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 ――姫の告白

「ま、待って!」

ホウ・ジンスーの声が夜の静けさを破った。

ウー・メイインは振り返り、言った。

「ごめん。でも、待ってる余裕はないの。もうすぐ見回りの兵が来る時間よ。見つかる前に行かないと。」

「わ、私も行く!……マントだけ取ってくるから!」

「いいわよ。」

その返事と共に、メイインがにこりと微笑んだ。

――その笑みを見た瞬間、ホウ・ジンスーは思った。

やられた。

まるで掌の上で転がされていたような気がした。

けれど、もう仕方がなかった。

この機会を逃すわけにはいかない。

どれだけウー・ジエンに怒りを覚えていても、それが彼のせいでないことは分かっていた。

感情は思い通りにならない。

それは、かつて母が教えてくれたこと。

「愛っていうのは、理屈じゃないのよ」と。

そして、ウー・ジエンとウー・メイインの間には、確かに愛があった。

二人は日常の中に彼女を含めてくれていた。

けれど、時折感じるのだ――

まるで二人だけの世界があって、自分はそこに入れないのだと。

その痛みこそが、胸の奥に残る理由なのかもしれない。

もしかすると、自分が本当に欲しかったのは――

ジエンと二人きりの世界。

メイインが持っているものを、自分も欲しかったのかもしれない。

……でも、はっきりとは分からなかった。

その思いを抱えたまま、ホウ・ジンスーはマントを身に纏い、静かに窓から身を乗り出す。

夜の冷気が素肌を刺す。裸足の足が地面に触れ、思わず息を飲んだ。

その隣で、ウー・メイインが無言で窓板を閉じる。

ぱたん、と音がして、二人は完全に外の闇の中へと出た。

彼女は手招きする。

ジンスーは、胸の奥で渦巻く感情に押されるように、一歩を踏み出した。

厨房は食堂とつながっていた。

ウー・メイインは巡回する護衛を巧みに避け、施錠されていない窓からするりと中へ滑り込む。

生まれて初めて厨房に足を踏み入れたホウ・ジンスーは、思わず周囲を見回した。

並べられた調理台、かまど、壁一面の調理器具の棚。

――どこの厨房も、こんなものなのだろうか。

刃物類がこれほどまでに整然と並んでいる光景に、思わず目を見張る。

床も台も驚くほど清潔で、乱れた様子は一切ない。

呉氏一族が、いかに厨房の管理に心を配っているかが一目で分かった。

「食材は冷蔵庫にあるわ。こっちよ」

メイインに促され、ジンスーは頷く。

部屋の奥には扉があり、その先は地下の貯蔵室になっていた。

扉が開いた瞬間、冷たい空気が一気に流れ出し、ジンスーは思わず身を震わせる。

だが、メイインは平然とした様子で箱の前に歩み寄り、

果物や野菜、木の実、干し肉などを、外套の中から取り出した袋に手早く詰め込んでいく。

そして振り返り、にこりと微笑んだ。

「もう行きましょう。すぐに見回りが来て、窓が開いていることに気づくはずよ。急いだほうがいいわ」

「……は、はい」

メイインに導かれ、再び外へ出る。

巡回路を避けながら進むその背中を見つめながら、ジンスーは思った。

――本当に、すごい人だ。

護衛が近づけば即座に足を止め、物陰に身を潜める。

ときには巧妙な物音や視線誘導で、巡回中の族人の注意を逸らす。

まるで、誰にも見つからないことを最初から知っているかのような自信ある歩き方。

未来が見えているみたい――

そんな言葉が、ふと頭をよぎる。

そして同時に、胸の奥に小さな羨望が芽生えた。

もし自分に、これほどの隠密の才があったなら。

皇宮の護衛をすり抜けることだって、容易だっただろうに。

そう思わずにはいられなかった。

ウー・ジエンの居所に辿り着くまで、そう時間はかからなかった。

建物の大半は闇に沈んでいたが、片側の窓からだけ淡い明かりが漏れている。

そこは木々の陰に隠れるようにしてあり、さらに数人の護衛が配置されていた。

――どうやって通り抜けるつもりなの?

そう思った次の瞬間、ウー・メイインが両手を口元に添え――

「シャアアアアア……!」

怒った猫のような音が、数十尺先から響き渡った。

護衛たちはぎょっとして顔を見合わせ、音のした方向へと足を向ける。

「急いで」

そう囁くと、メイインはジンスーの手を取って窓へと駆けた。

軽く一度叩くと、窓はすぐに開き、まるで待っていたかのようにウー・ジエンが姿を現す。

「早く。戻ってくる前に中へ」

メイインは迷いなく窓を越えた。

ジンスーは少し遅れ、窓枠に足を掛ける。

そのとき――

木材に湿り気があったのか、足が滑った。

悲鳴を上げそうになった、その瞬間。

ウー・ジエンの腕が、彼女をしっかりと支えた。

倒れることも、音を立てることもなかった。

気づけば、ジンスーの耳は彼の胸元に押し当てられていた。

どくん、どくん、と規則正しく打つ心臓の音が、はっきりと伝わってくる。

彼の体温が、腕越しに伝わる。

それは――

この地に来てから感じたことのないほど、安心できる温もりだった。

……このままでいられたら。

そう思った瞬間、頬が一気に熱を帯びる。

な、何を考えているの……!

