第五章・嘘と誠
1
張昭から薬をうけとった周瑾は動揺し、明るく輝いていた瞳は昏い闇に落ちていた。
「大丈夫?」
「まだ頭の中が少し混乱しているけど……なん、とか」
「……その薬が周瑜の命を奪ったものなのか?」
「うん……、前に見たことがあるんだ。この薬の包み方、そしてこの小さな赤い印。よく見ると呪がかかれている」
「呪って、どんな?」
「于吉、と。伯母上は忌まわしき仙人の名で、毒を作るのが得意だといっていた」
「于吉…というと伯父を呪ったあの仙人?」
討逆将軍・孫策。
二人の伯父にあたる人は暗殺される前に于吉という仙人と一悶着あり、孫策は于吉を短慮にも処刑にしたことがあった。
民達の間では孫策が死んだのは于吉の呪いだというバカらしい噂が広がっていたのだが、……その真相がどうであれ周瑜の死も于吉仙人が絡んでいるとは思わなかった。
「あ~っ! もうっ!」
突然パンッ、パンッと頬を叩いて周瑾は叫んだ。
「うだうだ考えるのはやめた! もう、誰だかわかったんだ! 悩んでも意味なし! やっと解放されるんだから!」
「し、子英、壊れた?」
「うん、壊れたよ。……何かがね、」
そういって振り返った周瑾の顔はとても爽やか。
けれど、吹っ切れたふりをしているだけだ。
動揺は隠しきれてない。
孫登は注意深く訊ねた。
「子英、犯人は誰……?」
「ごめん、言えない。言えないんだ……ったくバカみたいだな僕。
主公の言うとおり、どうして父上が病死でなくてはいけないのか、どうして犯人をかばうのか、かばっていたのか、本当に簡単な理由だったんだ。本当にごめん。子高を巻き込んで、最後まで利用して」
「そんなことはどうでもいい、あやらなくていいんだ。ただ今の君は無理しているようにみえて、心配でならない」
「あは、子高にはお見通しか、」
周瑾は苦笑を浮かべて、
「子高、好きだよ」
「え?」
周瑾の冷たい手が孫登の左頬にふれ、右頬にかるく唇を押し当てる。
「な、なななっ、なにをっ!」
孫登の顔が真っ赤になるのをみやって周薔はニヤリと笑った。
「ふふっ、西域では親愛の意味だって、旅人からきいたんだいけど」
「ここは西域じゃない!」
「へぇ……、一緒に寝てもこれは恥ずかしいんだ? かわいいね子高」
「お、大人をからかうんじゃない!」
「だって、からかいがいあるんだもん。あは、んじゃ、お休みっ」
とん、と周瑾は孫登の胸をついて駆けていった。
その背を呆然と見送って孫登はため息を吐く。
「まったく、子英には振り回されてばかりだ」
(けれど嫌じゃない)
気持ちの良い風を吹き込んでくれる存在だ。
ずっとそばにいてほしいと願ってしまう。
「子高さま、」
突然張昭に呼びかけられ孫登はあわてて振り返って供手した。
「張公…夜分遅く押しかけてすみません、」
「いいえ……」
シワだけの顔にさらに笑いシワを刻んで微笑む。
けれどそばに周瑾がいないと察しとまた表情を厳しくあらためた。
「子高さま、少々お話があるのですかよろしいですかな?」
「え?」
「周 子英についてのことです……」
2
薬が重い。
こんなに小さいのに…。
張昭から受け取った薬は母の部屋で見つけた事があった。
けれど幼い頃であったし、母の薬かどうかわからない。
だからときたま訪れていた伯母に訊ねたら、伯母は柳眉を逆立てた。
『于吉、あの草臥れぞこないか……』
そう伯母が苦虫を噛みしめ憎悪のこもった低い声でその名をつぶやいたのをいまさらながら思い出す。
