嫉妬
静姝は、その日一日ずっと機嫌が悪かった。
朝のいつも通りの鍛錬を終えたあと、俺たちはほとんど会話もせずに朝食を取り、そのまま他の生徒たちと一緒に訓練場へ向かった。
すでに蘭老師は待っており、全員を整列させると、力を高めることの重要性について説教を始め、その後は準備運動――いつもの柔軟から始まった。
そして、組手の時間になる。
「私、あなたと手合わせしたいわ」
突然、静姝がそう言って、俺に指を突きつけてきた。
正直、かなり意外だった。
彼女は普段、美影と手合わせすることが多く、たまに他の女子とやることはあっても、俺を指名してくることはほとんどなかった。
そのせいで、俺は一瞬反応が遅れ、口を開いたときには、我ながら間抜けなことを言ってしまった。
「……俺と?」
俺は思わず自分の胸を指した。
「そうよ。あなたと。今すぐ」
有無を言わせない口調だった。
今まで聞いたことのない、妙に刺々しい声で、俺は少しだけ居心地の悪さを覚えた。
とはいえ、断る理由もない。
俺は一度だけ頷き、静姝と一緒に、他の組の邪魔にならない場所まで移動した。
数歩分の距離を取って向かい合う。
視界の端で、美影の姿が見えた。
クラスの男子の一人が、彼女に手合わせを申し込んでいる。
――もし、あいつがそれを口実に変な触り方でもしたら……
そんな考えが浮かんだ瞬間。
「よそ見しないで」
静姝の鋭い声が飛んできた。
「見るべき相手は、呉美影じゃないでしょう。――私よ」
……ああ。
そういうことか。
俺は内心でため息をつきながら、ゆっくりと視線を静姝へ戻した。
俺は首を勢いよく回して静姝のほうを見た。あまりに急だったせいで、ゴキッと音がした気さえする。
静姝は腕を組み、厳しい目で俺を睨みつけていた。その瞳は、まるで炎のようだ。すでに彼女は、基本の構えに入っていた。
静姝が学んでいる武術は詠春拳。
打撃と「貼り付く」動き――つまり相手を制し、コントロールすることを重視した、近接戦闘に特化した理論重視の武術だ。攻防一体の動き、触覚による感知、そして相手の力を利用することで、相手の中心線を制する。それがこの武術の根幹にある考え方だ。
非常に人気のある武術で、特に体格や筋力で不利になりやすい女性の間で好まれている。
伝承によれば、この武術は数千年前に修行の頂点へと至った女修士・**呉梅**によって編み出されたという。過去の悲劇をきっかけに生まれた技だとも言われているが、その真偽を知る者はいない。
だが近年、この詠春拳は商国で急速に広まりつつあった。
短期間で実用レベルに到達でき、体格や運動能力を問わず扱える――まさに実戦向きの武術だからだ。
一方、俺は自分の構えを取った。
いまだ自分にしっくりくる武術を見つけられていない俺は、この構えを半ば冗談めかして**「無式」**と呼んでいる。どの流派も悪くはなかったが、「これだ」と思えるものは一つもなかった。
俺たちの間に、張り詰めた緊張が走る。
静姝は目を細め、俺を睨んだまま足先で地面を軽く叩いた。
肩を回し、体をほぐす。
――来るな。
そう思った通り、静姝は待つということをしない。
俺よりも、彼女のほうがずっと短気だ。
戦いというものは、ただ殴って蹴ればいいという話じゃない。
真の武の達人は、相手を冷静に見極め、機を待ち、無駄な力を使わず、刻一刻と変わる状況に適応する術を知っている。
それができず、感情に振り回されれば――戦いの流れを失い、あっという間に叩き伏せられることになる。
……案の定だ。
数秒後、静姝は地を蹴って飛び出してきた。
最初の一撃は拳ではない。俺の膝を刈り取ろうとする、低い蹴りだった。
俺は一歩、後ろへ下がる。
彼女の足が大きな弧を描いて空を切る。だが、そこで終わりじゃない。
着地と同時に、その勢いを利用して体を回転させ、今度は胸元を狙った蹴りを放ってきた。
――甘い。
俺は横へ身をずらし、その蹴りもやり過ごす。
反撃することもできたが、あえてしなかった。
「どうして反撃しないの?!」
静姝が声を荒げる。
「する必要がないからだ」
俺は落ち着いた声で答えた。
「こうして避け続けていれば、先に疲れるのはそっちだろ」
その一言が、完全に火に油だった。
静姝は歯を食いしばり、さらに踏み込んでくる。
