第二章・周家の華
1
欠けた月明かりに照らされる四阿の中で周薔の腕にすがり幸せそうに目を閉じる母を複雑な思いで見つめた。
母の名は蒂花。
四十近いが、『江東の二喬』として姉と共に美貌で名を馳せていたときとかわらず、美しく年を感じさせない。むしろ、幼い。
父さまが死んで泣き暮らし、ついに気の病にふれてしまった、でも。
「あなたの父さまは殺されたの、孫権に……」
周薔の心を読んだのか、それとも思い出したのかぽつりと呟いた。
母の顔を注意深く伺いながら何度も聞かされる『真実』に周薔は相づちをうつ。
母は目を細め「そうよ」とうなずいた。
「殺されてしまったの、疎まれ殺されてしまったのよ……お願い…」
紅唇が紡く言葉は。
「孫権を殺して、仇を、とって、お願い、ね…?」
☆
「まったく、気が滅入る……」
周薔は母を臥室に送って薬湯を飲ませて退室すると、気が抜けたように階にしゃがみこみ、両膝を抱えてうつむいた。
「正気なのかそうじゃないのか、わかんない……仇をとれったって、私は孫権に恨みはないんだけど、でも……」
真実を知りたい。
母がいっていることが本当なのかどうか。
だからそれをたしかめるため建業寸前まで旅し途中で孫登と巡り逢った。
「……思いかけない出逢いだったなぁ、でも運がいいよね。今後『周瑾』として子高の元に訪れば孫権に目通りできないことはないし」
孫登の優しい微笑みを思い出して無性にあいたくなる。
「子高、今頃何しているんだろうか……元気になったかな……ふさぎ込んでなければいいんだけど」
「なにぶつくさいっているんだ?」
周胤は半ばあきれて、両手を腰に置き周薔の顔をのぞき込こむ。
「きゃっ、胤兄!」
「もう母上は落ち着いたか? ……って、コラ。そんなところにすわったら衣裳が汚れるだろうが、」
「別に気にしないよ。もう着ないし」
「なにぃ? せっかく刺繍の上手い下女に作らせたというのに、もったいない」
「なら、丈夫な袴褶が欲しい。それだったらずっと着てあげるよ」
普通の娘なら服の汚れを気にするものだけれど周薔の場合は違っていた。
まったくではないが、あまり服には頓着はしないし、女物より男物の方がすきだった。
周胤は苦笑して指先で周薔の額を弾く。
「いた!」
「わがままをいうな、お前は女なんだから」
「おしとやかな女に育てられなかったのは胤兄の責任もあるとおもうけど? 小さい頃からやれ剣を持て、馬に乗れってさ」
ムッとする周薔の顔を見てさらに笑みに深みが増す。
「俺の所為じゃないお前の気質が男勝なんだ」
「じゃあ、いまさらだよ。おしとやかにしろってほうが無理」
「ふん、まあいい……、ひとりで勝手に出て行ったバツとして一つ、舞ってくれないか? ちょうど女物をきているんだし」
「いいよ。それだけで許してくれるなら」
周薔は服のほこりを叩いて立ち上がった。
2
周薔は歌い、蹈鞴を踏まず爪先だけで軽やかに踊る。
桃色の爪がひらひら花びらのように優雅にひるがえり、春風が被巾をふわりと持ち上げる。
裳は風を孕み咲き誇らんとする華のよう。
天女が地に降りて舞遊ぶ。
歌声は空に透り、耳あたりが良い。
(これぞ、周家の華)
いまこの兄のためだけに舞ってくれると思うとこれほど至上なことはない。
これに長兄の技巧を凝らした琴があればこの上なく最高なのだが……。
周胤はうっとりと妹の艶姿をみつめ夢心地で酒を呑んでいたが。
嗚呼、夫、天で妻を想い、
妻、天を見ず過去に想いはせる。
夫を我が子に重ね、夫を違え……。
