言葉を失って
「うーん……だめね。全然だめ。地味すぎるわ。……退屈すぎる」
母上の値踏みするような視線を一身に浴びながら、俺は冷や汗を流して立っていた。
顎に手を当てた母上は、目を細めながら俺の周りをぐるぐると歩き回る。その様子は、まるで猫に狙われた鼠だ。
「それ、脱ぎなさい。もっと相応しいものを探すわ」
「……はい、母上」
俺は小さく溜息をつき、腰の帯を解き、上衣と下衣を脱いでいく。
上に着ていたのは**衣と呼ばれる、前合わせの交差襟の上着。
下は裳**で、足元まで垂れる、いわばスカートのような衣だ。
これらは、商国の伝統的な衣装だった。
素材は、飼育下で育てられた魔獣――巨大草蜘蛛の糸から作られた絹。
この絹は商国の主要な輸出品であり、低級修煉素材や豊富な食料と並んで、商国が繁栄できた理由の一つでもある。
俺は歴史や経済もきちんと学んでいる。
商国は、絹や修煉素材、食料を安価で供給する代わりに、天剣宗の庇護を受けている。
それが、この国の成り立ちだ。
下着姿になるまで服を脱いでいる間も、母上は呉家の衣装棚を荒らし続けていた。
冷や汗を垂らしながら見守る俺の前で、さまざまな衣や布が、容赦なく空中に放り投げられていく。
各自が自分の衣装を持ってはいるが、呉家には専属の仕立屋もいる。
特別な行事用の衣装や、時には普段着までも仕立てるのがその役目だ。
今いるこの部屋も、その仕立屋の工房の一角だった。
男女問わず、数え切れないほどの既製服が並べられている。
そして母上は――
今夜の祝宴に相応しい、たった一着を見つけ出すため、嵐のような勢いで店内を駆け回っていた。
……正直に言おう。
この時間が、戦いよりも怖い。
正直、早く一着に決めてほしい。
着る物なんて、そんなに重要だろうか?
いっそ「気にしすぎだ」と言ってしまおうか……。
――いや、やめておけ。
そんなことを言ったら、母上の説教が始まる。
ここに何時間も立たされて、身だしなみの大切さについて延々と語られるなんて、御免だ。
「うーん……違うわね……これも駄目……あっ、これは――いいえ、色が気に入らないわ……」
母上は独り言を呟きながら、次々と衣を手に取っては放り出していく。
俺はただ成す術もなく、その様子を見守るしかなかった。
そして――ついに。
「――あったわ! これよ、これ!
剣児、これを着てみなさい。きっとぴったりだわ」
そうだといいけどな、と俺は内心で皮肉を言う。
「……はい、母上」
差し出された衣を受け取り、俺は着替え始めた。
布地は肌に吸いつくように滑らかで、普段着ているものとは明らかに質が違う。
おそらく、商国で手に入る中でも最上級の絹だろう。
すべてを着終え、近くに置かれた鏡の前に立つ。
黒を基調とした衣――上衣と裳。
そこには、裳の左側から右の袖口にかけて、一匹の金色の龍が躍るように刺繍されていた。
鱗一枚一枚が精緻に縫い込まれ、今にも動き出しそうなほど生き生きとしている。
咆哮を上げる龍の顔には圧倒的な威厳があり、その身が俺の体に絡みつく様は、まるで鎧のようだった。
仕上げに金の帯と黒の靴。
……否が応でも、目立つ。
衣そのものは決して派手ではない。
だが、鏡に映る自分の姿を見て、俺は思った。
――これは、一族の後継者に相応しい風格を与えてくれる。
「ほら! すごくいいじゃない!
ねえ、剣児もそう思わない?」
母上が満足そうに胸を張る。
俺はもう少しだけ自分の姿を確認した。
鏡から目を離さず、ゆっくりと体を回し、角度を変えて眺める。
しばらくしてから、静かに頷いた。
「……気に入った。いいと思う」
「でしょう!? やっぱりね!
