第一章・義母
1
ここまで無傷でこれたのだから運がいいのかも。
この乱世で一人旅ほど無謀なことはない。
脱走兵が賊徒と化して人や邑を襲撃するのは日常のことだから。
周瑾、字は子英。
まだ幼さの残る端正な面持ちには勝ち気な瞳が輝き、形のよい唇は薄くかつ瑞々しい自然の紅がのって白い肌に良く映える。
茶かかった艶やかな髪を赤い組紐一つで高く縛り、歩くたびに馬のしっぽのように揺れて背を叩いた。
少々汚れてはいるが、真新しい浅黄色の袴褶に緋色の帯。腰には細身の刀を佩ぐ。
華やかさがある少年。
周瑾は手で日よけを作りながら遠へと視線を馳せた。
緑緑とした草が生い茂った大地が続くばかりで城市らしきものはみえない。
「もう少しいけば城市が見えるかなぁ、そこで一休みして、それから衣服を整えて、…って」
かすかな金属音を耳にし、ついで不穏なわめき声が耳にぬけていく。
イヤな予感とともに胸を騒がせた。
「うあぁあ…!」
悲鳴と罵声、嘲笑が行き交い鮮血が大地に降り注ぐ。
「子高さま! お逃げください!」
「ばかをいうな! 置いて逃げることなど出来ぬ!」
子高とよばれた青年は剣を抜いて賊に立ち向かう。
致命傷を負った従僕にとどめを刺そうとする賊の剣を弾いたが、それは子高をおびき寄せる囮。
背後からそっ…と忍び寄った賊にふいをつかれて地面に転がされ、腕を後ろ手にとられた。
「くっ」
「子高さまっ!」
「うるせんだよ、だまってろ、」
賊は冷ややかに従僕の襟首に刀を突き立てて絶命させた。
無惨に命を絶たれた従僕を目の当たりにして子高はぎり、と悔しさと不甲斐なさに唇を噛む。
「おい、お前」
「!」
いきなり前髪を掴まれて顔をのぞかれる。
子高は吃と賊をにらみ返す。
「正直、たいした収穫がなくてつまらなかったが、」
子高の首筋に匕首をあて、細い鎖を引き、技工を凝らした銀細工の首飾りが釣れ、賊は笑む。
「これひとつでも値打ちがある」
「返せっ、それは母の!」
「ほほう、形見か。安心しな、高値で売っぱらってやるからよ、そしてお前は死にな、」
悲鳴と血飛沫があがった。
しかしそれは、賊の手首から吹き出た鮮血。
どこからか匕首が飛んできて賊の手首に命中したのだ。
解放された子高はそばに落ちていた剣を拾いざま賊の心臓を貫いた。
「ぎゃあ!」
ついで、あっけをとられていた賊二人の胴と首を薙ぎ払う。
簡単に捕まったとは思えない子高の剣技に、賊はあわてて獲物をかまえなおすが賊をつきづきと一撃の下に倒し、返り血で塗られた剣をもって雄叫びをあげる子高は鬼神のごとく。
気圧されて尻込みする賊たちは、ふいに子高の身体がふらりと揺れたのを見逃さず、視線を交わし嗤った。
好機、
賊が一斉に子高に襲いかった。
(ダメか…っ)
覚悟を決めてきつく目を閉じた、が。
「うしろ、がら空きだよ!」
甲高い声とともに鋭するどい一閃が賊の背後を襲う。
不意をつかれた賊は、突如背後に現れた少年に、周瑾に倒されていった。
2
「ありがとう助かりました、」
「礼はいいってそれにしてもすごいな、あっという間に賊の隙をついて倒すなんて。あとは体力が続いていれば僕の助けなんて必要なかったかも」
子高についてきた者は十五人。
そのうち生き残ったのはたったの三人。
死者、重傷者がおおく、素早く賊を縛り上げると子高と周瑾は手分けして応急処置を施し、軽傷の者に近くの城市まで県尉(けんい:現在の警察)を呼びにいってもらった。
周瑾は子高の首から血が流れ襟首を汚していることに気づいた。
「あ、お前首筋に血が、」
「大丈夫、かすっただけだから」
「それでも痛いはず。えっと…これ使って」
周瑾は懐ふところから傷薬をとりだし、血をぬぐって首筋にぬる。
「本当に痛くない? 布巻く?」
「君は…」
「なに? ……ああ、お前もか、」
周瑾は怪訝に眉を顰めて、乱暴に頭をかいた。
「どうせ容姿なんて五十年もたったらシワくちゃだよ…おじいちゃんかばあちゃんかわからなくなってるよ」
「あ、違う、違う」
子高はあわてて首を振る。
「違う?」
「幼いとき、私を助けてくれた人にあなたがとても似てるから。……あ、もしかしてあなたは周家の方ですか? 周公瑾どのの…?」
「ちょっとまて、名を訊きたいんだったらあんたから名乗るのが道理だろう?」
「あ、ああ。失礼。でも、偽名を使いたいのですが、でも…そうしたらあなたも正体を明かしてはくれないですね?」
「当たり前なこと聞くなよ」
周瑾は苦笑した。
子高はそれでは……と供手をして、
「孫登、字は子高。この呉を治める孫権の息子です」
「僕は周瑾、字は子英だ。お前がいい当てたとおりかの英雄・周公瑾の庶子で……って! そ、孫権の息子だってぇ!」
孫登に指をさしたまま、口をぱくぱく。
(この温雅な青年があの!)
