『後の祭り』1
「Ppp! Ppp! Ppp! Ppp!」
悪意に満ちたアラームが鳴る。
まどろむ意識とあやふやな世界の境界線が限りなく不明瞭な僕の中を、土足で踏みにじり、無許可に侵入する音が鳴り響く。
つんざく、という言葉そのままの凌辱。
思わず眉を寄せる。
「……あう、もう朝か……」
もぞもぞとベッドを惜しみながらも、腕を伸ばして目覚まし時計を止めた。
あくびを一つ。出した腕をまた引っ込めようと曲げて、そこで何かが肘に引っかかる。
ガツンと一発。
肘鉄をかましてしまったようだ。
「んあ?」
ベッドに自分以外の何かが有る。寝ぼけた頭でもそれくらいはわかった。
「……あう、もう朝ですか……」
目覚まし時計のおかげか、肘のせいか。僕と同じ起床の言葉を呟き、そいつは気だるげに這い出してきた。どうやら布団を共有していたのは物体でなく人らしい。
濡れ羽色したロングヘアーに、綺麗に整った顔立ち。白磁器のような肌には長いまつげと血色のいい唇が華をそえていた。文句なしの美人。そんな秀麗な外見は、クマさんパジャマとのギャップでさらに引き立てられている。
「華黒……」
うんざりとして僕は妹の名前を呼ぶ。
「兄さん♪」
華黒もまた僕を呼ぶ。
華黒は僕の首に腕を回して、甘えるように僕に抱きついてくる。
抱きついたまま華黒の目が僕をまっすぐ捉える。
キスまであと数センチ。
今までなら僕はここでなし崩しにしただろう。
でも今は違う。
「兄さん」
「華黒」
僕らは“おはようのキス”をした。
僕の唇と華黒の唇が重なる。
舌は使わない……軽いキスだ。
互いの唇を重ね合わせて一秒、二秒、三秒……そして示し合わせたかのように首をひっこめる。
僕の目と華黒の目が合う。
もう一度キス。
そして示し合わせたかのように首をひっこめる。
「おはよう華黒」
「おはようございます兄さん」
僕らは互いに挨拶をした。
*
「うへへ、へへへぇ」
「華黒、ニヤニヤを通り越してニタニタになってるよ……」
「いいじゃないですか。幸せなのですから」
「この程度のことで……」
苦笑するしかない。
僕と華黒は登校していた。
お互い手をつないで、だ。しかもいわゆる恋人つなぎ。
他の生徒たちがこっちに注目を寄せていたけど、まぁあんまり気にしないことにする。
「たかだか手をつないだくらいで嬉しがられても……」
「今まで兄さんにのらりくらりと躱されつづけてきましたからね。ようやっと我が世の春が来たといった様子です」
「大げさな……」
「これからは今までの分を取り戻す方向でいきたいと思います」
「それで手をつないでの登校から、と……」
「はい♪」
そう言って華黒は可愛く笑った。
「でも僕はちょっと恥ずかしいかな、なんて」
こっちを見る登校中の生徒たちの視線に殺気がこもっているのは僕の気のせいばかりではないだろう。
「正式にお付き合いをしているのですから気にすることなんてありませんよ」
「多分華黒が気楽に構えているより事態はずっと深刻だと思うよ」
特に華黒に片思いをしていた人たちなどにとって。
「なんかいい具合にはめられたよなぁ」
「なんのことです?」
「文化祭のこと」
「だったら誰かに捕まってしまえばよかったですのに」
「本心から言ってないでしょ」
「当然」
「もし僕が誰かに捕まったら華黒はどうするつもりだったの?」
「もしとかたらとかればの話に興味ありません」
「あ、棚上げ発言」
既にして僕と華黒が付き合っていることは全校生徒が公認している事実だ。
父さんと母さんも学園祭に来ていたから僕らのことは公認済みだ。
怒られるかとも思ったけど、そんなこともなく。両親は僕らを祝福してくれた。
僕らの過去を知っているからのことか、それとも何も考えていないのか。
判断がつきかねたけど、まぁどうでもいいことでもあった。
「うふふぅ」
華黒は不気味に笑いながら僕とつないでいる手をぶんぶんと振る。
「華黒、浮かれすぎ」
「浮かれずにはいられません」
クラスにつくまで華黒はずっとこんな調子だった。
*
華黒と手をつないだままクラスに入る。
一瞬、ざわつくクラスメイトたち。
その後の反応はまちまちだ。
無関心を装って視線をそらすもの。
憎々しげに僕たち……僕を睨むもの。
心配げに華黒を見つめるもの。
気持ちはわからないでもない。
何でよりにもよって僕なのか。
僕自身にもわけがわからない……というほどでもないけど、まぁそんな感じだ。
華黒の手を振りほどく。
「あん」
「名残惜しそうにしないの。席に着く」
「朝のホームルームまでまだ時間がありますよ」
「僕といたんじゃ友達と話せないでしょ」
「それは……そうですけど……」
そんなことより僕と居たい、って言いたいんだろうけどさ。
「ほら、女子グループにとけこんでおいで」
「うぅ……」
非常に面倒くさそうに華黒は僕から離れていった。
女子グループにとけこむ際には笑顔を忘れない。
本日も猫かぶりは絶好調だった。
僕はといえば手の平にさっきまでの華黒の体温を感じつつ、自分の席へ。
自分の席の隣にいる校内唯一の僕の友に朝の挨拶をする。
「おはよう統夜」
「おはようさん真白。本日も絶好調だな」
言ってクツクツと笑う統夜。
僕は肩をすくめた。
「いいだろ。正式に付き合ってるんだから」
「華黒ちゃんのファンクラブ、ほとんどが反兄派になったらしいぜ」
「だろうね」
親兄派にしてみれば、「鳶に油揚げをさらわれた」といったところだろう。
「危機感を感じる今日この頃だよ」
「華黒ちゃんに嫌われることを恐れて誰も手出しできないんだからうまいよな」
「別にそんなそろばん弾いたわけじゃないけど……」
「それで? どこまで行った?」
「何がさ」
「とぼけんな。華黒ちゃんと正式に付き合ったってことはオールオッケーな状態なわけだろ? どこまで行った? Aか? Bか? それとも……」
「Aで打ち止め。それ以上進展するつもりはないよ」
「はあ!? お前正気か!?」
おおげさに驚く統夜。
僕はというと肩をすくめるだけだ。
「正気つもりだけど?」
「正気ならなおさら問題だ。やっぱりお前、こっちか」
指をピンと伸ばした右手の、その甲を左の頬に当てながら統夜。
「違うよ。ていうかそういう話題は僕の場合シャレになってないから止めてほしいんだけど……」
「あ、すまん……」
「別にいいけどね」
過去のことだし。
「しかし一つ屋根の下にいるわけだろ? 本当に何も起きんのか?」
「華黒は起こそうとしているみたいだけど僕が牽制してるから」
「此の如き好花、此の如き月」
「花月を將て、尋常と作す莫れ……何さ、いきなり」
「好機を逃す馬鹿がってことだ」
「清く正しく美しく。僕の座右の銘だよ」
「嘘つけ」
「あ、ばれた?」
「当たり前だ」
言って統夜は僕から女子グループに囲まれている華黒へと視線を移す。
僕も自分の席につくと、華黒に視線をやった。
華黒はときに相槌を打ち、時にクスクスと笑いながら、女子グループの中心で華やいでいた。
僕の妹兼彼女は周りの人気者だ。
……ちょっと遠い風景だなぁ。