その歌におもわず酒を吹き出し、妹をきつくにらむが周薔は無視して歌舞しつづける。
妻、子に敵をと、泣き崩れ
子、肯ずかん……。
「まて、薔妹!」
「きゃっ…!」
いきなり被巾を掴まれて、ついで派手にこけた。
「痛ったいなぁ、なによ、人が気持ちよく歌っているのに!」
打った膝や肘をさすりながら、血相を変えた兄を睨む。
「今の詩は本当なのか! お前主公を仇だとおもって、それで…!」
「半分本当」
「おまえの半分本当というのは、裏があるからハッキリ言え」
「……いつも母さま、父さまは孫権に殺されたっていうじゃない」
「違う、父上は病が元で亡くなったんだ。軍医どのも、父上の側近たちもそういっている。母上がそう思いこんでいるだけだ。……反逆罪で一族が滅ぶざまなんて想像したくない」
「でも…もし、そうじゃなかったら? 父さまは東呉の軍を一手に担っていた重鎮。
孫権は父さまが脅威でいつ寝返るかわからない、そんな猜疑心から父さまを暗殺しようと考えたかもしれないじゃない……ま、推測にしかすぎないけど…でもあり得ない事じゃないわ」
「薔妹、」
周薔は微笑んだ。その花が綻ぶような笑みの中に凄絶が潜んでいるような気がして周胤は内心ぞっとした。
「安心して。孫権を殺そうとか恨みを果たそうとおもっているわけじゃないわ。だって孫権の首級をとったら蜀漢や魏にはほめられるかもしれないけれど百倍の恨みを買いそうだもの……けれど、真相はたしかめたいの、まずは本人にあってその口から真実を聞き出さないと気が済まないの!」
(まったく、この妹は…)
その意志の強さに周胤は止める言葉がみつからない。
どんな手段を使ってとめても妹は目的遂行のためなら何だってするだろう。
その意志の強さと行動力も父に似ているのかもしれない。
それから三ヶ月後。
雲一つなく晴れ渡った空を見上げて、う…っん、と周薔は背伸びをした。
「よし、旅日和!」
周薔はきゅっと、荷物を胸元でしばると塀を飛び越え邸を抜け出した。
周胤は戦にかり出され、しばらく邸に戻ってくることは無い。そして家長である長兄はもとより建業住まい。家のことはよく心得た家人に任せてあるし、伯母上に書簡を送って母の様子をみてもらうように頼んだ。
伯母・香薔は母の病状のことをよく心得て、周家によくおとずれては母の心を安らげてくれる。
香薔は神秘的な雰囲気をまとっており、そして母みたいに愛する夫が不運にも亡くなっても正気をうしなわず、娘息子を一人で立派に育てた強い女性……周薔はとても憧れていた。
きっと策伯父上は伯母の気性を愛おしく思っていたにちがいない。
じゃあ、父さまは母さまのどこに惚れたのだろうか?
邸の門前が騒がしくなってふと目を向ける。
護衛を伴った馬車が周家に入ったのを確認して周薔は軽く頭を下げた。
「伯母上、後は頼みます」
☆
一方、孫登は孫権に周瑾のことを話していた。
建業に帰ってから忙しく、それと父への複雑な溜飲がなかなか下がらず周瑾という周瑜の庶子と義兄弟になったといいはぐれていたからだ。
孫権は榻にすわり、その話を聞くと目尻めじりをトントン…、と二、三度叩いて面白げに呟いた。
「あの公瑾に庶子、か」
「はい。周瑾といい、とても美しい少年でした。そう…ですねあの周兄弟も整った顔立ちをしていますが…、周瑾は私が幼いとき見た周瑜の印象にそっくりなのです。香り立つというか」
「そっくりとはいうが、あのときそなたは六歳ではなかったか? 当時のこと、公瑾のこと良く覚えているな……まぁ、たしかにお前は公瑾の顔を見て、頬を赤らめておったな」