驚きのあまり声が出ない。
孫登は朗らかに笑って襟首をかく。
「あはは、やっぱり驚きますか?」
「驚くも何も、本当なのか!」
「ええ。だから偽名をつかいたかったんです」
「朗らかに笑ってる場合か?!」
周瑾はまじまじと孫登を見つめた。
面長で顎の線がすらっとした輪郭。
優しげな瞳と通った鼻梁。
孫家の血だろうか、周瑾と孫登の共通の従兄弟、江東・呉を築きあげた小覇王の忘れ形見、孫紹と共通し双眸には強い意志が宿っている。
でも、優しげな雰囲気がつよくて、さっきの戦いぶりを見なければ、ただの優男としかみられない。
実際年齢を訊いてさらにおどろいた。
二十五歳、らしいが見た目はもっと若く、二十歳前にみえる。
先の襲撃ですっかり衣服などは乱れて返り血が飛び散ってはいるけれど、よくみれば絹の巾を頭にかざり、紺地に金糸銀糸で竜紋の刺繍が施された袍をまとい、乗っていた馬車も立派なもの、これではねらわれるはずだ。
「そ、その太子さまがなんでこんなところいるんだよー!」
周瑾は悲鳴にも似た怒声をあげた。
3
周瑾はこの中華に呉の礎を築いた重臣・周瑜の庶子。
建安十五年(西暦208年)周瑜は北の勇・曹操の二十万の大軍をたった二万の軍勢で長江・烏林にて打ち負かし、そのまま破竹の勢いで荊州まで軍を率いたが、益州に向かう途中病に倒れた。
享年三十六歳。
その英雄の死を国民中が悼んだ。
彼の魏王・曹操も。
それから十数年、周瑾は十四才になった。
まるで周瑜の生き写しのような少年だと周瑜を知っている者は口にする。
「やっぱり周公瑾どのの子息でしたか。でもおかしいな、公瑾どのは愛妻家としられていました。妾がいたなんて…あ、すみません、あなたの存在を否定しているわけじゃないんです」
「あやまるなよ。男なんだから妾の幾人か匿ってもおかしくないだろ? 僕の母はいつも父をしたって戦場を共にしていた女なんだ」
「そうだったのですか。なら納得いく。男は女人がそばにいないと戦の熱さを、たえぎりを抑えられないですからね、」
「そ、そうなのか?」
(穏和な顔して平気でそんなこというなんて……)
逆にはずかしくなって周瑾は視線をそらした。
城市の宿、宿といっても雨風を凌ぐだけの場所だが、すこし金をつかませて個室を借りた。
空気がじっとり湿気を含み、しだい雨脚が早くなり地面を叩く音が激さを増す。
周瑾は白湯をグイ、と一気に飲んで息をつく。
(にしても、なんでニコニコ僕をみるんだ?)
