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第8話 吐くまで鍛えろ

父上は、俺とメイインが一緒に寝ることを固く禁じている。


それなのに俺たちは、その命令を破り――そのうえ、今まさに母上に見つかってしまった。


状況としては、あの時に近い。


父上の誕生日に、できたばかりのケーキをこっそり食べようとして、こっぴどく叱られたあの日と。


あの時は、本気で命の危機を感じた。


――今回も、同じように怒られるんじゃ……?


まずい。完全に油断してた。


メイインはいつも、夜明け前に目を覚まして自分の部屋に戻るのに。


どうして今日に限って寝坊したんだ?


そんなに疲れてたのか?


うわぁぁ、どうしよう!?


「……説明なんていらないわ」


母上が、少し困ったような笑みを浮かべながら言った。


「えっ……いらない?」


おそるおそる聞き返すと――


「いらないわよ」


そう言ったのはメイインだった。


彼女はゆっくり上体を起こし、目をこすりながら大きくあくびをする。


「だって、私がアイーリアンおばさまに、朝起こしてもらうよう頼んでおいたんだもの」


「は!? なんでそんなことを!?」


思わず声が裏返った。


「だって、今日は鍛錬を始める日でしょ?」


メイインはにっこり笑い、母上に頭を下げる。


「おはようございます、アイーリアンおばさま」


「おはよう、二人とも」


母上は優しく微笑んだ。


「でもね、もし父上がこのことを知ったら、きっと雷を落とすでしょうね」


「でも、内緒にしてくれるんですよね?」


メイインが、分かっているような笑みを浮かべる。


「えっ……そうなの?」


俺は混乱して首を傾げた。


母上は小さく首を振る。


だが、その笑みは変わらない。


「いいえ、言わないわ。これは私たちだけの秘密にしておきましょう。


……ただし、十歳を過ぎたらもう一緒に寝るのはやめなさいね。


さすがにそれ以上は許せませんから」


「……はい」


「それじゃあ、もう起きなさい。朝食は二時間後よ。遅れないようにね」


そう言い残して、母上は静かに部屋を出ていった。


その背中を見送ってから、俺はメイインを見る。


彼女はまだ目をこすりながら、のそのそと布団から出てきた。


白い肌着一枚のままだったが、すぐに薄桃色の襦裙ルーチュンを羽織る。


「ほら、手伝うよ」


袖を整えてやると、彼女は嬉しそうに笑った。


「ありがとう。――ジエンも、鍛錬着に着替えてね」


「うん」


俺の鍛錬着は白と黒の二色。


その中から一着を選び、素早く袖を通す。


小さな布袋を手に取り、メイインのあとを追って外へ出た。


外はまだ朝の冷気が残っていて、吐く息が白く染まる。


俺たちは物音を立てないよう注意しながら屋敷を抜け出した。


中庭には見張りがいたが、その目をうまくすり抜ける。


やがて屋敷を離れ、小さな森の一角にたどり着いた。


ここなら誰にも邪魔されない。


ザン市は、双牙山と呼ばれる二つの山の向こうにある。


巨大な獣の牙のようにそびえる山々だ。


ウー一族の屋敷はそこから馬車で半刻ほど離れた場所にあり、周囲は濃い森に囲まれている。


この森には多くの魔獣が棲んでいると聞くが、俺はまだ見たことがない。


白い息を吐きながら、俺は先を行くメイインの背中を追った。


「巻物、持ってきた?」


「もちろん」


袋を地面に下ろし、中を開ける。


ウー・イエイェからもらった巻物が整然と並んでいた。


「じゃあ、始めましょう」


メイインは「一」と書かれた巻物を取り出し、広げる。


しばらく目で追い、それからうなずいた。


「これには、持久力と柔軟性の大切さが書かれてるわ。


まずはストレッチで体をほぐしてから、走るみたい」


「了解」


俺はメイインの真似をして、動きを一つずつ試した。


簡単なものもあれば、かなり複雑なものもある。


中には体がついていかない動きもあり、筋が悲鳴を上げた。


……隣のメイインも似たような顔をしていたのが、少し救いだった。


「ふふっ。完璧にできるようになるまで、時間がかかりそうね」


「俺たち、まだ体が硬いんだな」


ため息をつきながら腰に手を当てる。


「よし、次は走るか」


「この広場を十五周ね」


「じゅ、十五!?」


思わず声が裏返った。


広場はかなり広い。


十五周も走れば、確実に倒れる。


……いや、その前に息が切れる。


それでも、覚悟を決めた。


「行くぞ!」


走り出す。


最初は調子がよかった。


冷たい空気を切る感覚が気持ちいい。


――だが、それも数分だけだった。


「はぁっ……はぁっ……っ、うぅ……」


胸が焼けるように痛い。


喉は乾き、脚が重い。


全力で走るなんて、今までしたことがなかった。


体が悲鳴を上げている。


「だ、大丈夫?」


「だめ……気持ち悪い……うぷっ……」


膝に手をつき、今にも吐きそうになる。


背中をさするメイインの手の温かさだけが救いだった。


「もう、最初から全力で走るからよ」


メイインは呆れたように言いながらも、優しく背中を叩く。


「巻物に書いてあったでしょ? 軽く走って体を慣らしてから、徐々に負荷を上げるって」


「き、聞いてたよ……でも、早く強くなりたくて……」


息も絶え絶えに言うと、メイインがくすっと笑う。


「その気持ちは嬉しいけどね。でも焦らないで。


体は一朝一夕じゃできないもの。少しずつよ」


「……うん、ごめん」


そのあとも、俺たちは鍛錬を続けた。


腕立て伏せ、懸垂、スクワット、片足スクワット……。


だが正直、まともにできなかった。


腕立てはすぐに限界。


懸垂は少ししか上がらない。


一つ終えるたびに息が上がり、長い休憩が必要だった。


――それでも、やめなかった。


吐きそうになっても、倒れそうになっても、ただ必死に体を動かした。


「こんなの……ずっと続けるのか……?」


思わず弱音が漏れる。


これはもう、拷問に近い。


唯一の救いは、メイインも同じように息を切らしていることだった。


頬を赤く染め、髪が額に張り付き、汗が光る。


白い息が、彼女の唇から漏れる。


森にも光が差し込み始めていた。


空気は少しずつ暖かくなっている。


だが、汗が冷えていく感覚が痛い。


ふと空を見上げると、太陽はすでに昇っていた。


「……今日はこれくらいにしようか。


汗を拭いて、朝ごはんを食べに行きましょう」


その言葉は、まるで天の救いだった。


これほど美しい言葉を、俺は知らない。

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