すごく似合ってるわ。黒はあなたの髪の色と相性がいいし、対比で肌が玉みたいに綺麗に見えるの。
それに、この龍よ。地味になりがちな装いに色を添えてくれる最高のアクセントだわ。
力と気品を同時に主張してる。
龍は富、権力、繁栄の象徴――あなたの象徴として、これ以上ないわ!」
一息もつかずに語り切ると、母上は腕を組み、
「どう? あなたのお母さん、すごいでしょう?」
とでも言いたげな顔でこちらを見た。
あまりにも誇らしげなその表情に、俺は思わず微笑んでしまう。
母上はいつだって、少しお調子者で、何事にも全力だ。
一族の者たちが彼女を「自由奔放な人」と評するのも、よく分かる。
否定のしようがない。
この人は――まるで風そのものだ。
「……すごいよ」
素直にそう言うと、
母上はぱっと頬を染め、両手で自分の顔を押さえた。
「ちょ、ちょっと! そんな真顔で言われたら照れるじゃない!
もう……さ、行きましょう。
美英ちゃんと静淑ちゃんも、そろそろ着替え終わってるはずよ」
俺は母上の後について、店の奥へと向かった。
そこには、仕切りの前に立つ呉桃花の姿があった。どうやら、ついさっき設えられたばかりらしい。
俺たちに気づいた彼女は振り返り、微笑みながら仕切りを指し示す。
「来るのが遅いと思っていました。女の子たちの着替えは、あなたより先に終わっていたのよ」
「それは母上のせいです」
俺は苦笑しながら言った。
「何度も着替えさせられましたから」
「なんだか、裏切られた気分だわ」
母上がしみじみと言ったかと思うと、すぐに手を叩いた。
「それはそれとして!
さあ、早く見せてちょうだい!
もう、待ちきれないわ! きっと二人とも素敵に決まってるもの!」
呉桃花が仕切りを横へと引いた――その瞬間、俺は息を奪われた。
まず視線が吸い寄せられたのは、美英だった。
彼女は白と青を基調とした漢服に身を包んでいた。
前が大きく開いた衣は、長く流れるような線を描き、袖は通常よりもずっと広く、優雅に揺れている。
その下には、ほのかに光を帯びた薄絹の内衣があり、そこには満開の桜が刺繍されていた。
裾の長い淡い青の裳は床にまで届き、足元を完全に覆っている。
その下方にも、まるで地に舞い落ちたかのような桜の花弁が散りばめられていた。
だが――
俺の視線を真に捉えたのは、衣そのものよりも、彼女の髪だった。
複雑に編み込まれた髪が頭を巡り、細い首筋を際立たせている。
鎖骨は隠れることなく露わになり、気品と優雅さを余すところなく放っていた。
それでいて、彼女の浮かべる笑みには、いつもの悪戯っぽさが宿っている。
――優雅さと茶目っ気。
その相反する雰囲気が混ざり合い、俺は思わず膝が震えそうになった。
美英の漢服が上品で優雅だとするなら、静淑のそれは――まるで一つの芸術作品だった。
彼女の裳は、深い紫から下へ行くにつれて赤へと溶け込むように色が移ろう布で仕立てられている。
つまり、上は紫、裾は目を奪われるほど鮮烈な紅。
衣はさらに濃い紫で、襟元には赤の縁取りが施されていた。
この装いは、美英のものよりもずっと身体に沿っている。
肌を露わにすることは一切ないのに、芽吹き始めた肢体の線をはっきりと浮かび上がらせていた。
俺は、思わず感嘆の息を漏らしそうになるのを必死で堪えた。
静淑の髪は、美英のように結い上げられてはいない。
長く、波のように背中を流れ落ちている。
その姿は凛々しくもあり、同時にどこか女性らしい柔らかさも感じさせた。
――昔、読んだことがある。
何世紀にもわたって侵略者を退け続けた、戦姫の物語。
今の彼女は、その物語に登場する女性そのものだった。
(……これ以上美しい光景を、俺は知らない)
目の前に広がるその光景に、俺は完全に言葉を失っていた。