まぁ、周瑜の庶子が珍しいのはわからなくはないんだけど。
「ところで、どうしてお忍びの旅を? 共も少ないし、狙ってくれっていってるようなものじゃない? というか、襲われてたし実際」
「……母に会いに行こうとおもって」
「母君に?」
「ええ。母、といっても私を産んでくれた人は早く亡くなり、育ての義母なのですけど。その母は今は離縁され、揚州の外れにある県で生活しています。
けれど先頃、義母の体調が良くないと聞き、見舞いに行く途中だったのです」
「母君の見舞いか…。護衛兵をほとんどやられても続けるのか?」
「続けます。胸騒ぎがしてなりませんから……」
「……うーん、どうしようかな」
「子英どの?」
「どの、はいらないよ、太子さま、」
「じゃあ私のことも字で呼んでくれると嬉しいです」
「あー、調子が狂う。僕に敬語を使わないでくれ、年上なんだしっ」
「すみません」
「あやまらない! もっと堂々としてろ! まったく循兄とそっくりでイライラする!」
ぐしゃぐしゃと、髪をかき回して周瑜の嫡子の名を口に出す。
「あなたは周循どののことをしっているのか?」
「え、あ、その……。そう! 最近、僕は周家に認められて一緒に暮らしていたんだけどどうも、庶子ってことで居心地わるくてさ、循兄も胤兄もとても僕のこと気遣ってくれるけど、それがうっとうしくて居づらくて……家を——ちょっと出ているんだ」
アハハ、と頭をかいて言いわけをした。
ちょっと理由は違うが、『家出』は本当のこと。ウソは半分しかついてない。
……いや、ほとんどウソ、だけど。
「まっ、それはさておき、護衛、僕がやってやろうか?」
「え?」
意外な申し出に孫登は目を瞠る。
「あはっ、じつは僕も揚州にはいろうとしていたんだ。お前は一人でも義母上に会いに行く気なんだろう? それって、危ないよなぁ。なら一緒に行こう。ね、一石二鳥だとおもわない?」
「いいのですか?!」
「ああ、男に二言はない!」
「ありがとう! 子英!」
周瑾の手を優しく包み穏やかに笑う孫登。
その暖かくて以外と男らしい手にもびっくりだけれど。
(なんて、穏やかに笑う人なんだろう)
なんとなく照れてはにかんだ。
4
孫登の義母、徐氏の邸は郊外にあった。
離縁されたとはいえ、立派な邸でそんなには蔑ろにされていないということがわかって、周瑾はすこしホッとした。
ここまでくる数日はさほど危険なことはなく、いちおう賊が復讐してきたらとは警戒したけれど、そんなことは一度もなく狩りをする余裕すらあった。
「さてと、無事についたし、親子水入らずしてきなよ。じゃ僕はこれで……」
「あ、まってくれ、子英!」
「たぁっ、いきなり袖を引っ張るなよ、義侠はさわやかに去るのが鉄則で」
「ぜひ、私の義母にあってくれないか」
「でも悪いし…それにここに来るまで護衛らしいことしてないしさ。賊もでなかったし、」
「でも帰りも護衛がいなくなったら不自然だろう? 母が心配する。——ね? いけないか?」
懇切丁寧に、しかも優しい声で請われて周瑾は折れた。
押しの弱い自分に内心いらだつけれど孫登の願いを無碍にできない。
「う…、わかったよ。……うん僕も旅でつかれたし、良い部屋案内してくれるだろうね?」
「ありがとう、子英」
孫登は本当に嬉しそうに微笑む。
「どうしたの、顔が赤い?」
「あ~…、いや~、なんでもない…」
「おかしな子英だ」
孫登はくすくすと笑った。
☆
薬湯の臭いが漂い、部屋に近づくほど濃く、鼻につく。
周瑾は無意識にくちびるを噛んだ。
ふと、母の泣き顔が脳裏に浮かんだから。
自分に泣きすがり願う母。
そして肩に食い込む爪と、媚びるような哀願。
それがいやで外に飛び出したというのに。
同じ臭いがここにも……。
(それにしてもなんで、薬の臭いが?)
