゃり、と魚が跳ねるような、蛙が飛び込んだような。

 部屋の外はすぐ敷地の端で、その向こうは整備された水路になっている。夏場ならば夜になればウシガエルの鳴き声がうるさい程で、川を挟んで向こうの家でも「寝室の場所を水路から離せばよかった」と言っているらしいと女性も聞いたことがある。

 冬場でも魚はいる。鳥が来て魚を捕まえることもある。水音がするのは珍しくない。

 しばらくの間、暗い天井をじっと見てから、女性は再び目を閉じた。



 聞こえた気がした“叫び”は、夢では無く現実だったと女性が知るのは、翌朝のことである。



 女性が見たのは、ガチガチと寒さに震えて歯を鳴らしている水路向こうの家に住む高校生の娘と、彼女に毛布を掛けて懸命に擦っている救急隊員。そしてそのすぐそばで、コンクリートの川岸に横たえられた、曾祖母の姿だった。

「なんで……」

「あんたは部屋に居なさい」


 呆然としていた女性は、親戚から追いやられるようにして家に押し戻され、婚約者と共に騒動が収まるのを待つしかなかった。

 救急車に遅れてパトカーが何台も到着し、同じ集落の人々が集まってくると、本家の周囲は騒然となる。


「大丈夫だから」

 何が大丈夫なのか、婚約者も言っていて自分でも理解できていないだろう。そんな空虚な言葉を耳にしても、女性の脳裏には昨夜の、あるいは時間的に今朝かもしれないが、聞こえてきた叫び声が木霊するばかりだ。


 曾祖母が水路に落ちた理由はわからないが、あの声を聞いた時にすぐ外を見ていれば、助けることが出来たかも知れない。

 昨夜の上機嫌な姿を思い出すたび、罪悪感が彼女の心を押しつぶそうとする。

 やがて警察が本家に入って来て、一通りの聞き取りをしたいと言い出したらしい。当然のように女性も話をすることになった。


「あの……曾祖母は……」

「あっ、まだご存じではなかったのですね」

 女性と顔を合わせた若い警官は、言い難そうにしながらも、老婆の死亡が確認されたことを伝えた。

 個別に話を聞くため、テーブルがあるダイニングには彼女と警官だけしかいない。誰かが用意してくれたお茶を見下ろし、「そうですか」とだけ声を絞り出す。


 女性は夜の出来事を正直に話した。

 警官は真剣に話を聞いて、要所をメモしていく。そうしながらも、警官は女性の様子に気づいていたのだろう。本来は言うべきでは無いがと前置きをしてから、安心させるようにゆっくりと説明する。

「今の状況から見て事故ではありません」

「え、それじゃ……」


 家の誰かが、と背筋に寒いものを感じたが、すぐにそれは警官が否定する。

「あの方は綺麗な着物を着ておられましたね。ご家族に窺いましたが、一張羅として大切に取っておかれたものだとか」

 言われてようやく女性は気付いた。川辺に横たえられていた曾祖母は、確かに鮮やかな刺繍が施された着物を纏っていたのだ。


「自室に遺された書置きなどを見る限り、ご自分の意志で入水されたのではないか、と」

「そんな……それじゃあ、私が聞いた声は……」

「わかりません。救助しようとした近所の女の子も聞いたようなので、実際にそう叫ばれたのは間違いないようですが」


 あくまで私見として、と若い警官は伏し目がちに話を続けた。

「覚悟をしているつもりでも、やはり怖いものは怖い。暗闇と水の冷たさに思わず口にした言葉だったのかも知れません」

 確証はないが、警官は自身の経験から自信のある推測のようだった。

「覚悟……」


 だとすれば、昨夜の宴会で機嫌よく歌っていたのは、どうしてだろうか。

 みんなの注目を集め、そして一人一人の顔を見て回っていたのは、曾祖母なりの別れの挨拶だったのかも知れない。

 老齢になって、痴呆に苦しみ、それでも周囲に優しかった曾祖母は、昨夜の宴会でふと正気を取り戻したのではないだろうか。


 自分が何をやっていたのかわからない、どうなるのかわからない恐怖は想像も及ばない。

 同じ立場に置かれた時、自ら死を選ぶのは自然なことのようにすら女性には思えてしまった。

「とにかく」

 警官は一礼して立ち上がると、捜査協力への定型文のような感謝の言葉を述べてから、帽子を被りなおして少しだけ笑みを見せた。


「お悔みを申し上げます。……良い方だったのですね」

「はい。優しいひいおばあちゃんでした」

「そうですか。残念です」

「あの、自分で死を選ぶって、どういう気持ちなのでしょう?」


 言葉にしてから、女性は恥ずかしそうに頭を振った。

「すみません、変な質問をしてしまって」

「いえ、お気になさらず。そうですね、私はそんなことを考えたことはありませんし、当然勧めるような真似もしませんが……」

 ちらり、と警官は周りに誰も居ないことを確認するかのように視線を巡らせた。

「自分で最期を選ぶのは、難しいことだと思います」


 では、と本家を出て行った警官へ一礼してぼんやりと見送ったあと、彼女はようやく曾祖母のために涙を流せた。

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