孫権は顎髭を親指でかきながら微笑んだ。
孫権、字は仲謀。
長江流域・江東、江南を含む呉の地を治める男の容貌はとても漢人らしくなく、彫りがふかく、むしろ西域人を彷彿とさせた。
澄んだ思慮深い瞳は青をたたえ紫髭は立派で貫禄と威厳が備わっていた。
それはこの国を十九のときから治めているという自任があるからだ。
兄・孫策は父・孫堅の悲劇的な死後、盟主の袁術に仕えていたが、江東六群を手中にした後、独立した。
けれど建安五年(西暦200年)不運にも恨みの矢がもとで夭折した。
享年二十六歳。
早すぎる死……継嗣・孫紹は香薔の腹の中で生まれてはいなかった。
よってまだ十九歳の孫権が後を継ぎ、その後、幾多の困難や災厄にみまわれたが、二十年以上政権を維持し、江東の安定を保っている。
それにかつての英雄たちは老い死ぬが孫権はまだ若く人望と人を従わせる威があった。
「ふん、しかし庶子というのはにわかには信じられない。公瑾は本当に愛妻家で他の女など目にもくれなかったぞ?」
「え?」
「それにな、公瑾の邸に遊びに行ったが最後、人目もはばからない夫婦の熱さは満腹になるほどべたべたで、もう勝手にしてろってぐらいにすごかった」
「そ、そうなのですか!」
「冗談だ」
「父上…」
孫権は半ばあきれて息子に注意する。
「お前もいちいち冗談を真にうけるな。その年になって素直すぎる。冗談を返すか、わらって無視するかしろ。しかし本当に鴛鴦夫婦だった。わしも一人の女を愛することができたらと思うほどに。まぁ、無理なはなしだったが」
くつくつと喉をならしてゆっくりと窓辺へより、青い昊を見入る。
その横顔は切なさがにじみでて、ふとすればその碧眼から涙が溢れるのではないかと孫登はおもった。
「瑜兄が……いなかったら、我が一族は争乱に巻き込まれてこの世に名を覇せなかっただろうな。いや、…瑜兄が策兄と運命的な出逢いを果たさなかったらこの国はなかった……。だから周家との縁は今後も保っていきたいとおもう。公瑾の功績に報いるために魯班を周循の嫁にと考えているのだかどうおもう?」
(魯班を)
魯班は孫権の愛娘で、そして孫登を敬愛する可愛い妹の一人だ。
孫登は穏やかに微笑んだ。
「それはよろしいかとおもいます。循どのは優しいからきっと魯育を大切にしてくれるとおもいます」
孫権は「そうか、」と嬉しそうに頷く。
「お前の笑みは不思議な安堵感があるな」
父にそう言われて孫登はこそばゆさを感じた。
「……では、私はこれで」
辞して出て行こうとする息子に孫権はいった。
「もし、周瑜の庶子がお前のもとに現れたならすぐに報せろよ。会ってみたい」
「はい、是非に」
孫登は供手をして微笑んだ。
3
周薔……周瑾は建業にたどり着いた。
いつも長兄のもとに訪れるときは屈強な護衛兵を付けて馬車で行くのが常だったけれど、今回は再度挑戦の一人旅。
やっと建業まできたので、達成感で気持ちが高揚していた。
建業はほかの城市と比べて人の活気が満みちあふれている。
売り子の声や大道芸人たちの楽しげな声。
けれど戦の影が濃く、老人や女子供の姿が断然多い。
人々は戦の不安を払拭させようと必死に陽気に振る舞ってるだけかもしれない。
暗い部分を観察して少し高揚が冷めた。
「……、……、にしても、どうやって入り込むか」
周瑾は城をみあげて首を傾げた。
この広大な城内に孫登がいる。
久しぶりに孫登に会うのだから。
(印象的な再会じゃなくちゃ!)