母の言葉をただ信じていた幼い頃だったのでその意味が解らなかったけど、つながりがあった。
周瑾はその日のうちに建業を出てた。
孫登に別れを告げないで。
『自分を見て欲しい』と願いながら好きな人に本当の自分を見せてはいない。
(ごめん、そしてさようなら……子高)
この件が解決したら周瑾は消えなくてはいけない。
脳裏に孫登と過ごした日々が蘇り胸を苦しく締め付けられる。
もう一緒に過ごすことはない。
僕はいなくなるけれど、そのことで子高は悲しむ? 僕の行方を手を尽くして探させる? もしそうなら嬉しい。そして、もし子高がつよく望むなら——ううん、ダメだ……。
ケジメを付けなくちゃいけない、
周瑾は手綱をギュッとにぎって心を引き締めた。
3
夕闇が押し迫り、皓々とした満月が浮かぶ時刻。
馬が嘶きをあげて周家の門前に止まった。
「……つい、た」
周薔はなかば呆然と呟いて馬からもどかしく下りるのと同時にどっと…大粒の汗が噴き出し、顎にしたたる。
汗をぬぐおうとしても気持ち悪くなって一瞬目の前が暗転した。
周薔は何とか意識を掴んで倒れるのを防いだ。
全力で馬を飛ばして強行軍で邸に帰ってきたので足下がおぼつかない。
地面が揺れているのか自分が揺れているのかわからない。
「薔姫さま!」
突然の周薔の帰りに家僕達はおどろき、馬丁を呼んだりして、あわただしくなりはじめた。
その門前に伯母の姿があった。
赤い衣はせわしなく動く人々の中でひときわ目立ち、毅然とした雰囲気はまるでずっと周薔を待っていたかのよう。
邸を抜け出したあの日から…。
「伯母さま」
香薔は姪の表情をみて笑む。
「真実を知ったようだな。……ふふ、疲れてはいるが、なかなかに清々しい顔をしている」
「ええ、ご迷惑をおかけしました伯母さま。私の勝手な思いこみで……」
「よい。そなたはそうでなくては。強く正しく、そして真実を求める。それこそ周薔の本性」
「伯母さま」
「つらかっただろう? がんばったな」
伯母の労い優しい手が髪を撫で柔らかい抱擁は疲れをいやしてくれた。
周薔は母にちゃんと抱きしめられた記憶は無い。
かわりにこの伯母は本当の娘のように優しく抱きしめてくれた。
唯一周薔だとみとめてくれた。
一人泣いていたときも辛かったときも。
見守ってくれ、そして甘えさてくれた。
どんなにこの人が母さまであって欲しいとおもったか。
(けれど、母さまには私しかいない)
父の代わりになるのはいやだったけれど、母を一人にしたくはなかったから。
父さまを亡くし、片翼をなくした『比翼の鳥』のように儚くなられるのは嫌だったから。
(でもその真実は……)
周薔は伯母の顔をジッと見つめた。
「伯母さま…、父の死の真相を知っていらしたのですか?」
伯母はうなずいて、悲しげに微笑んだ。
「それが運命……妹が弱いと言えばそれまでだが周瑜もそれを望んだ」
「父さまも?」
「周瑜は真に情ふかい男だった。一見、自分の意見をおし通すようにみられがちだったが、すべてを受け入れてしまう部分も持ち合わせていた。だから死をも受け入れたのだと思う。いや、ちがうな。望みだったのかもしれない……我が夫が亡くなったと同時に周瑜の夢も潰えたのだから……」
「え?」
「いや、なんでもない。さ…、はやく母のもとへいきなさい」
伯母は優しく微笑んで周薔の背をおした。
☆
周薔はそのまま母の臥室にむかったが、母の姿はなく寝台は温もりをとどめていなかった。
なら、ずっとまえからここにいなかったのか。
「母さま…どこに」
もしかして……、父さまの室?