……ああ、そう言えば病気だっていってたな。
「子英?」
「あ、なんでもない」
考え込みいつのまにか距離が空いてしまって、周瑾はあわてて孫登の後をついていく。
柱廊を奥へと進むと主の閨の前についた。
「じゃあ、ここでまっていてくれ。挨拶をしてから呼ぶから」
「ん、わかった。僕にかまわないでゆっくりしてきなよ。久しぶりに会うんだろ?」
「ありがとう、」
孫登は階をのぼって扉をあけた。
室内はすべて暗幕で遮られ、扉を開けた分だけの光がさし込む。
「義母上、ただいま戻りました」
拝礼をして中に入っても返事がない。
「義母上?」
孫登は不安になって寝台をのぞいた。
「義母上、お休みになられておられるのですか?」
頭から上掛けを被る義母みつけ、ほっと息をつき空気の入れ換えと明りを中にいれるため暗幕がかけられている窓縁に手にかけた時、つよく腕をつかまれた。
「ああ、やっと会いに来てくれたのですね!」
「!」
義母に突然抱きつかれ、孫登は驚いて、さらに首に絡む細い腕をはずそうと奮闘する間、唇を求められとっさに、
パンッ、と母の頬を叩いた。
「やめてくださいっ、義母上!」
「……、旦那さま、どうして?」
「……え?」
「ああぁ、なぜですの! せっかく会いに来てくださったのに、どうして私に冷たくなさるのですか! 捨て置いてくださればいいのにどうして会いに来られるのです! 私がいやなら殺してください!」
徐氏は手当たり次第物を投げつけて泣き崩れる。
孫登は呆然としたが物が胸にあたりハッと我に返って、徐氏の肩を優しく掴み顔をあげさせ、心苦しくなる。
以前よりくぼんだ瞳、痩けた頬……やせ細った義母……。
「義母上、私です、登です。あなたの息子です」
徐氏は、じぃ…、と見つめるが突然ころころ笑い、目を細めた。
「何をおしゃるの? 登さまはまだ幼くいらっしゃいますわ。からかうのはよしてくださいな」
「義母上、」
「私、あなたのために袍を縫いましたの。着てくれませんか?」
寝台の脇に折り目正しくたたんであった袍を、孫登の肩にそっとかける。
孫登は口の中で何かを呟いたが、それを飲み込み穏やかな言葉を紡いだ。
「ありがとう。秀瑛」
「あぁ、旦那さま……お似合いですわ」
しばらく孫登は父のふりをしてたわいない会話を交わした。
こうすることで義母の心を安らげられるとおもったからだ。
「秀瑛、熱があるね。薬を飲んでしばらく休むといい。そばにいてあげる…から、ね」
義母に上掛けをかけて寝かしつける。
やさしく接せられて義母・秀瑛は嬉しそうに従い、薬を飲むとすぐにまとろみに落ちていった。
5
一部始終をみまもっていた周瑾は疲れた顔をして出てきた孫登をみつめ、呟くように声をかけた。
「……大変、だな」
こんなとき励ましてやりたいとはおもうけど、むしろ、否定せず受け入れてやるのが一番だ。孫登はその言葉に、申し訳なさそうに顔を伏せた。
「すまなかった、ずっと外で待たせてしまって。義母はこの間まではちゃんと私だとわかってくれた……でも」
「うん…」
「義母はもう長くはないんだ……父にそのことをいったのだけど「そうか」と一言…、その顔には安堵が浮かんでいたんだ。
義母は一途に父を愛して……けれどその分嫉妬深く、次第父に疎まれ離縁されたんだ。
義母は最後まで父のもとにいたいと訴えたけれど、許されなかった。
それからだ…義母の気が触れたのは……もう義母は私を見てはくれない……」
「だから、父上の代わりをしたんだ…」
上背のある孫登を見上げ、言葉の後を続けるように訊く。
そして孫登の頬に一筋涙がながれているのに胸を突かれた。
「泣くバカがどこにいる? 子高が父上の代わりをして母を喜ばせた…それって、孝行している事じゃないか」
流れる涙を周瑾はぬぐってやった。
ぬぐってもぬぐっても涙が溢れてくる。
それでも周瑾は一生懸命ぬぐって、収まりがついたところで告白する。
「……実は僕の母上も子高の義母上と同じ、病なんだ」
孫登は驚いて目を瞬く。
周瑾は欄干に手をかけて、夕焼けを映す蓮池を見つめた。
おなじ病を患う母親をもつ息子か……。
(僕らは似ている)
「僕の母は父が死んでから気が触れてしまったんだ。僕を父と勘違いすることがある。……けれどまだ子高の母上と比べると良い方なのかも…まだ判別できるから。でも深く父の思いにしたって僕を見てくれないとき、子高のように父のふりをするんだ。
記憶にない周瑜のまねごとを、……もちろん父のことなんてどんな人かあまり知らないから、いつも母上は不思議そうに言うんだ『おかしな公瑾さま』って。
でも笑ってくれるのが嬉しくて……その微笑みの先は幻の父で、僕に微笑んでくれなくてもね。今日……お前の母上が僕の母上と同じで驚いた。慰めの言葉なんて本当はないのかもしれないけど……父のふりをしても罪ではないよ」
「子英…っ!」