と、張り切っていたのに、どこもかしこも立派な甲冑をきこんだ衛士がうろついて入り込む隙がない。それに周瑾の美貌にちらちらと視線を投げつけてくる。そして怪しくおもったのか近づく気配があったので早足で城門付近からにげだした。
(むりだな、こりゃ……)
ふう…、とあきらめのため息をついたとき、見知った人物を偶然、発見した。
それは長兄、周循。
けれど、久しぶりに会う兄はがっくりと肩をおとして人混みの中ふらふらあるいていた。
人と肩があたっても、あてられても、まるで幽鬼のように身体を小さくしてあやまるだけ。
周循に文句を言おうとした破落戸がその容貌を見ただけで罵声を飲み込み呆然とみおくる。
ほつれた前髪が女性的な美貌の影をつくり、平均男性より少々背が低く実際年齢五、六歳、ぎりぎりで十歳さばくっても通用してしまうほどの少年体型、それが周循。
とりあえず周瑾はタタッとかけて、バンッ、と気軽に背を叩いた。
「ヤ! 兄上!」
「あ…あ~…」
「えええええ! 兄上!」
どさっ…、と兄は派手に地面に突っ伏し、さすがに周瑾は驚き、悲鳴をあげて兄を揺さぶった。
「ど、どうしたの、兄上! ねえ!」
「……、……ふられた…」
「は?」
「本気だったのに…彼女のこと本当に好きだったのに遊びだったなんて、しかも大の大人を捕まえて『可愛かったの、そばに置いておきたかったの』って、なんだい僕は愛玩動物だったってことか…? ああ情けない…」
しくしくと泣き声に混じってそんなつことをぶやく。
(なぁんだ、また女にふられたのか)
「兄上それって何回目?」
周瑾は同情をたぶんに含んで兄の肩を叩いた。
☆
とりあえず、周薔は兄の邸に身を寄せることにした。
けれど邸についたとたんぐちをきかされた。
どうして建業に、そして男装して妹が訪れたのかなどの疑問はまだ湧いてこないらしい。
(吐露させておけばそのうち果てる)
周薔は運ばれた柑橘をむきながら、口の中に放り込むついでに相づちをうって兄の話を聞き流していた。
みずみずしいすっぱさが口いっぱいに広がる。
もう一つむいて実を口に放り投げたと同時に周循はどん、と床をつよくたたいた。
「本気だったんだよ! 僕は! そ、そりゃこんな少年体型で…力も弱いけれど…でも父上のように戦に出て戦功をたてれば、きっとふり向いてくれる!」
「うーん、兄上病弱だものね。行軍なんて一時も耐えられないとおもうけど」
「うっ」
妹のしみじみとした言葉に心の臓をえぐられたらしい。
それは本人が一番気にしていることだった。
「胤兄はその反対で血気盛んで危なっかしいし、……絶対部下や上司に嫌われる性格だものね、」
ほんと二人足して割れば、周瑜の再来らしいだけど。二人とも欠陥品なのよねぇ。
周循の性格は温厚で頭は良いのだが、貧弱でさらに血に弱い。なので建業で内政に勤め、一方、次兄の周胤は血気盛、猪突猛進で自尊心が高い。
さらに父の七光りをうけているためか戦では傲慢だときく。
本当、妹にはやさしい兄たちなのだけど…。
ひと心地ついたところでやっと一番に問わなければいけないことに周循はたどり着いた。
「ところで、いつここに? それにしてもほんと男装をさせると父上にそっくりだねぇ」
「そのまま言葉を返すわ、兄上も女装すれば母上にそっくりなのにねぇって!」
「ゴホン! それはどうでもよろしい、一応兄として注意するけど男装はやめなさい。君は女の子なのだから」
「いいじゃない。自由奔放じゃなかったら私……僕じゃないし。ねえ、でも注意するところってそこなの?」
「? ほかになにかあるのかい?」
きょとんと首を傾げる周循に周薔はあきれた。
(天然ぼけ)
と心の中で悪態をついてこめかみをもむ。
「ね、兄上は孫権にあう予定はないの?」
「あるよ、明後日」
兄はにっこりと微笑んだ。
その笑顔は可愛い。実の兄でも抱きしめたくなる衝動を必死に押さえる。
さらに周循はしぐさも可愛らしく、顎に人差し指を乗せてうーんとうなった。
「なんだか、個人的な話があるようで…一体なんだろうね?」
「ねえ、兄上、僕も孫権に挨拶したい!」
「えええ? なにをいきなり言い出すんだい、この子はっ、」
「主公のお目に叶えば妾生活…世界はバラ色じゃない?」