父が逝ってから使われなくなったが、時折、母は思いついたように室に行って行李にしまわれた父の衣服をとりだして、父の香りに包まれ眠ることがあった。
かすかな残り香を、夫を求めて。
周薔は急いで、父の室の方へと向かった。
(やっぱり)
普段は固く閉ざされているはずの扉が半分ひらいており母の被巾が階に落ちていた。
周薔はそれを拾いあげて、中ですすり泣く声をきく。
「どうして、私をおいていってしまうの……?」
(母さま……)
複雑なわだかまりがざわざわと喉元にわいて、苦しくなる。
母に長年吹き込まれた『偽り』を清算するためにここにきた。
周薔は大きく深呼吸をして、声をかけた。
「ただいま戻りました、母さま」
母は弾かれたように顔をあげると周薔のもとに駆け寄り、爪が肩に食い込むほど強く抱きしめた。
「あぁ、公瑾さま! どうして私をおいていったのです、私は、私は、どれだけあなたのことをまっていたことでしょう!」
「私は父さまではありません。私をよく見てください」
いやいやをする母の細い手首をとって周薔は静かに告げた。
「私は母さまがいうように、孫権が父さまを殺したのだと思いこんでいました。
だから男装をし、名を偽り、孫権を訪ねた。父さまの死の真相をそして真実を求めて。けれど孫権は父のことを本当に信頼しておられ、父さまの死を心から悔やんでおられた。では…他に犯人がいるのではないかと思い、師傅の張昭をたずねました。
彼はことごとく父さまと意見が対立し、周瑜より重用されないことを逆恨みをしていたのかもしれないと。張昭はやはり父さまの死の真相を知っていました。けれど張昭も私の求める仇ではなかった。けれど彼は多くは語らずにこの薬を託してくれた。それだけで私は解りました。
誰が父さまを殺したのかを……」
周薔は懐から薬を取り出した。
「この薬は母さまが父さまに呑ませていた薬。でもこれは毒……母さまはこの毒を父さまの薬に少しずつ混ぜて殺したのでしょう? 父さまを戦で亡くしたくないならば自分の手で、……そう思い立ったのではありませんか? 孫権や張昭はその事実をしり、むりやり父さまを病死ということにした……そう、すべては母さまをかばうために」
「ほ、…ほほほっ…、」
突然、母は長い哄笑を発した。
それは臓腑に低く響き悪寒が這う。
「母さま?」
不安になり呼びかけて、肩を揺らしてもしばらくは止まない哄笑。
途端、表情がおち、低く押し殺した声で呟いた。
「……どうして、一緒に逝かせてくれなかったの?」
「え?」
刹那、きらめく匕首を握りしめ周薔の肩を薙ぎ、赤い飛沫が母の白い頬に散った。
周薔は切られた肩をかばいながら、おぞましい形相の母を凝視した。
虚ろだった瞳は今、爛々と輝いて殺気が宿っていた。
二三、娘に匕首を振りかざす。
周薔は痛む肩をかばいながら白刃をかわした。
ふいに母は膝をつき娘を切なく見つめた。
「あのひとは一緒に逝くことを許してくれたのに……どうしてあなたは許してはくれないの?」
「どういうこと?」
「公瑾さまは私が毒を盛っていたことを知っていたわ。でも何も言わずに飲んでくれた……そう…あきらめていたのかもしれないずっと前から」
母の瞳は後悔に呑まれた。
もしかしたら母がとった行動と裏腹に、父に頑張ってもらいたかったのかもしれない。
その夢を支えたかったのかもしれない。
天下を二分にする計画を。
けれど実際は父が導こうとした夢も希望もすべてこの母が奪い去ってしまった。
その衝撃で狂ってしまったのかもしれない。
(矛盾した心に押しつぶされて)
「公瑾さまが逝ったあと、私もすぐに後を追うつもりだった。だけどあなたが引き止めたの……泣いて、泣いて、泣いて……おいていかないでと、泣いて私をとどめたの……」
母は両手で娘の顔を包む。
「母さま……」
哀愁満ちた母の顔をみて周薔は何も言えなかった。
「幼いあなたを置いてはいけなかった。
泣いてとどめるあなたを……でも、あなたは成長するほど公瑾さまに似てくる……性格も何もかも、ただ違うのは私と同じ女というだけ……。それがとても悔しかった。だって、あの人の生まれ変わりではないと、いっているようなものですもの。
公瑾さまがいない世界は私にとって意味がない。私の魂魄はあの人のそばに寄り添うためにあるの。今度は止めないでくれるわよね?」
花が綻ぶような笑みを浮かべ、再び、匕首を強く握った。
「いまから公瑾さまのもとに参りますわ」
匕首が落ちる。
母の白い喉元に向かって。
その手を止めたかった、でもとっさのことで止めることができなかった。
ちがう。
母の願いを叶えさせてあげるのがいいのだと、一瞬でも思ったから止められなかった。でも止めるべきだった。
(だれか、助けて!)