ウー・ジエンは優しくて……その、少し格好いいけれど……

出会ってまだ数週間しか経っていないじゃない。

もう想いを抱くなんて、そんなはず――

そ、そんなはず、ないわよね……?

「……大丈夫か?」

ウー・ジエンの声に、ホウ・ジンスーは小さく肩を震わせた。

「だ、だいじょうぶ……です」

そう呟くと、彼女は一度だけ身を震わせ、彼の腕からそっと身を離した。

鼓動を早める少年から視線を逸らした、その先で――

にやり、と。

ウー・メイインが、どこか得意げな笑みを浮かべているのが目に入った。

それを見た瞬間、ジンスーは思わず両腕で自分の身体を抱きしめる。

「……な、何を見ているのですか」

「別に? 何でもないわ。ほら、空腹なんでしょう。座って食べましょ」

そう言って、メイインはベッドに腰を下ろし、ぽんぽんと空いた場所を叩いた。

その意図を察し、ジンスーはウー・ジエンが窓を閉めるのを横目に、メイインの隣へと座る。

メイインは外套の中から袋を取り出した。

「手、出して」

言われるままに手を差し出すと、木の実やベリー、そして干し肉が数切れ置かれる。

干し肉を鼻先に近づけ、そっと匂いを嗅ぐ。

悪くはない……けれど。

(干し肉って、硬くて美味しくないって聞いたけれど……)

そう思いながらも、メイインが平然と干し肉を口に運ぶのを見て、ジンスーも意を決してかじった。

……まずくは、ない。

ただ、確かに噛み切るのが大変で、塩気も強い。

それでも、無礼だと思われたくなくて、彼女は黙って咀嚼し、飲み込み、もう一口食べた。

「どう?」とメイイン。

「と、とても……美味しいです」

「無理しなくていいのよ」

くすりと笑い、メイインは肩をすくめる。

「これは長旅用の軍糧だから、保存は利くけど味は二の次なの。煮込みにでもすれば、もう少しマシなんだけど……それができなくて、ごめんね」

「……大丈夫です」

ジンスーがそう答えると、ウー・メイインと会話している間に、ウー・ジエンは再びベッドの方へ戻り、二人から少し距離を取るように腰を下ろした。

あぐらをかき、身体を前に傾けると、メイインが差し出した袋の中へ手を伸ばす。

しばらくの間、部屋には誰の声も響かなかった。

三人は黙々と食事を続ける。

ジンスーはほとんど食べることに集中していた。

昼も夜も抜いていたせいもあるが、それだけではない。

――何を言えばいいのか、分からなかったのだ。

本当は、謝るべきだと分かっている。

朝のあの騒ぎは、彼のせいではなく、自分の未熟さが招いたものだった。

……けれど。

そう思うたび、彼女の中に根付いた高慢さが顔を出し、言葉を喉の奥で押し留めてしまう。

そんな彼女を救うように、先に口を開いたのはウー・ジエンだった。

「……俺が、謝らないといけない」

「え……?」

思わず、ジンスーは小さく声を漏らす。

ウー・ジエンは首の後ろを掻きながら、どこか居心地悪そうに視線を彷徨わせた。

「今朝のことを考えて……俺、言い方が良くなかったと思った。それに、君の気持ちをちゃんと考えていなかった。……ごめん」

「……っ」

ジンスーは一瞬言葉を失い、やがて顔を背ける。

「ち、違います……謝るべきなのは……私の方です」

声は小さく、しかし確かだった。

「私のあの態度は、行き過ぎていましたし……子供じみていました。あなたは何も悪くありません。ただ……正直でいてくれただけです」

「まあ、それはそうだけど」

そこで、メイインがくすっと笑いながら口を挟む。

腕を後ろにつき、少し身体を反らせながら、からかうようにウー・ジエンを見る。

「でもね、ジエンはもう少し言い方を考えるべきだったと思うわ。正直言って、この子、女心ってものが全然分かってないもの」

彼女は楽しそうに肩をすくめた。

「その点に関しては、どうしようもなく不器用よね」

「……それは否定できないな」

ウー・ジエンは小さくため息をついた。

「ええ。たぶん、そう。でも……私も、反応しすぎました」

ジンスーはゆっくりと言葉を選びながら続ける。

頬と耳が熱を帯びているのが分かる。それでも、彼が先に謝ってくれた以上、自分だけが黙っているわけにはいかなかった。

「私……嫉妬していたんです」

「……嫉妬?」

ウー・ジエンが首を傾げる。

ジンスーは小さく頷いた。

「ウー・メイインに、です。初めて会った時から分かっていました。あなたたちが、とても特別な絆で結ばれていて……深く愛し合っていることも」

言葉にするたび、胸の奥がちくりと痛んだ。

「でも……私はそれを見ないふりをしました。家族同士なら普通のことだと、自分に言い聞かせて……あなたとの関係には影響しない、と。でも本当は……ずっと、二人の近さが羨ましかった」

ウー・ジエンは、静かに距離を詰め、ジンスーの隣に腰を下ろした。

触れようと思えば触れられるほど近い距離だったが、彼はそうせず、続きを促すように手で示した。

「わ、私……宮廷には、友達がいませんでした」

ジンスーは指先をもじもじと絡めながら、告白する。


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