「薔妹。兄はそんなは妹に育てた覚えはないよ?」
ムッと眉根まゆねを寄せて説とくように妹をしかりつける。
「アハハ、もちろん、うそよ冗談。でも本当はね…」
「わかってるよ。母上の事だね…、でも主公は無関係だとおもうよ。主公は父を兄のように慕っていたし」
「そうかしら?」
「会えばわかるよ、明後日に」
「え、ってことは連れてって、ううん、会わせてくれるの?!」
「良い子にしていればね」
「ありがとう、兄上!」
周循はクスクスと笑って感謝の気持ちを表して抱きつく妹の頭をそっと撫でた。
「じかにあわないと信じてくれないからね、薔妹は。ただし、条件があるよ」
「え?」
周循はフフ…、と裏が見えない、軍師ぽい笑みをうかべた。
4
「はずかしいわ、そんなっ……、私きいておりません!」
「それは当然、今日まで内緒にしてきたから」
真実を聞かされて魯班はとまどい、鴇色の袖で口元をおおってぶつぶつと文句をいい、キッと恨めしげに兄と父を睨んだ。
常々父に『顔も性格もしらないで嫁ぐのは嫌』『相手の性格をしってから結婚するかどうか決めたい』と宣言していたのだけれど、唐突すぎる。
「しかも、周循どのですって! わ、私には釣り合いませんわ…あの方のことだから沢山恋人がいるはずだもの」
そのしおらしさに孫権と孫登はわらった。
魯班はさらに顔を赤くしてさりげなく訊く。
「……周循どのは本当のところ、どのようなお方なのですの? うわさでしかきいたことなくて。美男で、音楽の才があって、かの周郎さまの風采があるって」
「うーん……言うなればうわさとまったく逆な人間かな?」
「じゃあ美しくありませんの?」
きょとんと首を傾げる妹をみて孫登はまた、うーん…と呻った。
「あ、いや…系統がちがうというか……好みが分かれるというか」
そのとき、侍従が噂の佳人の訪いをつげた。
「まぁっ?!」
魯班はあわてて柱の影に隠れて様子をうかがう。
「しおらしい事よ…」
孫権は苦笑して孫登に「なぁ、」耳打ちした。
「ええ、」
「周循にも、魯班との見合いことふせてあるのだろう?」
「はい。面白そうだとおもいまして」
周循とは共通の従兄弟・孫紹を介して親交があった。
そして先日、周循に直接あって父が個人的に話があると伝えた。本当の目的は伝えないで。
いつも穏やかなヤツが突然結婚話をもちだされたらかどんな顔をするのだろうか? という意地悪な思惑があった。
「周循、お召しにより参上いたしました。このたびは……」
周循は拝礼をし、口上をのべるのを孫権はとめさせた。
「堅苦しい挨拶はよい。くつろいでくれ。ここには登と…あとひとり。まあそれはあとでにしよう」
「?」
「唐突だが、おぬし、恋人はがおるか?」
「いいえ。恋人と呼べるような者も今のところ」
「なら、妾ぐらいはおるのだろう?」
「……いいえ。そのような者は傍にはおりません。父のように一人の女性を愛し抜きたいとおもっておりますので」
そう臆面もなく答える彼の顔はすこし冴えない。
先日、よしみにしていた女に振られたからだ。
だがその答えを聞いた孫権は満面の笑みを浮かべた。
「ちょうどよい。今日そなたを召したのはわしの娘の婿にとおもってのこと」
「はぁ、私を婿に、…………っえぇ!」
周循は思いもよらぬ展開に思わず声をあげて、すぐにはっと口を押さえるが、まだ信じられず、孫登と孫権を目を瞠って驚きの表情でみつめる。
まさに寝耳に水——周循にとっては。
孫登は少し笑った。
「どうして私に、そんな……」
「周家と縁を結びたいとおもったからだ。そなたの父、周瑜があって我が孫家の現在がある。そしてこれからも我が一族を支えて欲しいと望んでいる」
「主公…」
「周瑜の恩に報いるには血縁を結ぶことに意味があると考え、我が愛娘をそなたに娶せることをきめた。こちらへきなさい魯班」
柱の影に隠れていた魯班がしおらしくと父の勧めにでてくる。頬を赤く染めて。
「名を魯育という。どうだろうか? この娘はわがままで、顔も知らない相手と結婚するのはいやだと申してな。時間をかけて理解し合い、いずれはよい夫婦になってくれるとよいとをおもっている」
「魯育……」
周循は魯班を見つめ、そして魯班も周循をみつめた。
まるでなにか惹かれるように。