高い金属音が室に響き渡った。
周薔は目を瞠く。
「子高!」
孫登は鞘付の剣で匕首を跳ね上げた。
「あぁ…」
蒂花は崩れ、しなだれる髪の合間から憎悪に爛々と輝く瞳で孫登を睨んだ。
「……どうして死なせてくれないのです?」
「あなたは生きなくてはいけない。それが我が父が下したあなたへの処罰。
周瑜がなし得なかった世を命数が尽きるまで見届けることを」
孫登は冷ややかな威を放ち厳命を下した。それはあたかも王の威風をまとった強い言動。
「いやよっ、いやよっ! 私はあのひとのもとへ!」
「しばらく、眠りなさい」
這い匕首に手を伸ばす蒂花の首筋に手刀が落ちた。
4
「子英はバカだ! どうして一人でそう突っ走るんだっ! 少しは自重したらどうだ!」
周瑾に向き直った孫登は開口一番怒鳴りつけた。
孫登は周瑾をすぐに追いかけて、偶然門前にいた伯母に周瑾の居場所をきいたらしかった。
孫登は普段おっとりとしているが実は文武に長け、馬を操るのがとても巧みだ。
馬術が少々苦手な周瑾の後を追うのはたやすかったのかもしれない。
「……突っ走った覚えはないけど? あはっ、でも子高のおかげで助かった…ありがとう」
「はじめから私を連れて行けばよかったんだ」
孫登は被巾できつく周瑾の傷を止血する。
縛る布の強さが怒りの度合いを示していた。
孫登は置いて行かれたことに怒っている。
最後の最後でまた裏切って一人で帰って行ってしまったから……。
「ごめん、いつも裏切ってばかりで」
「まったくだ。でも、間に合ってよかった……君が無事で」
孫登はいつもの優しい笑みを浮かべて周瑾の髪を愛しげに撫でた。
周瑾ははにかみ「ごめん…」と小さく謝った。
「でもなんで、義母上だってわかったんだ?」
「張公からすべて訊いたから」
「そっか……」
周瑾は倒れる母の元に近寄り髪を撫で複雑な想いに支配される。
母さま……あなたがいままで生きていたのは私のためだったのですね……。父さまの後を追おうとしたのを私が引き止めていたのですね。
「ごめんなさい母さま……でも父さまだって追うことはゆるさなかったとおもう……」
孫登に聞こえないようにつぶやきハッと向き直る。
「子高、義母上を臥室まで運んでくれない? いまの僕じゃ運べないし、誰かに支えられないと立てないぐらいに母上は身体が衰えているんだ、ここにいるのだって気力だけで動いているにすぎない、はやく医師にみせなくちゃ……お願いだ、子高っ、」
「……わかった君はここで待っているんだよ」
孫登は母を抱え堂をいそいで出て行ったので背を見送り、ホッと息をついてから周薔は自嘲気味につぶやいた。
(私だけが母さまの言葉を信じ空回からまわりしていたに過ぎない、か……)
『公瑾さまは殺されたの』
その言葉から、『周瑾』という自分がうまれた。
でもこれで……。
(すべてが解決したんだ)
『周瑾』は消えなくてはいけない。
存在する意味は…もうない。
ずきずきと痛む肩を押さえると、血がべったりと手を濡らし、衣服を赤く染めている。
手当てしなくちゃいけないけど、大人しく孫登の言うことをきいてはいられない。
傷の手当を施すとき孫登は付き添うはず。
そうしたらばれてしまう。
女だということが。
この際ばれてもかまわないと思ったけれど、最後まで『義弟』でいたい。
「逃げなくちゃ……」
孫登が戻ってくる前に姿を消そうと立ち上がる。
けれど、扉のふちに手をかけようとしたとき、足が竦み、身体が傾いだ。
いままでの疲れが一気に押しかかる。
(倒れる!)
覚悟してきつく目を閉じる。
けれど。
「無理をするな」
しっかりと誰かに肩を抱きとめられた。
「子高?」
でも、声からして違う。
艶のある声。
それに花の良い香りが鼻孔をくすぐった。
(これは茉莉の香り?)
