境界を歩くもの
AIとの共同執筆です。
序章
エミールの指先は、いつも石鹸の清涼感と、古い羊皮紙が放つ甘い埃の匂いが混じっていた。
彼は辺境の村テリオンで測量士を務める傍ら、ギルドの登録冒険者としても活動していた。彼の仕事は、単に距離を測ることではない。未知の森に分け入り、獣の足跡や風の流れを読み解き、時には流行病を治すために薬草を取りに行きさらに魔物が出れば退治にも向かう。
村人が安全に暮らせる「境界」を確定させること、これこそが彼の使命であり人生であった。
彼が愛用する真鍮のコンパス、そして剣、防具には、無数の小さな傷が刻まれている。それは、彼がどれほどの難所を歩き、人々のために安全な道を示してきたかという勲章でもあった。
「エミールさんが引いた線の外側には、一歩も出るな」
それが村の、そして新米冒険者たちの合言葉だった。彼が測る「正確さ」は、この村において「命の保証」と同義だったのである。
彼には、まだ一緒には住んでいないが未来を共に歩む約束をした女性がいた。
診療所で働くサラである。
二人の間に流れる時間は、春の雪解け水のように穏やかで、しかし確かな熱を帯びていた。
「エミール、また無茶をして。森の奥はまだ地盤が緩んでいるって、あれほど言ったでしょう?」
夕暮れ時、水車小屋の仕事場を訪れたサラが、彼の服についた泥を払いながら少しだけ眉をひそめる。エミールは、彼女のそんな小言さえも愛おしそうに聞き流し、机の上に広げた図面を指差した。
「ごめんよ、サラ。でもさ、見て!ここが僕たちの家のリビングだ!この丘からは村が一番綺麗に見える。春の市が始まる前には、ここに最初の一本の杭を打つよ。君が診療所から帰ってくるのが、窓から見えるようにね!」
彼はいつも口癖のように将来の二人の住居について語っていた。
サラはそんな彼がとても愛らしく幸せを感じていた。
エミールは、冒険者として、測量士として稼いだ金で、少しずつ最高級の建材を揃えていった。彼はただの才能ある若者ではない。愛する女性との「普通の生活」を、自らの技術と努力で一歩ずつ、着実に手繰り寄せている、最も輝かしい人生のただ中にいる男だった。
最高の日々
その日の朝、テリオンの村は霧に包まれていた。
エミールは特別な気合を入れていた。数日後には家の着工を控え、今日はその最終確認として、森の境界付近を歩くことになっていた。村で流行り始めた流行り病に効く「月見草」の根を、ついでに採取してくるという約束も、村人達と交わしていた。
「午前中には戻る。午後は一緒に、丘で風の向きを確認しよう。……家の向き、やっぱり少しだけ南に変えようと思うんだ。君が育てるハーブによく日が当たるように」
村の入り口、石畳の端でエミールが言うと、サラは少しだけ言い淀んだあと、微笑んで彼の襟元を整えた。その指がわずかに震えていた。
「…ええ、待ってるわ。……気をつけて。今日はなんだか、風が騒がしいから」
サラは、エミールに伝えたいことがあった。
昨日診察所で検査し発覚した事実。
自分の中に宿った小さな温もり。
本当は今すぐ伝えたい、けれど、それは彼が無事に帰ってきて、二人で「新しい家」の土地に立つ、その最高の瞬間に伝えたい。彼女は、彼が喜ぶ顔を、驚いて自分を抱きしめる腕の力を想像しながら、大切にその言葉を胸の奥に仕舞い込んだ。
「じゃ、行ってくる。」
「ええ、気をつけて。」
それが最後の言葉になるとは誰が予想できたであろうか。
いや、冒険者をしている以上、常に死と隣り合わせであることは理解しなければいけない。
幸せな日々が彼らを麻痺させていたのだ…。
エミールは、雪解けで潤んだ森へ足を踏み入れ、いつものように冷静に地形を読み始めた。
「……ここは先週より五スンほど地盤が下がっているな。帰ったら図面を直そう」
独り言を呟きながら、彼は目の前の測量に集中していた。
そして事故はなんのドラマ性もなく起きた。
かつて、おそらく数十年前に、ある冒険者が仕掛けたまま放置した、錆びついた古い「大型獣用の落とし穴」がそこにあった。
ギルドではこうした未回収の罠の撤去は時々行っている。しかし、全てを回収できるわけではない。時に忘れ去られてしまうものもある。そんな忘れ去られた罠が年月を経て、雪解け水によって表面の土が少しずつ流れ、巧妙な落とし穴は、ただの「ありふれたぬかるみ」に擬態していたのだ。
エミールの靴が、その不自然に柔らかな土を踏んだ瞬間。
「……っ!?」
瞬時に反応した彼の身体能力。空中で身を翻し、最悪の落下を避けようとした。
だが、運命は冷酷だった。
逃げようと跳躍した先、そこには冬の間に凍てつき、鋭利に折れたまま放置されていた古木の太い枝が、まるで待ち構えていたかのように天を向いていた。
落下したエミールの脇腹を、その古木が容赦なく貫いた。
「がはっ……」
肺から空気が強制的に押し出され、視界が火花を散らす。
「し、んで…たまるかっ!」
英雄のような最期の言葉などない。ただ、激痛と、自分の体の中から溢れる熱い液体の音だけが、静かな森に響いた。彼は震える手で枝を掴み、村へ帰ろうと、サラに会おうと、爪を剥がしながらその木を掻きむしり続けた。
喪失
夜の森。松明の光が、湿った空気を不気味に赤く染める。
戻らないエミールを案じ、重いお腹でサラは捜索隊に同行していた。誰が止めても、彼女は意地を突き通した。
「……あ!」
捜索隊の先頭にいた男が、声を失い、松明を落としそうになった。
その先に、サラの「世界」の成れの果てがあった。
エミールは、泥にまみれた古木の枝に串刺しになったまま、力尽きていた。
絶望に打ちひしがれた空虚な、中途半端に見開かれた目と口。
貫かれた傷口は見るに堪えず、彼の体温を奪い去った泥水と血が混じり、黒ずんで足元に溜まっている。
何より惨たらしかったのは、彼の指先だった。最後まで生きようとした証か、あるいは死の苦悶か。枝を掴んでいた爪はすべて剥がれ落ち、露出した指骨が白く浮き出ている。あんなに器用で、正確な線を引いていた彼の指先が、今はただの、血に濡れた肉片に成り果てていた。
「ああ……ああああ……っ」
サラは、叫ぼうとして、声が出なかった。
膝が冷たい泥の中に崩れ落ち、這いずりながら、彼の下へ這い寄った。
「エミール……嘘よ、ねえ……起きて……冷たいじゃない……」
彼女は、震える手で彼の頬に触れた。そこにはもう、彼女が愛した温もりはない。
「私たちの…家を建てるんでしょ……? このハンカチ、柱に結ぶって約束したじゃない……」
サラは、エミールが一度も触れることのなかった自分の腹部を、彼の冷たくなった手で包み込むように抱きしめた。
「……赤ちゃんが、いるのよ……」
その声は、絶叫よりも深く、あまりに痛々しく、周りの捜索隊は俯くことしかできなかった。
「あなたの子供が、ここにいるの。……ねえ、エミール。パパになるって、笑ってよ。測量してよ。私たちの、これからの時間を……測り直してよ……」
サラは、動かなくなったエミールの胸に顔を埋め、消え入りそうな嗚咽を漏らし続けた。
彼女が願った「普通の幸せ」は永遠に地上から消滅した。