その様子をみて孫権は満足して大きく頷いた。
「みればみるほど似合いの二人だ」
その言葉に初々しく二人は照れ、周循はふと視線をそらすと同時に扉の透き間をすこしあけて様子をうかがっている薔妹を捕らえて、はっと思い出した。
「あっ、そ、そういえば!」
「どうした?」
周循は平伏していう。
「循めもあわせたいものがおります、よろしいでしょうか?」
「あわせたい者とは、どこかの才者か?」
孫権の興味ありげな口調に周循はあわてて首を振る。
「いいえ、違います! 先日妹がこの建業に遊びに参りまして……ぜひ紹介したくおもいまして…その…あの、」
「ほう…是非会ってみたい。噂の華は彼の二人を超える美形だそうだが、」
「私もぜひ、循どの、」
孫登も興味惹かれ周循を促した。
「では、薔妹」
「失礼いたします……」
呼びかけと共に扉が開かれ、孫登と孫権はその涼やかな声にハッとする。
花も恥じらう美少女が拝礼してゆっくりと顔をあげ、口元を少し綻ばせた。
線の細い輪郭に、くっきりとした目鼻立ち、…濃い睫。桃色の唇。
蜜柑色の濃淡ある深衣に、髪を美しく結って、玉をあしらった簪が歩むたびに擦れて澄んだ音をたてる。
「あっ…」
「あぶない!」
途中で足が縺もつれて床に倒れる寸前、孫登と周循は同時に彼女をささえた。
「大丈夫かい、薔妹?」
「ええ、ありがとう兄さま…そして子高さまも。恥ずかしいですわ、とんだ粗相を……」
はにかむ佳人を孫登はじっとみはいった。
(なんて、儚くて美しい人なんだ。いまにも消え入ってしまいそうな……)
孫登は不安になって彼女の細い手を強く握った。
周薔は白い頬を朱に染め、蚊の泣くような細い声で告げる。
「子高さま…、もう大丈夫です。手をお放しになって…痛いです」
「あ、すまない」
「いいえ、お優しい方……」
頬を染めて流し目をおくるその笑みは『艶の華』。
(これが周家の華……)
孫登の胸が異様な早さで高鳴った。
☆
まだ、手に温もりがある。
孫登はその手の温もりが夢でないことに安心して、そして切なくなる。
周循の妹、周薔。
紹介を受けてすぐ、彼女は体調を悪くして退場を余儀なくした。
生まれつき弱く華奢な上、あまり外に出られないのだという。
そんな彼女が無理して参上したのは孫登に一目会いたかったからだと周循から訊いたが。
「どうして、そうしてまでして私にあいたかったのだろう?」
孫登は欄干に手をかけ、皓々と輝く満月をみてつぶやいた、が。
「よ! 子高っ」
「!」
突然、背中を思いっきり叩かれ、
「わっ、わ、わ、わ!」
孫登は必死で手すりに力をこめ、気軽に背を叩いた周瑾は慌てて衣の裾をつかんでとめた。
「わぁっ、バカ、落ちるだろうが! なんだよ、軽く叩いただけなのに!」
「あ、すまないちょっと考え事をしていて……って、子英!」
周瑾は満足げに笑い、ぴしっと指を突きつけた。
「ふふん、ひさしぶり。子高。会いたくて会いたくて仕方が無くて、忍んであいにきたよ?」
「どうして、ここに?」
「よくぞきいてくれた。実は今日循兄と共に入宮したんだ。妹の傅でさ」
「そうだったのか。なら、それなら君も一緒に父上に会えば良かったのに……」
「だーかーらっ、僕は子高に最初に会いたかったの。それに僕は…庶子だし…」
「あはは、そんなこと関係ないよ。けれど会えてとても嬉しい」
孫登は微笑んで周瑾を抱きしめた。
義弟がこうやって忍んで会いに来てくれた、それがとてもうれしい。
「僕もあいたかったよ」
周瑾も抱きかえして小さくつぶやく。
「子英……」
ひとしきり再会の抱擁がすんだところで、孫登はまた苦笑をうかべた。
「しかし、そう忍んで会いに来ずとも、門衛に言っておいたのに、見目の良い美少年が私に会いに来たと申したら名前を訊いて通してくれって」
「え?」
「いっただろ? 私はいつでもまっているって」
「……なんだよ、じゃあ、そんした。わざわざ囮作戦しなくったてよかったじゃん…循兄にだまされたっ」
「え、囮?」
「あ、その……ほら、兄と妹が入宮するとき一緒について行ってそこで別れたんだ。兄たちは邸にかえってしまったし、僕は子高にあうため残ってたんだけど。でも大きな城だったからすごく迷っちゃったよ。