拳、蹴り、拳、蹴り――連続した攻撃が俺に襲いかかる。
だが、詠春拳は本来、先に仕掛けるための武術じゃない。
あれは反応の武だ。相手の動きに即応し、貼り付き、制するためのもの。
奇襲を受けた瞬間にこそ真価を発揮する。
静姝は今、その使い方を間違えている。
――攻め急ぎすぎだ。
俺はそう思いながら、静かに彼女の動きを見続けていた。
――静姝の動きが、目に見えて荒れてきた。
型は完全に崩れていたが、それでも彼女は十分に速く、十分に強い。
俺が軽やかに避け続けているつもりでも、何発かは隙を突いて飛び込んでくる。
だが、それらはすべて、手の甲で弾き落とした。受け止める必要すらない。
やがて、静姝の呼吸が乱れ始める。
「……もしかして、昨日の夜、俺と梅が一緒に寝たことが気に入らないのか?」
俺がそう口にした瞬間、彼女の顔が真っ赤に染まった。
「当たり前でしょう! 私はあなたの婚約者なのに、それなのに、あな――あな――あなっ……!」
それ以上言わせるわけにはいかなかった。
俺は一気に距離を詰め、彼女の背に腕を回して引き寄せ、口を塞ぐ。
抵抗しようとしたが、もう体力が残っていない。抑えるのは簡単だった。
「落ち着け。ちゃんと聞いてくれ」
そう言って、俺は低く息を吐いた。
「梅とは、昔から一緒に寝てきた。それだけだ。大した意味はない」
一拍置いてから、正直に続ける。
「それに……俺は梅のことも大切に思ってる。将来は、お前と一緒に娶るつもりだ」
俺はもう、男女の違いを理解できる年齢だ。
本来なら、梅と同じ床で眠るのはやめるべきなんだろう。
……それでも、俺たちはやめなかった。
やっていることは、せいぜい口づけまで。
それ以上に踏み込むことは、一度もない。
だから、問題があるとは思っていなかった。
――だが、その言葉は、完全に地雷だった。
次の瞬間、重く、鋭い衝撃が腹に突き刺さった。
「ぐっ……!」
俺はよろめき、息を吐き出す暇もなく空気を失った。
普段なら耐えられる一撃だ。鍛えている。覚悟もできている。
……だが、今回は違った。
完全に、不意を突かれた。
静姝は足を地面につけた。
どうやら、あの瞬間、信じられないほどの器用さで膝を叩き込んできたらしい。
涙を滲ませた瞳で、彼女は俺を睨みつける。
その視線を真正面から受け止めた瞬間――俺は、ようやく自分が決定的な過ちを犯したことに気づいた。
「……静姝……俺は……」
言葉が続かなかった。
「……最低」
その声は小さかった。
けれど、はっきりと俺の胸に突き刺さった。
それだけを残し、静姝は踵を返して訓練場を飛び出していった。
周囲の視線が一斉に彼女の背を追い、そして――まるで火に引き寄せられる蛾のように、今度は俺へと集まる。
無数の視線が背中に突き刺さるのを感じたが、気にする余裕はなかった。
俺はただ、静姝が消えた方向を見つめながら、先ほどのやり取りを何度も頭の中で反芻していた。
……何か、別の言い方があったんじゃないか?
何か、もっと違う行動を取れたんじゃないか?
「……今のは、正直言って最悪だったわね」
そう言いながら、美影が俺のそばへ歩み寄ってきた。
「……分かってる。でも、他にどうすればよかったのか、正直分からない」
俺がそう答えると、美影は困ったように、けれど優しく微笑んだ。
「ここまで怒ってたら、何をしても同じだったかもしれないわ」
そう言って、彼女は俺の肩にそっと手を置く。
「だからね、この件は――私に任せてほしいの」
「……お前に?」
一瞬、眉をひそめたが、すぐに小さく息を吐いて頷いた。
「……そうだな。俺には向いてない気がする。こういうの」
「時間が経てば分かるようになるわ」
美影は穏やかに言った。
「あなたはまだ若いもの。女の心の機微なんて、今は分からなくて当然よ」
……昔から、俺は思っていた。
美影は、ときどき年齢不相応なことを言う。
今もそうだ。
俺を見下ろすその優しくて包み込むような笑顔は、とても同い年には思えなかった。
「……俺、いつか分かるようになるのかな?」
そう尋ねると、美影は一瞬だけ考え込む素振りを見せ――
そして、いつもの悪戯っぽい笑みに変わった。
「全部は無理かもね。でも――だからこそ、私がいるんでしょう?」
その笑顔を見て、ようやく彼女が“俺と同い年の少女”に見えた気がした。




