次の試合
「俺の出番だな。二人とも、見てくれるか?」
俺がそう言うと、
「もちろん見るわよ」
と、美影が即答した。
「あなたが本気で戦うところ、ぜひ見たいです」
静姝も頷く。
「本気になるかどうかは、相手次第だけどな」
俺はにやりと笑った。
俺たちは第四闘技台へ向かい、俺は軽く跳び上がって闘技台に上がった。
すでに、相手はそこに立っていた。
俺は思わず、その少女の引き締まった体に視線を走らせた。
袖のない修練着を着ており、鍛え上げられた腕が惜しげもなく晒されている。左腕には金色の腕輪が一つ。日焼けした肌には、いくつもの傷跡が淡い桃色となって残っていた。
淡い金髪を後ろで一つに束ね、翠色の瞳を持つその容姿は、いかにも尚国の人間らしくない。
……母さんと、肌の色がよく似ている。
もしかして、同じ土地の出身なのか?
「あなたが武剣ね。思ったより、ずっと可愛いじゃない」
彼女は俺を上から下まで眺め回し、唇を舐めた。
「悪く思わないで。でもね――あなたを倒せって頼まれてるの」
その声はあまりに小さく、周囲には誰にも聞こえない。
それに彼女は貴賓席の方を向いていなかったから、読唇術ができる者にも見られる心配はない。
……なぜ、俺にこんなことを言う?
仮に誰にも聞かれなくても、危険じゃないか。
俺が審判に告げれば、それで終わりだ。
……いや、無理か。
俺の言葉だけじゃ証拠にならない。
彼女が否定すれば、それまでだ。
それに、試合前に挑発するなんてよくある話だ。
それでも……なぜ、わざわざ?
ただ人をからかうのが好きな性格なのか。
それとも、もっと別の意味があるのか。
俺は唇を引き結んだ。
「そうか。仕向けたのは武偉か? それとも、明漢に雇われたか?」
「さあ、どうかしら?」
彼女はくすりと笑った。
「両者、準備はいいか?」
審判が声を上げる。
「私に一礼。祖先に一礼。互いに一礼――」
そして、
「――始め!」
本来なら、相手の戦い方を見極めるまで防御に徹するつもりだった。
俺は敵の癖や型を把握してから戦略を組み立てるのを好む。
だが――試合が始まった瞬間、それが通用しないと悟った。
開始と同時に、彼女はすでに間合いの内側にいた。
いつ距離を詰めたのか、まったく分からない。
まるで、瞬きをしたその一瞬で、目の前に現れたかのようだった。
反射的に首を傾け、拳を叩き落として距離を取る。
だが次の瞬間――
ドンッ!!
拳が空を裂き、爆ぜるような風圧が炸裂した。
衝撃波が肌を叩き、俺は思わずよろめく。
――なんだ、この力……!?
俺は後ろへと体勢を崩しながら下がる。
だが彼女は止まらない。
執拗に距離を詰め、連続した拳を繰り出してくる。
一撃一撃が、空気を引き裂くほど重い。
拳が振るわれるたび、衝撃の余波が俺の体を打つ。
俺は歯を食いしばり、必死に倒れないよう踏みとどまった。
――普通の相手じゃない。
そう悟った瞬間、俺は後方へ数尺跳び退いた。
彼女が突進してくるのを見て、低く身を沈める。
両手で体を支え、後脚を跳ね上げる――蹴り上げだ。
だが彼女は、それすらも軽々とかわし、横から迫ってきた。
舌打ちし、俺は地面を転がるように回避し、そのまま跳ね起きる。
間一髪、彼女の蹴りが空を切った。
「本当に強いわね」
彼女は、初めて言葉を発した。
「私よりずっと年下なのに、ここまで反応できるなんて……正直、驚いたわ」
「……俺もだ。まさか、三大一族の外にいる人間に、ここまで苦戦させられるとは思わなかった」
そう返しながら、俺は息を整える。
「名前は?」
彼女は人差し指を唇に当て、楽しそうに微笑んだ。
「うーん。それは確かに不公平ね。あなたの名前を知っているのに、私の名前を教えないなんて」
一拍置いて、彼女は小さく頷いた。
「いいわ。――“月”って呼んで」
「……月? それだけか?」
「うん。それだけ」
月――古い言葉で“月”を意味する名。
正直なところ、妙な違和感を覚えた。
明るい髪、活力に満ちた瞳、そしてこの快活な雰囲気。
どう考えても、“月”という名には似合わない。
月と聞いて思い浮かべるのは、神秘的で、近づきがたく、どこか儚い存在だ。
それなら――呉美影の方が、よほど月に近い。
「今、考えてるでしょ?」
ユエがくすりと笑う。
「“この名前、私に似合ってない”って」
「……」
「それ、当たってるかもしれないし、外れてるかもしれないわ」
「どういう意味だよ、それ」
「さあ? どうかしら」
俺は小さく舌打ちした。
何か言い返そうとした、その瞬間――
ユエが動いた。
次の瞬間、彼女はすでに俺の懐にいた。
――速い!?
瞬きをした、その一瞬で距離を詰められたかのようだった。
俺は歯を食いしばり、反射的に両腕を上げて防御に入る。
バキィッ!!
鈍く、嫌な音が響いた。
衝撃が腕を貫き、全身に走る。
前腕が、まるで乾いた枝のように軋んだ。
「ぐっ……!」
俺の体は地面から浮き上がり、そのまま後方へ弾き飛ばされる。
――どうなってる……!?
ただの打撃だ。
技でも、秘法でもない。
それなのに、この破壊力――。
理解が追いつかないまま、俺は空中で体勢を立て直そうと必死にもがいていた。
戦いが進むにつれ、俺は徐々に押し込まれていった。
歯を食いしばりながら首を傾け、次の一撃を紙一重でかわす。
――だが、次の瞬間。
頬に鋭い痛みが走った。
「っ……!」
指先で触れると、温かく湿った感触が伝わってくる。
血だ。切られている。
拳が直撃したわけじゃない。
彼女の打撃が生み出した凄まじい風圧――それが刃のように頬を裂いたのだ。
――あり得るのか……?
――身体鍛錬境の人間が、こんな力を持つなんて……!?
俺は自分の膂力にはそれなりの自信がある。
だが、それでも無から風刃を生み出すほどの力はない。
それは、この境界にいる者が到達できる領域じゃないはずだ。
その疑念が、ほんの一瞬――判断を鈍らせた。
ユエは拳を繰り出すと見せかけてフェイントをかけ、次の瞬間、足を俺の脚の裏に引っかけた。
「しまっ――」
強く引かれ、俺は片膝をつく。
次の瞬間には体勢を崩され、仰向けに倒された。
気づいた時には、ユエが俺の胴体に跨り、両腕を頭上で押さえつけていた。
――速すぎる……!
「……お前、十八を超えてるだろ?」
俺がそう口にすると、ユエの瞳が一瞬だけ見開かれた。
だがすぐに、妖艶とも取れる眩しい笑みが浮かぶ。
彼女は身を乗り出し、胸が俺に触れるほど近づいてきた。
そして、耳元で囁く。
「へえ。どうしてそう思ったのか、興味あるわ」
吐息が耳をくすぐる。
「でも――仮にそうだったとしても、どうするの?」
彼女はくすりと笑った。
「証拠、ないでしょ?」