周薔はその腕にすがりながら顔を上げた。
長い髪を夜風に靡かせる長身の男。
月光が雲に隠され顔が確かめられないのがもどかしい。
「あなたは誰?」
「父の顔を忘れるとは、悲しいぞ、薔薔」
「冗談、父さまは死、」
「お前と似た顔が二つあるとしたら私だけだ」
薄雲が風に洗われ眩い月明かりが差し込む。
影が薄れ月光に照らされる……その人は。
「父さま? 本当に?」
自分と父は似ているとよくいわれるけれど、実際は違って。
明らかに父の方が男らしく、けっして女性らしさを感じさせない。
それに月の光が周瑜の輪郭を淡く溶かしていた。
周瑜は微笑み、皓々と輝く月を見上げる。
「ここには私の想いが強く残っているから少しの間、残ることができるのだ」
「意味がわからない。でも、もう私はダメなのかな? ……父さまが見えるって事は……そうか父さまは私を迎えにきてくれたんだ?」
「バカをいえ」
ぴん、と額を弾かれてムッとする。
その行為が次兄を思い出させた。
どことなく仕草がにている。
「そなたは心身共に負荷がかかって疲れが出たのだ。腕の傷もたいしたことはない」
「あは、そうかも、ほとんど休まずにかえってきたから……」
父は傷を負った肩をよく診みて優しく撫でた。
「ふふ、頼もしい娘だな。もっとしおらしく生きてもよかったものなのに」
「父さまが早く死んじゃったのがいけないのよ」
「そうか、迷惑をかけたな」
「ほんとうよ」
はじめての父子の会話にしてはいつもそばにいたかのような感覚で気安かった。
「私のせいで長く苦しめて悪かったな…お前は幸せにならなくてはいけない。愛しの我が娘……」
不思議、不思議、不思議…。
父さまにこうやって大きな腕に抱きしめられて声を聞くだけで嬉しい。
やさしい温もりに包まれて安心する。
父が早くに亡くなり、母を一人にしたことを密かに恨みに思ってきたけれどそれが空に融ける。
例え幻でもかまわない。
「父さま、会いたかった……」
それが、わだかまっていた、長年の父へ想い。
「愛しているよ、我が娘。幸せにおなり」
周瑜のささやきは心にいつまでも憂甘に響いた。
☆
「……ん?」
微睡みからすくい上げられ、ふと気づくと茉莉花の花びらの褥に周薔は横たわっていた。
上体を起こせたことにさらに驚き、肩に手をやって目を瞠る。
「傷が、ない?」
傷はきれいに癒えて止血の被巾がはらりと床に落ちた。
それに血痕もない、服にも床にも。
周薔は花びらを一枚つまんで考えた。
「父さま……が全部?」
あの刹那が夢幻しじゃなければ、この不思議はどう説明すればいいのか。
思いを巡らせ、たどり着くのはただ一つ。
「父さま…」
やはり夢幻しではなくて現で、でも不思議な力で自分をいやしてくれたとおもえば……。
心が温かくて、うっとりと幸せに浸かる。
幽鬼なんて信じない方だけど今回ばかりは信じたい。
(ありがとう父さま)
そのとき、周薔の字を呼んでこちらにかけてくる孫登に気づいて、あわてて窓から抜けだし自室に戻って素早く女物に着替え、一枚袍を引っかけた。
髪をもどかしく梳き、適当に結い上げながらこの後のことを思う。
この邸に『周瑾』という庶子は存在しないが『周家の華』が男装を好むということをしっている。
でもそのことは兄の周胤が家僕に箝口令をしいて、孫登が周瑾のことをたずねて周薔だと見当がついても皆は『知らない』と言い通すに決まってる。
どうする?
孫登に会いに行くか、それともしらを切り会わないか……。
孫登の前に現れない方がいいと決意したのに。
周瑾は周瑜の死の真相を知るための存在。
でも、今度は孫登のためだけに在りたい。
「……訊いてみよう」
第三者周薔として孫登に。
周瑾は本当にあなたにとって、必要なの? そばにあって良いの?
周薔は扉をあけて、肌寒い院庭へと降りた。
けれど、心は不安と期待で熱くみなぎっていた。
 




