この気持ちは……
日が沈み、月が昇っていた。
侯静姝は膝を抱えたまま、寝台の上に座り込み、昼間の自分の爆発――あの感情の暴走を思い返していた。
どうして、あそこまで呉剣の言葉や態度に腹を立ててしまったのだろう。
彼は優しい人だし、静姝は彼のことを友人だと思っている。けれど――別に、彼を愛しているわけではない。
そもそも、この婚約自体が父――父君の都合で決められたものだ。
静姝を帝都に留めておきたくないという理由だけで、勝手にまとめられた話。
「……どうして、彼が美影を私より大切にしていたって、気にする必要があるのよ」
小さく呟き、自分に言い聞かせるように続ける。
「関係ないでしょう。私は別に、彼のことなんて……」
そうだ。
誰を愛していようが、知ったことじゃない。
私は父に命じられたから結婚するだけ。
そうでなければ、彼みたいな人と結婚する理由なんてない。
私は結婚なんてしたくない。
誰とも――したくない。
そう思おうとした、その瞬間。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
気づけば、視界が滲んでいた。
慌てて涙を拭おうとしたが、止まらない。
静姝は膝の間に顔を埋め、声を殺してすすり泣いた。
――何も感じなければよかったのに。
――呉剣が、他の貴族たちと同じ、父に取り入ろうとするだけの人間だったら……。
そうだったら、こんなに苦しまなくて済んだのに。
貴族社会にデビューしてからというもの、静姝は何度も耳にしてきた。
美しい、名門の血筋だ、将来が楽しみだ――そんな言葉の裏に隠された、欲と打算。
若くとも、静姝は見抜けた。
人の視線、言葉の選び方、態度の端々に滲む本心を。
だからこそ、分かってしまう。
呉剣には――
彼女に対して、悪意も、下心も、何ひとつない。
彼はただ、善い人で。
ただ、友人として接してくれているだけなのだ。
それが、どうしてこんなにも――苦しい。
もし彼が最低な人間だったなら、
嫌悪して、突き放して、簡単に終わらせられたのに。
帝都の宮廷で育ち、裏切りと政治が日常だった静姝には、
「友人」と呼べる存在が、今まで一人もいなかった。
だからなのだろうか。
彼に――そして、美影にも――惹かれてしまうのは。
何も疑わずに接することができて、
何も警戒せずに、心を緩められる相手。
それが、どれほど貴重なものなのかを――
もちろん、ここまで拗れてしまったのは、彼女があまりにも無防備になりすぎたせいだった。
――もっと慎重になるべきだった。
侍女たちはいつも言っていた。心は厳重に守りなさいと。
自分では守っているつもりだったのに……結局、私は何も分かっていなかった。
見て、この有様。
男の子一人のことで、泣いているなんて。
呉剣との間に起きた出来事を悔やんでいると、突然、窓に何かが当たった。
「……っ!」
静姝は跳ね上がった。悲鳴を上げそうになり、咄嗟に口を押さえる。胸を押さえながらそっと窓へ近づき、ほんの少しだけ隙間を開けた。
その向こうに立っていたのは、にやりと笑う呉美影だった。
「こんばんは、静姝。昼も夜も顔を出さなかったみたいだけど?」
静姝は視線を逸らす。
「……お腹、空いてなかったの」
その言葉を否定するかのように、ぐう、と情けない音が鳴った。
美影が視線を彼女のお腹へ落とし、静姝の耳の先が一気に熱を帯びる。
「……す、少しは……空いてるかもしれないわ」
最後に食事をしたのは、いつだっただろう。
昼も夜も抜いたのだから、ほぼ丸一日だ。
不思議なことに、今この瞬間まで、空腹を意識していなかった。
呉剣のせいにしてしまいたい気持ちが一瞬だけ湧いたが、静姝はそれを振り払った。
そこまで酷い人間ではない。
食べなかったのは、自分自身の選択だ。
美影は微笑み、軽く頷く。
「うん、そうだと思った。ほら、行こう」
「……行く? どこへ?」と静姝は首を傾げた。
「まずはね――こっそり厨房に……じゃなくて」
美影はわざとらしく咳払いをする。
「厨房を訪問しに行くのよ」
「……今、ものすごく危険なことを言いかけなかった?」
「そのあとでね、剣のところで一緒に泊まるの」
「――――っ!!」
美影の計画が明かされた瞬間、静姝の身体は完全に固まった。
一方の美影はというと、なぜ彼女がすぐに窓から出てこないのか不思議そうに首を傾げている。
「……会いたく、ないわ」
ようやく絞り出した言葉と同時に、静姝は顔を背けた。
「そう。残念ね」
美影はまるで気にしていない様子で肩をすくめる。
「じゃあ、あなたはここに残っていればいいわ。
私は――剣と二人きりで、夜を過ごすから」
その言葉に、静姝の目が大きく見開かれた。
美影が踵を返し、去ろうとするのを見た瞬間、心臓が激しく跳ねる。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
――なに……この、気持ち……
ほんの一瞬、世界がゆっくりと動いたように感じた。
このまま何もしなければ、呉剣との関係を修復する最後の機会が、指の隙間からこぼれ落ちてしまう――そんな予感が、どうしようもなく胸を支配する。
今、ここで動かなければ。
今、声を上げなければ。
そうしなければ――
この瞬間を、一生後悔することになる。




