『夏休み突入』5
「あー……うー……」
僕は呻いた。
「サインコサインタンジェントなんて何の意味があるんだよぅ」
場所は市立図書館。
時間は昼頃。
既に昼食はとった後である。
僕と華黒は宿題を遅々としながら、あるいはテキパキと、それぞれ片付けていた。
「兄さんが土木関係に進むのなら必須の知識ですよ」
「そんな予定はないなぁ……」
体力に自信はない。
デスクワークが僕の本領だろう。
土木作業の監督になれば話は別だけど。
ドカタ作業に終始する未来像を描けない僕だった。
華黒はサラサラと僕の愚痴に付き合いながらペンをプリントに走らせる。
その動きは洗練されて隙が無い。
背筋もスラッと伸びカリカリとペンを動かす様は一個の芸術として完成されている……って僕は何を思っているんだろうね?
「あーうー」
自身の知識を総動員して数学の課題を解く。
なんだよ虚数って。
誰だこんな斬新な概念を閃いた奴は。
その天才性は高く買うけどその分苦労する学生のことも憂慮してほしかった。
だいたい存在しながら実在しないって辺りがもうね。
何考えてんだか……。
「兄さん?」
「なにさ?」
「お困りですか?」
「お困りです」
「私を抱いてくださるなら反則技を行使できますよ?」
「謹んでごめんなさい」
他に言い様があるか。
僕は後頭部をガシガシ掻きながら虚数と睨めっこする。
ちなみにこの場にいるのは僕と華黒だけじゃない。
「………………つまりこれがこうで」
「ほうほう。黛さんとしてはなるほどです」
ルシールと黛もこの場にいることを明記しなければなるまい。
四人でテーブルを囲んで夏休みの宿題を消化しているのだった。
「………………で、こうなるから……ここに代入して」
「あー……なるほどねぇ」
ルシールはぶきっちょではあるけど、こと勉強に関しては屈指の冴えを見せる。
勉強担当のルシール。
家事担当の黛。
中々ナイスなコンビだった。
少なくとも無知無能の百墨真白に万知万能の百墨華黒の一方的な関係と違いバランスが取れている。
僕が華黒の恩恵を受けられるのは偏に偶然の結果だ。
華黒はそれを必然と呼ぶのだろうけど知ったこっちゃない。
「兄さん?」
「ん」
閑話休題。
ともあれ今は課題を消化するのが先だ。
「このグラフで虚数がこうなってですね……」
手取り足取り教えてくれる義妹に対して、
「…………」
我ながら無常になるけど、
「聞いてますか?」
「無論」
他に手段がないのも事実ではあるのだった。
「華黒は教師に向いてるんじゃない」
勉強を教えられてる身としてはそんなことを考える。
「無理ですね」
快刀乱麻だった。
「なして?」
「他者は嫌いです」
「…………」
これが
「子どもが嫌いです」
ならまだ救いようはあったけど、
「他者が嫌い」
と華黒は言った。
僕以外の老若男女が嫌いというのは華黒のレゾンデートルではあるけど……それにしたって言葉を選ばない普通?
「お姉様はこじらせてますね」
黛がコロコロと笑う。
笑い事じゃないと思うんだけどどうだろう?
「黛さんとしてはルシールも勉強ができますし教師にむいているんじゃないかと」
「………………ふえ……無理」
ルシーるルシール。
「………………多分……生徒に……なめられる……よ?」
同感だった。
もしルシールが教師を務めたら確実に生徒に泣かされるタイプだ。
手に取れるようだ。
人情の手前、言わないんだけどさ。
「兄さん、そこ虚数です。マイナスですよ」
色々考えながら数式を解いてる僕にしっかりとツッコミが入る。
当然華黒だ。
「…………」
だいたいさぁ。
横軸が実数で縦軸が虚数ってのはどうなの?
誰がそんなこと考えたの?
グラフで表せる虚ろな数ってどうなの?
そんな不条理に対する疑問ばかりが浮かんでくる。
「あーうー」
頭を抱えながら数式を解いていく僕だった。
「また間違いです」
華黒の指導も容赦がなかった。
まぁ無理して瀬野二に入学した僕だ。
これくらいの労力は必要なのだろうけど。
ああ、まったりとコーヒーが飲みたい。




