明深
再び闘技台の上に立った。
二メートルも離れていない場所で、明深が薄ら笑いを浮かべている。
その、絹の手袋でもはめたような嘲笑が、俺の中の怒りに火をつけた。
同時に、思考が研ぎ澄まされていくのを感じる。
――理由なんてどうでもいい。
あの顔を叩き潰す。それだけで十分だ。
(卑怯な真似をしていようが関係ない。
どれだけ不正を重ねようと、それでも俺には勝てないってことを証明してやる)
「顔色が悪いな、剣宝。
今ならまだ退いてもいいぞ? 賢い選択をしたって、誰も笑わない」
明深の声は、耳障りなほど見下した響きを帯びていた。
俺は口元に笑みを浮かべる。
「ご心配どうも。だが、この程度の怪我があっても、君は大した脅威じゃない。
俺のことより、自分の身を案じたほうがいいんじゃないか?」
ぴくりと、明深の額に青筋が浮かんだ。
頬と耳がみるみる赤く染まっていく。
「……その怪我で、まだそんな減らず口を叩けるとはな。
やはり俺が、貴様を現実に引き戻してやる必要がありそうだ」
「はっ!」
俺は鼻で笑った。
「お前みたいな負け犬に俺が格付けされる日が来るとしたら、
それは黄河を恥にまみれて渡る日だ。
……まあ、挑戦するのは自由だがな」
周氏族の長老が、二人の応酬が続く前に一歩前へ出た。
「両名、準備はよいな。では、私に礼。家族に礼。そして、互いに礼。――試合開始!」
(始まる前から、俺が大きく不利なのは分かっていた)
この大会で、俺は強敵ばかりを相手にさせられた。
そのせいで疲労は溜まり、怪我も増えた。
一方の明深はというと、まるで朝露に濡れた花のように万全だ。
彼が本気で戦ったと言える相手は、せいぜい巨石孫くらいだろう。
――しかも、あの少年は形だけ抵抗して、早々に降参したに違いない。
だが、それでも――
(俺は、負けられない)
明深が駆け出した。
予想より速い。だが、呉美瑛や周麗華ほどではない。
俺は顔面への一撃を避けるため、後退する。
続いて身を低く落とし、明深の放った上段蹴りを頭上に通した。
「ふん! まだ蛇みたいにぬるぬる動けるようだな!
だが、いつまで続くか見ものだ!」
「ぬるぬる蛇のほうが、ぬめった蛙よりマシだ!」
明深は、明確な殺意を込めて攻め立ててきた。
拳と蹴りを、間断なく繰り出してくる。
だが、俺は受け止められない。
片腕は使い物にならず、もう片方も万全とは言えないからだ。
後退しながら、左右に身体を揺らす。
紙一重で拳をかわし続ける。
幸いなことに、明深の戦闘技量は大したものではなかった。
この男が持っているのは力だけ。
動きは大振りで、癖も分かりやすい。
――つまり、避けやすい。
「じっとしろ、くそっ! ぶんぶん飛び回るな、この蝿が!」
「蝿か。じゃあ、お前は何だ?
井の中の蛙ってやつか? たかが蝿一匹、捕まえられない蛙だな」
「黙れ!」
(残っている力は、まともな攻撃一発分だけ……)
それを使うのは、もうすぐだ。
だからこそ、俺はわざと明深を煽った。
怒れば怒るほど、冷静な判断はできなくなる。
必要なのは――たった一度のミス。
(来い……隙を見せろ。そしたら、ぶん殴ってやる)
その瞬間、スタジアム全体を揺るがすような低い轟音が響いた。
一瞬の注意散漫。
それが命取りだった。
避けきれず、肩に拳を受ける。
「っ――!」
俺は衝撃に合わせて身体を動かし、ダメージを最小限に抑えた。
それでも、痛みは鋭く突き刺さる。
もう、身体は限界に近い。
さらに、どこかで何度も轟音が鳴り響いた。
だが、今度は視線を逸らさない。
頬をかすめる一撃。
痛みはないが、その一瞬の隙を、明深は逃さなかった。
――ドンッ!
胴に重い一撃をもらい、俺はよろめきながら後退する。
「はははは! 見ろよ、お前のその様を!
情けないな! さっきまでの大口は、全部ハッタリだったってわけだ!」
明深は、勝ち誇ったように笑った。
「口だけで、力が伴ってない!
もう諦めろ!
ほら、四つん這いになって『ご尊敬する祖父さま』って呼べば――
呉美瑛との結婚式に招待してやってもいいぜ?」
「他人の力に頼ることしかできない犬のくせに、よく吠えるな」
「き、貴様ぇぇ!! 死にたいのか!!」
顔を真っ赤にした明深が怒鳴った。
――その直後だ。
俺が放った、たった一言の侮辱が引き金になり、
奴は完全に理性を失った。
明深は全身の力を込め、顔面を砕くつもりで拳を振るう。
(来た――)
俺はその拳の下へ潜り込み、
全体重を乗せて肩を突き出した。
――ドンッ!!
狙いは鳩尾。
「――ぶふっ!!」
肺の空気が一気に吐き出され、
明深は大きくよろめいた。
倒れてくれた方が楽だったが、そんな余裕はない。
腕の激痛を無視し、俺は襟を掴んで身体を捻り、投げ飛ばす。
「ぐああっ!!」
背中から叩きつけられ、悲鳴が響いた。
――終わらせる。
俺は跳び上がり、空中で身体を反転させ、
踵の裏を再び鳩尾へ叩き込む。
――バキッ。
骨が砕ける音は、絶叫に掻き消された。
その叫びも、すぐに途切れる。
明深は痛みに耐えきれず、意識を失った。
「はぁ……はぁ……っ、はぁ……」
俺はその場に座り込み、荒い息を吐く。
横には、倒れ伏した明深。
審判を務める長老が手を上げた。
「決勝の勝者は――」
「ちょっと待て!!」
怒声が、会場に響き渡った。