で、さっきようやく見つけることができて嬉しさあまって背中をたたいてしまったんだ、おもったより力入りすぎたのはそのせい……くしゅん、はくしゅん! あー風邪引いたかも」
鼻をすすりまたくしゃみを連発する。
「大丈夫かい? 室でゆっくりしよう」
「な~んか、意味深なせりふだよねぇ、それって」
「あはは……」
孫登はそっと周瑾の肩に自分の袍をかけて、ふと思う。
(この香り、あの人の香にそっくりだ)
「子高?」
「いや、なんでもない……」
孫登はおかしな妄想に終止符をうつ。
あの淡雪のような少女と鼻を掌でごしごしぬぐう元気な少年と結び付けようとしたことを。
5
「なんだよ、お酒弱いじゃん、おーいおきろよ、まだ僕は飲み足りないぞ?」
周瑾は顔を赤くし心地よく寝息をたてる、孫登の頬をかるくペチペチと叩いた。
しかし、むにゃむにゃ……、と何事か答えるのみ。
「ふふん、ま、酒乱よりいいけどね」
笑みをうかべて頬を指先で撫でた。
母性本能をくすぐられる可愛い寝顔だから。
前に義兄弟の契は結びはしたものの一緒に夜明けまで酒を飲みあかす約束はできなかったから今日実行したのだけれど……。
「だれが蟒蛇だって? 風邪を引くぞ、ったく、お前は僕より年上で大人なんだからしっかりしろよ……っていうか、こーゆう場面って逆なんじゃ…普通…」
悪態をつきながらも周瑾は孫登に上掛けをかけてやり、ついで酒壷から柄杓をついでぐっと飲み干す。
「う~ん……」
自分はまったく酔わない。
むしろ酒は美味しい水。
そういえば兄上たちの酔ったところを見たことがない。
これも美貌と共に両親から受け継いだものなのかもしれない。
(これはいいことだ。たぶん)
「それにしても、子高に惚れられちゃうとは……私も罪だわ」
二人は今までのこと(周瑾にとっては作り話)を語りあかしたが、しきりに周薔のことを口にしていた。
美しい少女で、触れたら溶けてしまうような儚げな印象。
それが周家の華だと。
本人を目の前によくあれほど形容詞がつらつらでてくるモノだと恥ずかしく思いながらきいた。
もし、孫登がいう『周家の華』が自分だと知ったらものすごく驚くかもしれない。
じつは今日、自分でも感心するほどの薄幸の美女を演じられたとおもうから。
循兄上も感涙するほどに。
あのとき、なかなか紹介されなくて、美女為ならぬ悪態をついて衛士にあっけをとらせていた。
しだい、中では思いもかけない縁談話がはじまってしまって周薔は驚きの声をあげて、またまた衛士に窘められたり……、ようやく目があった兄に紹介され中に入ったはいいけれど、とたん、着慣れない裙に足が絡からみ転んで。
とびっきりの皮肉を含んだ口上をいってやろうと思っていたのに、咳き込んでしまい、あわてた周循が、
『ああ! 大丈夫かい薔妹っ、だからいったじゃないか体調が悪いのだし無理して出歩いては…ましてや主公の御前で……やっぱり失礼しよう、申し訳ございません主公』
孫権もあっけにとられたようで退室を許可し、その後、周薔はやり場のない怒りを周循にむけて思いっきり殴った。
『どうしてこの機会をのがすのよっ! 私なにしきたのかさっぱりわからないじゃないの、もう最悪! 循兄のばか!』
兄の所為ではないとわかってはいたけれど八つ当たりをしなくきゃ、気がすまなかった。
もしかしたら兄は周薔が何かをしでかすと踏んでいたからわざとああ、むりやり退室したのかもしれない。あれでも父の血を引いていてけっこう策士なところはあるし。
本当のところは孫登の妃に…とでもおもっていたのかもしれない。
(子高さまにどうしてもお会いしたいと申しまして、と言っていたし…)
それを思うと複雑だ。
健やかな寝息をたてている孫登をふと見やる。
(たしかに、子高にあいたかったけど、それは義兄弟としてで……異性として好きと言ったら微妙なものが……ま、子高が時間を見つけて孫権に会わせてくれると約束をしてくれたし……、結果はよかったのかな? 今度こそ、真相をつきとめてやる)
周瑾はそばにあった孫登の袍を引っかけてそのまま横になった。
ほどよい酔いが身体を巡ったのか、それとも心地よい疲れが眠りを誘うのかあれこれ考えるのがおっくうになった。
まとろみに身を任せ、
(おやすみなさい……)
瞼を閉じた。