人魚の涙
それは美しい、満月の夜の事だった。
仕事も終わり、食事も済ませた男は、何時ものように、女のところへと行こうとした。
男には、夜を共にする女が指で数えきれないほどいる。
すべて、他国から献上された女だった。
昨夜逢った女を思い出し、男は顔を歪めた。
あれは失敗だった。
どんなに匂い立つような色気があったとしても、抱く気になれなかった。
その原因を知っているからこそ、苛立った。
ここ数日、他の女を抱こうとしても、違う女が脳裏に過って、楽しむことが出来なかった。
いったいあの女は、己に何をしたのだろう。
あの女は、遥か遠い、森と湖に囲まれた、亡国の女だった。
動植物と会話することが可能な巫女であったというが、それは遠い昔の話だ。
その能力の大半を失なってしまった女は、客観的に見て容姿も平凡でしかない。
だが、それでも男は認めざるを得なかった。
淡い水色の瞳に見詰められれば、気持ちが昂り、黒曜石の髪を撫でれば、そのまま抱きしめてしまいたくなった。
『お前は冷たい男だ』
数年前に亡くなった、父の言葉が蘇る。
『そのお前が、気になる女が出来たら、それは運命の人だ』
『運命の人……?』
『そうだ。どんな手段を使ってもいいから、守りなさい』
そんなことが、起きるのだろうかと思った。
実際、どんな女でも気持ちが傾くことはなく、欲望を吐き出す手段でしかなかった。
だが、あの女に惹かれているというのは間違いない。何時もは笑わない女が、ふと見せた、気まぐれな微笑みに……、心は奪われたままだった。
しかし、その事実を認めるのが癪だった。
よりによって、なぜあんな女が運命の人なのか。
あの女は、歪んだ性格の持ち主で、俺を見ればすぐに嘲り笑う。
手を伸ばして抱こうとでもすれば、煙管の裏で手を叩くという蛮行に走る。
男に逆らうのなら殺すと脅しても、
『どうぞ?』
と怖がりもせずに言ってくる有様だ。
亡国の女だ。
なにか、心の拠り所になるものがあれば違ったのかもしれない。
女は、庇わなければいけない人もいなければ、戻るところもない。
だからだろうか、自分の命にさえ興味がないのだろう。
見るたびに、何処かを怪我していた。
そのことに、何時からか、男は焦り始めた。
何せ、後ろ盾もいない平凡な女だ。
それなのに寵愛を受けているということで、他の女どもに嫉妬され、苛烈な虐めを受けているようだった。
怪我をしないように、侍女を付けたが、やり方が変わっただけで、あまり効果はなかった。
何をしたのかは知らないが、どうやら、侍女にも嫌われたらしい。
他の女なら、男が来たら飛び上がらんばかりに喜ぶだろう。
けれど、その女は嫌そうに眉を顰めながら、他の女のとこに行けだの、お前は頭がおかしいなどと悪態をついてくる。
それなのに、どうしても惹かれてしまった。
『ぁッ、……やぁ』
『もう降参か?』
『うるさいッ、あっ、……ぃやぁぁ!』
けれど、身体の相性は良くて、それはお互い様なのか、女は罵りながらも最後には快楽にのめり込んだ。
『気持ちいいんだろ?』
『気持ちよくなんか、ない』
顔を真っ赤にしながら震えた声で言うのが本当に可愛らしくて、愛しかった。
口を開かずに、黙っていればいいのにと何度思ったことか。
潤んだ瞳と、だらしなく開いた口は、例えようもなく色っぽかった。
その顔を思い浮かべ、気持ちが昂る。
今日はどうやって抱こうかと思いつつ、歩いた。
贈り物として、手には花を持っていた。
そうすれば、女の気持ちも軟化するだろうかと、若干の希望を持ちながら、女の部屋にたどり着いた。
そこで聞こえたのは、何時までも聞いていたいような歌声だった。
誰が歌っているのだろうと見てみると、歌い主は女だった。
男は女を抱き上げると、部屋の中に連れ戻した。
そのまま男は夢中で、何度も女を鳴かせたが、あまりにも激しい行為に耐えかねて、女は途中で意識を失った。
男は、意識を失った女を抱き寄せ、愛おしそうに女の頭を撫でると、ようやく眠りについた。
けれど、女は朝になると、男の腕の中から消え失せていた。
男は、起きたことが信じられず、周囲を見渡した。
女が逃げ出さないように、部屋には見張りを置いていた。
部屋から、男を置いて、女が出れるわけがなかった。
それなのに、人の気配は、まるで無かった。
まるで狂ったように、男は女を国中探した。
けれど、女は見つからなかった。
それから数年後、予想もしなかったところで女は見つかった。
それは、魔女の館と呼ばれる、薄暗い部屋の中だった。
「あら、いらっしゃい。何の御用?」
妖艶な笑みを浮かべて、その女は俺を見た。
女は、あの頃のような不安定さは消え失せ、自信に満ちた瞳をしていた。
「お前を、探してた」
「そうなの。大変だったわね」
ここ、わかりにくい場所にあるでしょ?
と、何も分かっていない様子の女に、男は憤りを感じた。
数年の間に、男は色々なものを失ったが、何よりも、この女を失ったことが痛手だった。
しかし男を人生の中から追い出した女は、まるで水を得た魚のように、人生を楽しんでいるようだった。
平凡な女だと思っていたが、数年ぶりに見た女は蛹が蝶になったかのように、美しかった。
その姿を見て、腹立たしくも男は思った。
まだ、男は愛しているのだ、この女を。
男は、女に言った。
「占って欲しいことがある」
「あらあら」
女は人魚の涙が入っている瓶を手に取った。
それは人間の男を好きになった人魚の女が零したものらしい。それを一滴垂らすと、男の将来が見えてくるのだと言う。
「恋愛運かしら、それとも、仕事運?」
男は、大きな水晶に人魚の涙を垂らそうとした、女の手をとった。
「お前との、恋愛運だ」
女の持っていた瓶から零れ落ちた人魚の涙が、水晶玉に落ちた。
そこに映し出されたものを見て、女が驚いて叫ぶ前に、男は女の唇を塞いだ。
水晶に映っていたのは、幸せそうに男の腕の中で眠る、女の姿だった。