孫登は周瑾にすがって嗚咽した。
抑えていた感情が溢れてとまらない。
義母への思慕、そして辛い気持ち…父になりきれない自分、自分だけを見て欲しいのに、見てくれなく悔しさ…。
(わかるから辛い、わかりすぎてしまう)
周瑾は必死に涙を飲み込んだ。
ただ、一緒に涙するのはいやだった。
「もう、大丈夫だよね?」
孫登は急に情けなくなって前髪をかき上げ視線をそらす。頬骨あたりが少し赤い。
「すまない、年下の君に情けないところをみせるだなんて」
「え? かっこいい子高を見たのは出逢った最初の一度っきりだったけど?」
「ひどいなそれは…、」
お互いクスクスとわらいあう。
そして孫登はなんどか口を開いては小さく閉じ、ひらいては躊躇って人さし指を唇に当てる。
その動作に周瑾は首を傾げた。
「どうした? なんかいいたいことあるのか?」
「あ、いや、その…ああ……」
孫登は意を決して、周瑾を真剣にみつめた。
「……子英、義兄弟にならないか?」
「え?」
「私にはきっと君が必要なんだ、君となら心の底から分かち合える、そう思う」
「子高…、」
「いや…かい?」
不安げに訊ねられ周瑾はあわてて首を横に振って、明るく頷いた。
「いいよ! んじゃ、子高が弟で僕が兄だね!」
「ど、どうしてそうなるんだ?」
「精神年齢でいったら僕の方が上だから」
さらり、と当たり前のように言う周瑾にあっけをとられたが気を持ち直し孫登は反論の声をあげた。
「まってくれ、ここは年の功ということで私が兄だ」
「ん? なんかその言葉の使い方おかしい気がしないでもないけど、あは、まぁいいや! あははっ! うん、嬉しいな、子高と義兄弟になるなんて。でもさ、『義兄さん』なんて呼ぶのはずかしいなぁ。 そうだ、紹兄からきいたんだけど周瑜と伯父は字で呼び合ってたそうじゃないか僕たちもそれにならって字で呼び合おう。それに決定!」
かってに決め、びしっと指をつきつける。
孫登は顎に拳をやりクスクス笑った。
周瑾の表情は本当によく変わる。
おどろいたと思ったら表情をなくし、落ち込んだと思ったら満面の笑みをうかべて……その笑みもいろいろ変化して飽きない。
「お望みのままに、子英。君といれば生涯飽きない気がする。じゃあさっそく杯を交わそう、義兄弟の契りの前祝いとして」
「酒、かぁ」
周瑾はにやり、とわらった。いかにも楽しみだというように。
「いける口?」
「呑んだことがないからわからないけど、ものは試し。そうだ、子高の方こそ大丈夫か? 噂で聞いたんだけど孫の一族はけっこうな酒が入ると人格が変わるそうじゃないか?」
「あはは、大丈夫。私は一族の中では蟒蛇なんだ。けっして下戸じゃない」
「あやしいもんだ」
「だから、試すんだろ?」
孫登は侍女に酒を用意するよう頼んだが、逆に血相をかえ侍女が必死に呼び叫んだ。
「子高さま、子高さまっ、太君が!」
「義母上が?」
「自害されました……!」
「!」
孫登は青ざめて義母の室に向かった。
そこには。
匕首で喉を突き命果てた義母の姿。
徐氏は悲愴な表情をしていた。
「私の…せいだ、そばにいると約束したのに」
孫登は徐氏の手をとって慟哭した。
もう、その手は何も握り返してはくれない。
「義母上…義母上っ!」
孫登は母の亡骸にすがった。
秀瑛はふと目覚め、孫登が……孫権がいないことに悲しみ命果てた。
自分が恋想い見せた幻だと思ったのかもしれない。
それほど夫を思っているのに実際にはあえない苦しみから解き放たれるために自ら儚くなったのだろうか。
孫登の慟哭は激しかった。
周瑾は為すすべもなく、ただその嘆きを黙って見守った。
そばにいてあげよう。悲しかったら励ましてあげよう、僕にはそれしかできないから。
周瑾は孫登の喪もにつき合った。
最初のうちは暗くふさぎ込んでいたが、次第気持ちの整理がついたのだろうか……。
孫登はいつも周瑾にすまない、と詫び、その度に周瑾は微笑んだ。
「べつにかまわないよ、僕たち兄弟じゃないか、気が済むまで義母上のこと悼めばいい。義母上も報われるとおもうから」
「ありがとう、子英……」
それから喪が明けて。
6
「いってしまうのか?」
周瑾は馬の鼻をなでながら頷いた。
「うん、予定より長い旅になってしまってそのことで僕の母上が心配しているだろうし。お前も建業に戻らないといけないんだろ?」
「ああ、……使者が来ている。子英、お願いだ。いつでも建業に遊びにきてほしい」
別れがたくて孫登は周瑾を抱きしめた。
力一杯の抱擁は華奢な周瑾の身体にはきつくて息が苦しい。
「子、子高、くるし…」
「本当は離したくない。別れたくない。悲しみにくれたときもそばにいてくれたただ一人の君を……、義弟を」
周瑾もその抱擁を心地よいとおもったけれど、孫登の長い指先が胸にあたっておどろいてとっさに身体を押しやった。
(って、バカ、ばれる!)
「あは、じゃ、じゃあな、これ以上抱き合ってると妖しすぎ!」
「そうか? そういえば子英…君の用っていったいなんだったんだい?」
「ん? ああそんなのはもういいんだ。お前まで儚くなられたら堪らないから、……それに僕の用もほとんど成功したようなものだしな…」
「え?」
「だから! 子高に儚くなられちゃ、いやだったの。僕の用事なんてそれに比べたらちっぽけなものだよ、もともと半分家出のようなものなんだし」
周瑾は花が綻ぶように微笑むと、颯爽と馬にまたがって供手をした。
「じゃあ、登兄さん。また逢う日まで。絶対、建業に遊びに行くから!」
「ああ」
周瑾は手を振って馬を駆った。
☆
建業、か。
周瑾は馬を駆けさせながらにやり、とわらった。
実は建業に、呉王・孫権に用あった。
周瑜の縁者といっても個人で江東の支配者・孫権に目通りするのはなかなかむずかしい。
だけれど、嫡子の義兄弟だとすれば少しは違ってくるはずだ。
(父の死の真相を聞きだす絶好の機になった)
孫登をだましているわけじゃない、孫登は好き。
義兄弟になれたのはすごく嬉しい。
(でも、私はすべてを子高に偽っている)
そう思うと心の臓に細い針が刺さる痛みに襲われた。
邸についたのは夜も深くなった時分。
久しぶりの我が家に戻って、深い感慨を覚えた刹那、怒声が降ってきた。
「薔妹!」
待ちかまえていたのは周胤。
松明に照らされている形相は鬼のよう。
いや門神というべきか。
(せっかく二親から受けづいた美形が台無しだ)
と思いつつ、周瑾は慇懃無礼に頭を下げた。
「胤兄哥。お久しゅうございます、お元気でした?」
「お久しゅうじゃない! おまえ、何ヶ月そとにでてたんだ!」
「え、半年ぐらい、かな?」
あっけらかんと応える周瑾の頭を容赦なく叩いた。
「いった~い! なんですぐ手をあげるの! そういうところ嫌い!」
「お前がバカだからだ! 女のくせして剣を持って放浪するなどと! どれだけ俺たちが心配して手を尽くしてさがしたか!」
「胤兄……」
周胤は周瑾を抱きしめた。
その抱擁はとても優しく、暖かい。
長旅の疲れの他に精神的な疲れも実感させられじぃん、と胸が熱くなる。
いろいろなことがありすぎた。
そしてその間、周瑾には甘えられる人がいなかった。
ちょっと横柄な兄でも心配して抱きしめてくれる兄弟がいるのは暖かい。
「バカが、心配したんだ……」
「ごめんなさい、胤兄」
「……おかえり、愛しい薔妹」
そう耳元でささやくと、身体をはなして背を向けた。照れくさかったらしい。
「さ、……さっさと湯に浸かって母上に顔を見せろ。とても心配しているから……ん? どうした浮かない顔して…」
「それは私がいなくなって? それとも父上がいなくなって?」
周胤はその言葉にハッと目を瞠った。
「薔妹、」
周瑾はため息をついて兄に背をむける。
「わがままでした。母さまは父さまが死んだ時から、ううん。それ以前から私の存在を忘れてらっしゃる。……仕方がないことです」
着替えてきます、そういって周瑾。
周薔は自室にもどり、扉を後ろ手で閉めたと同時にぽろぽろと冷たい涙が頬から零れた。
どうしようもない、孤独感。
それが心を満たし涙になって表れる。
(私のことなんて、本当はどうでもよかったんだ。……父上の姿が必要なんだ)
周瑾は偽名。
そして周瑜の庶子というのも、男子というのもすべて偽り。
本当の名は周薔。
周瑜の一人娘。




